陸✿ 元 の鞘に投げ捨てられる《もとのさやになげすてられる》
物には限度があります。
城の磨師にそう言われたのは、夜の帳も降り始めた頃だ。
それまでずうっと夕飯を邪羅とおかわりし続けていた。段々と周りから人がいなくなり、やがては夜見も「先に失礼するわ。少し部屋で休ませてもらうから」と一枚の紙切れを謳歌に渡していなくなった。
そうして遂には一人になってしまった。
皆慎ましいのだな、なんて思いながら二刻経った頃に『一』と記された布切れで顔を隠した磨師から、先ほどの言葉を言われた。
名前は一白だったか、じゃあ次のやつは二白なのだろうな。一郎二郎三郎じゃあるまいし。
にしても、まったく急な話ではないか。差し止めるなら少し前に言って欲しい。こちらとしても最後の一口を何にするかなど、予定がある。せめて最後の注文ぐらいは、駄目だろうか。
「終わりでございます」
「あと一口」
「終了でございます」
嫌だとごねてみたが、柏手の合図と共に女中に取り囲まれ持っていかれてしまう。
食後のお茶くらい残してくれても。
ろうそくの火まで落とさなくとも。
「謳歌様、かなりの量を食べられましたが、お体に障りなどありませんか?」
いっぱい食べたくらいで、何を重要そうに話すことか。そんなに体は弱くないけれど。
「なに、おかわり? 良いならお願いするぜ」
「……いや、もう良いです。あれだけ食べてそんな戯言が言えるのか。極めて異常でございますよ貴方は」
一白は、ごそごそと自らの懐を漁る。
「ではこちらの地図に従い指定箇所へ、貴殿には本日から仕事を始めていただきますので」
道順が書かれた簡易な地図を渡され、さあ立って立ってと急かされる。
「ええー」
【これだから人間はな】
最初から言われていたら従うのに否やもない。
でもいくらでもって言ったしなぁ。
「あまり我儘が多いようであれば、報酬を払えなくなりますが」
「くぅ、やる気でてきたぁ! 食い物が良かったからなぁ」
【今晩は勘弁してやろうではないか。毎日食事が出るというとったしな】
「確かにっ! 明日の朝は何刻からになるんだ?」
ちらっと一白を見ると、無言で顎をくいっとやられた。懐から契約札をちらりと出
される。
覚えておけよ。かならず嗅ぎつけてやる。
大傘を背に下駄を履き、用意されていた虫提灯を片手に外に出た。
周囲はすでに暗い。空に輝く月は上弦を少し過ぎた頃、満月まであと三日といった所だろう。
さまよう警邏兵の虫提灯の明かりの数々と、空を舞う火蛍の明かりが、焚き火で爆ぜた火の粉のようにチラついている。
降る星を目で追う。
そういえば夜見が残した紙切れがあったな。
見れば夜見らしい鋭く角が立った文字で書き込みがあった。
『食事全ての品に伏毒有り、列の一で我々を除き上手く避けていたのは、確認できたのは孔雀丸と二番老磨師のみ。城の関係者には十分注意されたし』
ふぅん……?
謳歌の背中に前足をのせ、紙切れ一緒に覗く邪羅に伺ってみる。
「なんか毒がどうの言ってるんだが、もしかして、さっきの食事の事か?」
【完璧なる愚問だな。あのぴりっとしてたやつの事だ。食事にそこらへんに埋まってたあの黒いドロドロが混じっていただろうが】
「ぴりっ? あー確かに」
なるほど、とぽんと手を打つ。
辛めの隠し味が効いていると思っていたが、あれ盛られていたのか。
【どうせ、気づいてなかったんだろう。まあ、お前の“状態”では多少仕方ないがな。それに我らにはあまり関係のない話だ】
生まれてこの方腹を壊したことがない。だいたい、どうせ食べたってすぐ死ぬようなモノでもないのだろう。
あんな昼間から大量毒殺するほどの馬鹿なら、むしろ退治は楽だ。
とはいえ、少し緩んでいた気も引き締まった。
食べてしまった磨師達には、いっそうの注意をしておかねばならないだろう。
(操る系の奴だと面倒だなぁ。完全に尻尾を掴まねぇと殺るに殺れないしな)
地図を手に取り視線を落とす。
向かう先が丸で示されている。場所は本丸へと続く橋のそばだ。
説明された謳歌の仕事は、確か二の丸及び本丸の一角の警邏である。
「指定された順路の見回りだっけか。あれ、もしかして……全力で走って担当区域を駆け抜ければ時間が余るんじゃないか、おい早く終わらせちまおうぜ」
【見回りの意図を微塵も分かっておらぬのか? まあ正気ならお主にはやらせん仕事だからな】
「失敬な、名指しのご指名だぞ」
【面倒くさがりめが、時間空かせてどうするつもりだ、寝て過ごすのか?】
口角を歪める邪羅に、謳歌は小首を傾げた。
「なにを、寝る暇なぞないだろ。見回りの経路以外もいける場所は行くんだよ。禁止区域以外の全てを回るぞ」
一拍の無言。
邪羅が視線をそむけた。
【……そうか、まあ勝手にするがいい】
何を言っているのだこいつは、しくじればいっぱい人が死ぬというのに。
世話になった近所の人の家族が犠牲になったら、今後どんな顔してお裾分けを貰うんだ。そんな気まずい飯は嫌だぞ。しっかり働く為にたらふく食ったのだからな。
邪羅は、ぺいんぺいんと尻尾を揺らしてそっぽを向いていた。
ちゃりちゃりとなる砂利を踏みしめ、堀に沿うように移動する。
あれもこれもと考えながら歩いていると、やがては土壁木造二階建の番所にたどり着いた。
「頼もうー」
明かりがこぼれる引き戸をピシャリと開ける。中には見知った顔が二人いた。
「お、来たか揃ったな」
椅子に腰掛け机に向かっているのは、門前や試験の際に会った女足軽である。
奇遇だね、と自己紹介された。名前は『刹那』というらしい。右目の上を走った傷は相変わらずだが、悲観の見えない活力のある顔つきである。
「げ、貴様は」
そしてもう一人は、金髪にけばけばしい黄色と橙色の羽織、八刀を背負った磨師。
確か――
「瑠輝ちゃんにタコられた、脆弱丸だっけか」
思い出したと指を指す。
「妙な間違え方をするな、孔雀丸だ。なーにを術無しの傾楽木が偉そうに言う。見たぞ貴様も岩碌に処されていたじゃないか」
孔雀丸は木の椅子から勢いよく立ち上がり、両手の平を上に、そばかすのある鼻面をつんと反らしている。
術無しのあざけりには一瞬むっとしたが、先立って名前を間違えたのは自分である。流石に謝るのが筋だろう。
「そう怒るなよ、すまんすまん。孔雀丸な、覚えたぞ孔雀丸。だからそんなケンケンするなよ雉みてぇにさ」
「孔雀だ!」
「まあまあ言葉のあやだって、あややーってなもんで」
「はぁ、噂通りのうつけだな。羽根より軽いんじゃないか」
なんだこちらから寄り添っていったというのに、ずいぶん不満そうだ。
これ以上突っかかってくるようなら、必殺、右腕殴打の術を発動するしかなかったが、幸いにも「まったく」と鉾を収めてくれた。
横にいた邪羅が【おい】と謳歌に言った。
「なんだ」
【今のはさすがに手前に非があるぞ、オレに言うように他人に喋るな鼻垂れが。少しは反省しろ、厄介の元になる】
バチリと窘められた。
「え、そうか? ふぅん、そうなのか……」
少し考え、孔雀丸に正面向いて頭を下げた。
「申し訳なかった悪かったよ孔雀丸」
「は? お、おう」
戸惑ったように頷き、勢いが小さくなった。
こういう時の邪羅の指摘は、悔しいが正解なことが多い。謳歌の経験上、大人しく聞いておくのが吉である。
様子を伺っていた刹那が「もういいか」と話の折をつけてくれる。
「式神に諭されている磨師など初めてみるよ。まあ良い、これから二人は、一組で夜の警邏に出てもらう。経路はすでに孔雀丸殿へ説明してあるからそちらに従うように」
孔雀丸を見るとすごい睨まれたが、別に嫌だとも言わない。
試しに声をかけてみる。
「じゃあよろしくな、孔雀丸」
「よろしくはしない。だが案内はする。僕は仕事は手を抜かないからな」
へそは曲がっても、性根は曲がっていない。
なんだよ、結構良いやつだ。
「それと――」
トントンと机を刹那が指で叩く。
「基本的に武器を抜くのはご法度だからな。ただ危険があった場合には許可する。ついて回るわけにはいかないからな、緊急時は自己判断をしてくれ」
本丸内の警邏まで、良いのか。
こちらの考えを腑に落ちない雰囲気で察したのか、門兵刹那が付け加えた。
「お前ら見回りは天守だけだからな。一階から五階までを一回りして、異常があったら報告してくれ。今日は六階の最上階と同敷地にある表と裏御殿には絶対に入っては駄目だ。契札も発動するし、即首になるよ」
女にしては少し荒れた手で、刹那は己の首に手刀をトントンと当てる。
「あー後、庭にある“食料蔵”は今回は経路から外しているから。入ってもお咎めはないけど、行かなくて良いからな」
へえ、ふぅん。
興味深そうに頷いていると、刹那は指をぴっぴと謳歌へ向けて振った。
「良いかい、そもそも敷地に入れるだけ特別なんだよ。今回の一番〜十番、特に一番は磨道連に強く保証されている者達だけで選出されている。木ノ宮はそれだけ磨道連を信用しているという事なんだから」
それを聞き、正面の孔雀丸がこちらを見てすごい形相をした。
「傾楽木がか? ここ半年だけで数件の破壊事件を起こしてるうつけだぞ」
「うるせぇな。端っこだけだろうがよ。いやあ日頃の行いかねぇ。やはりお天道さまは見てくれているってことだ」
はははーと笑うと孔雀丸は地団駄を踏んだ。
「全壊だけで数件だぞ。貴様の行い一つで世間様からの目も厳しくなるのだからな。くそぉ、どうせ芹殿の言が効いているのだ。なんで貴様なんかがあのお方に、芹殿は貴様を甘やかしすぎていると評判だ」
「評判か、男に褒められてもなぁ」
「その鼓膜は長屋の障子紙かなにかか」
キンキンとやかましい。
まあうちの邪羅がいつも口うるさいから、竹輪のままだったかもしれないな。
「はいはい、わかったわかった。よし、働くぞ」
「おい、向かう先を知らないだろ、勝手に進むな」
良い奴だけどうるさいのが増えたな。
二の丸の敷地を提灯片手に、大して会話が弾むでもなく孔雀丸と一周した。
昨日の今日なので、警邏の人数も多い。こんな中で、何かが起こる可能性は低いだろうと孔雀丸は言っていた。
さてもう一周とした際には、さすがに孔雀丸も暇になったのか、つらつら自分の武勇伝などを語り始めた。相槌を雑に打っていただけなので、正直ほとんど覚えていない。
でかい妖魔をばっさばっさ的な事を言っていた気がする。
わーつよーい、と棒読みで繰り返す絡繰になり始めた頃、本丸への巡回の時間になった。
二の丸の待機所横の橋へと差し掛かると、刹那がこちらを待っていた。
「時間通りだな。じゃあ城内も頼んだぞ、だれも見てないからと言って悪さはするなよ」
ひらりひらりと手を振られた。
橋の半ば、邪羅が不愉快そうに鼻を鳴らした。
【誰も見てないなどよくほざく。屋根の上、塀の側、三階見張り窓と、後ろの影からついてくる輩と、警戒の臭いがくせえくせえ】
え、え?
周囲を確認しようとするまえに、邪羅に【普段通りにしろ】と注意された。孔雀丸も、表情を変えず邪羅の言葉に同意する。
「へえ、僕は三人までしかわからなかったけど。傾楽木の式神はやるものだね」
「そうだろ、最近はそこそこやるよこいつも」
【なんでお前が自慢気なんだ】
そりゃあ、飼い犬の手柄は主のものだからな。
本丸に入る門前までくる。
闇に紛れる紺色の足軽鎧を着込んだ、兵二人が待機していた。
その手には錫杖にも似た槍が握られている。
(気配隠匿と、儀礼杖、両方とも術具か、流石に装備も豪華だねぇ)
城との境界、門は扉こそ閉まっていないが霧がかかったように先が見えない。
結界か。この分だと城を囲むように貼られているのだろう。
孔雀丸と共に磨師の飾りを見せる。
「確かに、本物だ」
「双方通って良い」
門番それぞれから許可が出る。
兵が槍を少し持ち上げ、石づきを同時に地面に打ち付けた。
しゃ、ん
輪状の遊環が音を立てると、朝露を払う春風に吹かれたように、霧が消失した。
孔雀丸と横並びで境界を跨ぐ。敷地に足を踏み入れた途端、虫の音が静まり返り、一段階空気が冷えた。
うむ、涼しい。
「じゃ、じゃあ進むか」
神妙な顔で孔雀丸が唾を飲む。手にした地図を開き、右へ左へと指を向けた。
「目の前が天守、向かって右手前に食料蔵奥の建物が御殿、さらに奥に警備の先に裏御殿がある。左には武漢の道場と、馬小屋、井戸、茶室だな。さっきも言われた通り僕達は天守を見回る経路になる」
この短時間で間取り図を読み込んだのか、真面目だな孔雀丸は。関心しながら、謳歌は前方の一番大きな建物を見上げる。
「昔、殿様とかお偉いさんは、城のてっぺんに住んでるものだとばかり思ってたんだけどなー」
「天守閣のことか? 見た目は立派だが、武器庫や詰め所や、物見櫓や、大台所があるでかいなんでも倉庫みたいなものだからね。一応五階は行事用六階は儀式用で特殊な作りしているらしいから、特別な催しはそこでするそうだよ」
まあ実際、六階もあって上に住んでたらそれはそれで不便か。
そして、食料蔵は右ね。
「何してるんだ傾楽木、行くぞ」
孔雀丸に急かされ、天守へと入る。広がる土間で下駄を脱ぎ上がる。
年季の感じる梁を見ながら武器や甲冑が並ぶ大広間を抜け、左右に伸びる廊下へ入っていく。
廊下はそのまま屋外に隣接する縁側のような造りになっており、天守閣全体の外周をぐるりと囲むように続いている。
廊下を進むごとに床がぎしりと鳴く。
内部の装飾は、外に比べると簡素なものだった。障子が貼られた襖が並ぶ。部屋の殆どが暗い。
客間や茶間、家臣の寝所もあるのだろう。時折明かりが灯されている部屋もあったが、謳歌達が廊下を通ると気配を察してか、声音が潜んだ。
一階を半周ほど進んだが、誰にも会わなかった。時折人の気配がするのに姿が見えない。
無言でひたひた歩いていたが、孔雀丸がきょろきょろと周囲を見ながら、小声で話かけてきた。
「傾楽木よ、そういえばお前、体調とか変わった所ないか?」
「なんだいきなり。んー、強いて言うなら腹が重たいくらい、かな」
「腹……それは、大丈夫か?」
警戒したように、孔雀丸が一歩間合いを外す。
ああ、確かこいつも食べなかったのだったか。
「そう警戒するなって、俺は人より体が頑丈だからな、例え“毒を盛られても”大丈夫なんだよ。ただの喰いすぎだ」
へえ、と孔雀丸は見直したように目を見開く。
「そいつは便利だな。すまないね、僕は少し“勘が良い”んだ。なんとなく、害がありそうな物がわかるせいで、ちょっとピリピリしててね」
孔雀丸の言葉通りに受け取るならば、毒の内容すら知らぬまま避けただろうか。
詳細はわからないが、少し孔雀丸からの警戒が和らいだ気がする。
「まあ、警戒するにこしたことはないしな。と、そうだ話をしていたら思い出して厠に行きたくなってきた。どっち行けば良いよ」
謳歌が訊くと、孔雀丸は間取り図を確認しながら廊下の先を指した。
「ここをまっすぐ、地下への階段を降りて一番目の右の扉だ。間違っても奥には行くなよ、牢屋なんかがある。そこは僕達の管轄じゃない」
「だーいじょうぶだって。じゃあちょっくら行ってくるからよ」
さっと手を上げ小走りで向かうと、邪羅は嫌そうな顔で後ろを着いてきた。
〓◇〓
なんて呑気なやつなのだ。
孔雀丸は、いたって陽気な様子で厠へ向かう謳歌に呆れの感情が湧いた。
一体どういう心境であれば、あそこまで無防備でいられるのだろう。
周囲を見る。
人っ子一人いない廊下、月明かりしかない暗闇。
嫌な空気である。
かなり自分の神経が過敏になっていると感じる。それも当然だ。先ほど謳歌が言ってたが、食事に毒だぞ? それも木ノ宮の場内の話だ。
冗談ではない。
普通なら眉に唾塗って、即座に唾棄するような話である。しかし自分の勘が、当たらずとも遠からずだと告げている。そして同時に、謳歌という男が敵ではないという確信があった。
虫の知らせ。
それは決まった式神をもたず、近くの虫を広く浅く使役することで得られる命綱。
詳細な情報は取れずとも、極めて広範囲の僅かな集合知が、勘という不確かな感覚となって危機を知らせてくれる。
何度これで命を拾ったかわからない。
その勘が、ここ最近ずっと警鐘を鳴らしている。
いま、ぎちぎちと虫の音が急かしてくる。強弱あれど、そこら中で反応していた。
例えば、長い廊下の先。
トン、トン、ト……ト
謳歌かな、そう思ったが違った。
曲がり角から、朱い球体が転がりでてきた。
(蹴鞠、なぜこの時間に)
小さな足音。追いかけるように子どもが出てきた。
おかっぱで、色白で、背の小さな少女。
転がった蹴鞠が柱に当たり、孔雀丸の方へと向きが変わる。
とてとてとて
走りよる少女の白い顔、唇の鮮やかな赤がやけに目についた。
悪寒。
ぞぞぞと背筋から首筋へと這い回る。
逃げろッ!
すべての勘がそう告げている。即座にそれに従い背後に飛び退ると、背中がドンとなにか大きなモノに遮られた。
振り返ると、見知った姿があった。
僧衣にも似た衣服を着込んだ見上げるような巨躯、巌のような顔と、背中に背負った金棒、国坊 岩碌であった。
その岩碌が、孔雀丸の両手を腰ごと両手でがっしりと掴んでいた。
この辺りを縄張りとする磨師同士、孔雀丸も知らない仲ではない。
「岩碌、離してくれないか、すぐに」
前から近づいてくる少女、焦って振り払おうとするがはずれない。
「どぉしたというんだ、孔雀丸殿ぉ。」
にかり、と黄ばんだ歯をむき出しに岩碌が笑う。
充血した白目、ギョロギョロと動く眼球。
「ここは良いぞぉ、皆はとても親切でぇ、よぉおくしてくれるぅ」
網膜の奥に、うねうねろ蠢くナニカが見えた気がした。
まずいまずいまずいまずい!
油断した。だめだ、殺せ。動けない!
前からくる少女は眼前に迫ってきている。
開かれた双眸と口内が、闇夜のせい真っ黒に塗りつぶされているかのよう見えた。
「く、くるな、こっちにくるでねえぇえ」
絞り出された声は掠れ、普段は隠している方言がでてしまう。必死で振り回そうとした手すらも、満足に動かない。
(だめだ、誰かっ)
目をつぶろうとした瞬間、おかっぱの少女の背後に何かが見えた。
揺れる黒髪、はためく朱色の着流し。尻尾を振って後追う黒狼。
「ぬおおおおおお」
全速力の傾楽木謳歌は、とんでもない速度で走ってきて、
「とうッ」
飛翔した。
かっ飛ぶような速さ、そのまま少女の頭上を飛び越える朱と黒。
「怪しい奴め、正体を現せえええええええええ」
メギョぉっっ。
おおよそ人から鳴ってはいけない音がして、岩碌の顔面に蹴りが炸裂。そして謳歌の後頭部めがけて、邪羅が【ぶはは、ついでに死ねぇ】と頭突きかます。
試験の時にも似たようなの見たなぁ。
両腕が勢いよく開放された。背後でとんでもない轟音が聞こえる。
振り返ると、謳歌が自分の後頭部を擦りながら、倒れた岩碌の頭をガンガン踏みつけている。邪羅は岩碌の足に噛みつき、ぶんぶんと振り回している。
「はは、おら現せ! ……さあ、そろそろ現せ! おいでー、え? 勘違いかこれ。まさか辻切った、まずいって怒られるじゃん俺が。おねがい現してぇ」
【面倒だ、もう食い殺して知らぬふりで押し通すか】
「やむなし」
無しどころか皆無だ、倫理観がな。
勘弁して欲しい。感謝していいのか、怒っていいのかわからなくなる。
そう言えば、と正面に視線を戻すも、あの少女の姿はなかった。
消えていた。きれいさっぱり、なんの跡すら残さずに。
ひとまず後で考えるか、とりあえず今はこっちの問題を解決せねばならない。
「おい傾楽木、やめろ無理やり押し込むな」
気を失っているであろう岩碌の体を、縁側に下にぎゅうぎゅうと押し込んでいる謳歌である。邪羅はそれをどうでも良さそうに眺めていた。とりあえず孔雀丸はワタワタと止めに入った。
〓◇〓
「なあ孔雀丸さぁ。こいつもうこの辺りに放置しねぇか、起きないぜこれ」
中庭にごろりと転がる岩碌の巨躯を、謳歌は下駄先でつんつんと突く。
ちょっと強く蹴り過ぎたか。
「やりすぎだよ傾楽木、助けられて言うのもなんだが私怨が入っていないか」
言って、孔雀丸は扇刀を操り岩碌の服と地面に縫い付けていく。
声も小さく落として、色々と警戒しているようだ。謳歌も合わせて、声を潜めて話した。
「いや一応誰か確認して、こいつ丈夫そうだし死なねーだろってギリギリ狙って蹴ったぜ」
「狙うなよ……まあ確かに丈夫ではあったな生きているし。むしろあの音が鳴って頭が胴に付いているのが、僕には理解できないよ」
人間やめてる可能性もあるけれど。
岩碌の傍らにかがみ込む、口を半開きに白目を剥いたその顔を覗く。
ふむ、むさ苦しい。
「男の顔みてもつまらんなー。邪羅なんかわかるか?」
謳歌が訊くと、邪羅は後ろ足でぼりぼりと顎を搔き唸る。
【噛みついた時に、血から薄く咎の臭いはしたぞ、食事で入った分だろうよ】
「抜けるか?」
【いや、面倒に心臓か脳あたりに浸透して紛れておるな。いまのオレには、そんな器用な真似はできぬよ】
そら困った。
どうしたものかと首を捻っていると、孔雀丸が会話を聞きつけ目を剥いた。
「咎ってまさか咎頭か? 世間話するみたいに重要なことを話さないでくれ。それに食事に混ぜものが原因となると、毒持ちか、洗脳型か寄生型か……だが一刻の猶予もないってことになるぞ」
孔雀丸は、顔を真っ青にして額に汗を浮かべている。
この様子からすると、咎頭との戦闘経験はあまり多くはなさそうだ。まあ数が少なく滅多に現れないし、現れれば経験豊富な磨師を五人以上揃えて即討伐が基本だから、人によっては殆ど会う機会がないのか。
緊張しているようで、孔雀丸は一人ぶつぶつと思案を続けている。
「しかしまずいな、契約で外に応援を呼べないのに、我々だけで対応するのか、一番怪しいのは先程の少女だが行方が……」
こりゃ駄目そうだ。
難しく考えすぎるのは、咎頭を相手にする時はあまりよくない。奴らは非常に陰険なので、考えれば考えるほど術中に嵌まることが多い。
謳歌は、少し迷ったが孔雀丸に助け舟を出すことにする。
「なあ、お前が試験時に戦った美人の磨師覚えているか? 瑠輝ちゃんって言うんだが」
その名前を聞き、思考に沈んでいた孔雀丸が顔を上げた。
「美しく強いお嬢さんだったからね、当然覚えているさ」
キラキラと目を輝かすように、孔雀丸が表情を明るくした。
なんかムカついたが、そんな状況でもないので我慢する。
「気軽に手を出したら両腕へし折ってやる」
「いきなりなんだっ」
おっと本音が漏れてしまった。
ぎょっとした孔雀丸は「そんなことするわけないだろ」と狼狽えている。
「じゃあいいが、瑠輝ちゃんもこの件に気がついているから、お前も協力しろな。あともう一人老いぼれの磨師が免れたと訊いたが、俺は面識がない」
「老いぼれ? ああ、唐墨簾のことか。玄界所属の磨師だ。かなり腕がたつ。変わってるけど、話せばわかる爺さんって話で……ん?」
孔雀丸がぴくりと廊下の先に視線をやる。邪羅はすでに気がついていたのか、見下すように同じ方向を睨んでいた。
暗闇に浮き上がるように、白い人影達が現れる。
斑花の家紋を付けた白い絹で顔を隠した女中二名と、見覚えのある顔を隠す白い一の布を被った磨師、一白の姿だ。
音もなく近づいてきた一白と女中が、倒れた岩碌を挟むように謳歌の対面に立つ。
「おおよその事情は報告をうけてございます。後片付けと調査はこちらで済ませておきますので、警邏の続きをお願いします」
見張りから報告を受けているにしては、随分事務的な対応だ。
勝手に告げると、岩碌の巨躯を一白と二人の女中ひょいと持ち上げた。
「では、これにて」
去ろうとする一白達の背に、孔雀丸が声をかける。
「おかっぱ頭の少女がいたと思うが、あれはどこ家の子だろうか」
一瞬だけ足を止めた一白は、振り返りもせずに答えた。
「家臣の子などいくらでもございますので、それだけでは何もお答えできかねます」
答える気はないらしい。
一白と女中は、静かに闇へと消えていった。
静まり返る空気の中で、孔雀丸が身を震わせる。
「なあ傾楽木、味方は随分少ないみたいだな。お互い気に食わない部分もあるとは思うが、ここは一つ協力しないか」
ずいぶんと気持ちの良い言い方をするものだ。そもそもこちらは最初から孔雀丸に嫌な気持ちはない。
「ああ、よろしくな孔雀丸」
謳歌は笑って手を差し伸べた。組んだ当初より、ずいぶんと仲良くなれた気がする。気持ちを新たに、警邏の続きを行うことにした。
その後は特に問題もなく担当範囲を回りきり、やがて時刻となった。
「僕は少し部屋で休むが、傾楽木はどうする?」
「俺か? ちょっと気になる場所があるからそこを見回ってくる。まだ元気だしよ」
「はは、随分真面目なんだな。君のことを、僕は少し誤解していたみたいだね」
微笑んだ孔雀丸の表情には、信頼が滲み初めているようにも見えた。
なんだか少し、嬉しくなる。
謳歌は胸を張って「まかせろ」と言ってやった。
そして時は流れ、数刻後である。
夜もまもなく明けようかという頃合いだ。
謳歌はいま、城の東にある蔵の中にいた。
表情を引きつらせ、背筋をピンと伸ばして冷たく硬い床に正座している。
「足が、痛くて」
「黙りなさい」
眼前には仁王立ちする一白がいて、体から湧き上がる感情を抑えきれぬように少し震えている。
絞り出すような掠れた声で、一白は嘆く。
「なぜ、こんなことを?」
腕を振り、そら周りを見ろと示される。
謳歌も釣られて周囲を見る。広い地下室にはなにもない。すっからかんである。
いや、確かに犯人は自分である。しかしこちらにも事情があった。
瑠輝の手紙もあり気になっていたから実際に食料庫にきてみれば、味を覚えていた邪羅が、舌で全てに呪泥が仕込まれていると察知した。
朝になれば食事となりさらに被害が広まるだろう。しかし捨てるのも危険だ。燃やすのも普通に危ない。
城には知り合いだって働いている。その子供は豆粒たちの友達だ。そのままにはできない。
最小限の被害で処理するにはと考えた結果、謳歌も手伝い、無限に食える邪羅に喰い消してもらうことになった。
幸いにも、食料蔵に入ることは禁止されていなかったし、食料消してる時に契札も発動しなかったから、最悪命をなくすような罰はくらわないだろうと打算もあった。
本当の事はこの場では言えない。
この一白も敵かもしれない。こちらが気づいていると悟られるよりも、馬鹿のふりで誤魔化しておいたほうが、瑠輝たちも動きやすいだろう。
「いやぁ、前の食事で悪くなってたのがあったから、気になって見に来たんだよ。そしたらどうだ、やっぱり腐ってて処分した。でも捨てるのはお百姓様に失礼だろ? 俺等は頑丈だからさ、かーくそ、これはもう致し方なしってなあ邪羅」
【我、式神故、命令に従うのみ、逆らえなかた、げっふ】
「――ッ」
邪羅の吐き散らかした盛大なゲップに、多分幻聴だけれど、一白の歯軋りのような音が聞こえた気がする。
「食材が、悪くなっていたという証拠は?」
言われ、見回す。在るわけがない。
駄目だ思いつかない。仕方ないので、謳歌は自分と邪羅の腹を指して「でへへ」と笑う。
一白も、ふはっと笑った。
「……んです」
「え?」
小さなその言葉を聞き返すと、一白は頭を抱え言った。
「解任です。私の権限でこの場で決めます。これは覆らない」
ええ、困る。
懐をまさぐり契約札を取り出し、一白が続ける。
「食料庫に入るまではまあ良いでしょう。しかし食料の在庫をすべて食い尽くすなど、狂気の沙汰です」
困惑したように「見張りまで振り切って」とふるふると首を振る。
「本当に……私からどう上へと報告しろと。契札の自動判定はこういうわけのわからない事態には役に立たない……しかし城に実害が出ているのは事実、任意発動の縛りにより命力の封印はさせていただきます」
いやいや、またまた。冗談言ってね。
お上はこれだから、お戯れを!
かー、洒落がきいてるねぇ!
そんな契約札光らせちゃって、やめときましょうや。
やめようね、ね?
迸る閃光。
「ぬわあああああああああああああ!」
【は、オレもか? ぬぐううううう】
発動した契約札により、体内の命力が抑え込まれ、体が重くなった気がする。
「本当に、残念です」
そう言って、一白は謳歌の体を縄でぐるぐるまきにして出ていった。入れ替わりに顔見知りの刹那が入ってきて猿轡をされる。同じように大人しく巻かれていた邪羅と一緒に、よいしょと荷車に載せられてしまった。
荷車を引きながら振り返った刹那は、しぶい呆れ顔だった。
「傾楽木さ、なんでこんな馬鹿な事をするんだ。建物破壊しなきゃ良いってわけじゃないんだよ。私はいま、なんで君の首が落とされていないか、心底不思議に思っているからね」
物理的に言い返せない謳歌は、ぷりぷりと怒る刹那の言葉を黙って聞きながら、えっちらおっちら運ばれていく。
その間もずっと刹那は文句を言っていた。
途中まで期待していた、だとか。
追い出さなきゃ、収集がつかないから仕方ない、だとか。
このあと一白の立場も妖しくなる、だとか。
やたらと輪郭のはっきりとした愚痴を聞かされた。
「だー、重かった」
三の丸の門から外にゴロンとひっくり返された。
頭を打ったので、とりあえずムームー文句を言ってみる。
木橋の上に転がる謳歌の前に、刹那はやれやれと屈み込む。切り傷が目立つ右眉をぐっと上げ、謳歌の額がべしりと叩かれた。
「期間が終わるまでは、まだ契約の縛り自体は残っているから気をつけるんだぞ。仕事内容を外部に話したり、外の人間に城内の話や契約内容を話したりしたら、本当に命落とすから、わかってるよね」
真剣に注意を促された。
はい、と素直に頷いておく。
刹那はふっと表情を曇らせると、眼尻を下げた。
「なあ、そろそろ祭りの日が近い。この数日の間に街中も騒がしくなるかもしれない。外に出てしまう事はもう仕方ないけれど、もし君が良ければ四王桜や街の様子に気を配っていてくれないかな。多分城から派遣された磨師達が回っているとは思うけど、目は多いほうがいいだろ?」
残念そうで、どこか悲しそうな表情で言われた。閉められていく門を謳歌は眺めることしかできなかった。
門が閉まる直前、一体どこから聞きつけたのか孔雀丸がやってきた。
派手な髪を振り乱すようにして、彼は門の隙間から信じられないという顔を出し叫んだ。
「おい巫山戯るなおい。一人にするなよっ。このぉ、なにが誤解じゃ、うつけすぎるんだよ馬鹿野郎おおおおお」
いやぁ、面目ない。
言い返すまもなく、城への道は固く閉ざされた。




