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健康すぎる私が医療事務に!?  作者: りむ


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26/27

#26 二人ならちゃんと手が届く

朝8時30分。自動ドアが静かに開く前の受付カウンターには、まだ張り詰めた空気が漂っていた。

紬は制服に袖を通し、手のひらをぎゅっと握る。心臓が少しだけ早く打っているのを感じながら、受付窓口に立った。隣では沙耶も制服姿で背筋を伸ばし、緊張した面持ちだ。

二人の胸元には、昨日配られたばかりのプラスチック製の瑞々しい若葉マークのバッジがピンと留められている。


「大丈夫。これを付けていれば、そう大きなトラブルにはならないからね」

愛美が二人の胸元のマークを愛おしそうに見つめながら、柔らかい声で言った。


「患者さんもね、それを見れば『あ、一生懸命がんばる新人さんなんだな』って分かって、少し優しくなってくれる魔法のマークなの」


「それに、私たちもちゃんと隣にいるから」

背後から書類を整えながら、葉月も静かに、けれど確かな安心感を与える声で続けた。


「最初は“聞く”だけでいい。患者さんが何に困っているかを見つけるのが、受付のいちばんの仕事」

「はい……!」

紬と沙耶は顔を見合わせ、小さく深く頷いた。

胸の中のざわつきが、先輩たちの言葉で不思議とすとんと落ち着いていく。


間もなくして自動ドアが開き、最初に来たのは高齢の女性だった。

「最近、足がむくんで……歩くと息切れもするのよ」


紬は頭の中で診療科を思い巡らせる。息切れは呼吸器内科……? でもむくみは……?

隣にいる愛美に小声で相談すると、愛美は穏やかに答えた。


「“むくみ”と“息切れ”がセットなら、循環器内科の可能性が高いよ。心臓のポンプ機能が落ちて、血液の流れが滞ることで体の末端に水分が溜まりやすくなるの。患者さん本人は“ただの疲れ”くらいにしか感じていないことも多いんだけど、実は心不全の初期症状ってこともあるんだよ」


症状と診療科を結びつけること。これができれば、患者さんに的確に案内できる。

受付が単なる案内係ではなく、医療の知識と直結していることを、紬は初めて実感した。


紬が診療科マップを指でなぞりながら案内しようとすると、女性は「ごめんねえ。これ出すのを忘れてたよ」と微笑みつつ、カバンから循環器内科宛ての紹介状を取り出した。


「あっ!? 紹介状をお持ちだったんですね? 確認します、少々お待ちください!」


女性から保険証と紹介状を預かり、まずは「診察申込書」に住所や連絡先を記入してもらうよう案内する。

さあ、ここからがデータ入力だ。紬はパソコンの前に座り、患者の名前『夏木はる』と生年月日をシステムで検索した。


(あ、すでに患者IDがある……?)


画面には、すでに「なつきはる」の名前で既にIDが作成されていた。

しかし、名前は平仮名のままで、住所や既往歴も何も書かれていない。

一瞬戸惑った紬の脳裏に、初日に愛美から受けたレクチャーが鮮明に蘇る。


『“下の名前”・同じ生年月日でヒットしたら、必ず過去の内容や住所、保険情報を見て“同一人物かどうか”を判断してから進めてね。で、もし“同じ人”なら、新しくカルテは作らずに、今の情報を上書き。』


紬はゴクリと唾を飲み込み、患者が記入した申込書の内容と、電子カルテ画面の患者情報を厳密に照合する。

「……ぴったり同じ!」


まさに今、下の名前と生年月日が一致しているIDが見つかった。さらに、申込書に記載された電話番号と、既存のIDに登録されている電話番号も一致している。

理由はわからないけど、同一人物で間違いない。

念のため、愛美に確認をする。


「うん、正解! 紹介患者さんの中にはね、地域のクリニックの先生から事前に電話で予約が入ることがあるの。そのときに、うちの電子カルテに名前と生年月日、電話番号の情報をもとに患者IDを作成しておくんだよ」

「まだ来てないのにですか?」

「事前に送ってもらった紹介状を取り込んだりするからね」

「あっ、確かに。なるほど〜」


紬の手によって、夏木はるさんの正式な初診カルテがシステム上に登録された。

愛美が手際よく紹介状の入った封筒をクリップでカルテ用紙に留め、紬に手渡す。


「よし、この確定した患者IDと紹介状を持って、急いで地域連携室の水瀬くんのところへ持って行って。事前の情報共有をお願いしてきて」

「はい!」

紬は預かった書類を抱え、昨日覚えたルートを早足で駆け抜けた。

地域連携室のドアを開けると、相変わらずエナジードリンクの缶を傍らに置いた水瀬が、猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。


「水瀬さん! 循環器内科の紹介患者さんです! 夏木はるさん、ID登録完了してます!」

「お、早いね。ありがと」

水瀬は視線を画面に向けたまま書類を受け取り、素早くチェックする。


「うん、事前のFAXは来てない完全な当日紹介だね。こっちで紹介状のスキャンと連携の処理回すから、医事課側は外来への案内進めて。愛美さんに『水瀬が秒で処理した』って伝えてね」

「あ、はい……!」

相変わらずの毒気とスピード感に圧倒されつつも、つい先日教わった「二重カルテの防止」と「連携の矢印」が、今まさに自分の手で完璧に動いたことに、紬は胸の奥が熱くなるのを感じた。


一方、医事課の窓口に戻ると、隣のブースでは沙耶が若い女性を迎えていた。

「どうされましたか?」

「あの、1ヶ月くらい前から、コンコンっていう乾いた咳がずーっと止まらなくて。呼吸器内科とかで診てもらったほうがいいんですかね……」

「あ、はい、咳ですね。呼吸器内科は……」


沙耶はすぐに案内しようとしたが、昨日読んだノートの一節が脳裏をよぎった。


(待って……咳って言葉だけで呼吸器って決めつけちゃダメ。まずはのどの状態や、他の症状がないか、もう一歩踏み込んで聞く……!)


沙耶はゴクリと唾を飲み込み、手元をぎゅっと握りしめて尋ねた。


「秋山さん、その咳以外に何か気になることはありませんか? 例えば、のどの違和感とか、鼻水とか……」

「のど? ああ、そういえば、のどの奥にずっとネバネバした鼻水が落ちてくるような感じがあって、それを切ろうとしてコンコン咳が出ちゃうんです。横になると余計にひどくなるというか」


(鼻水がのどの奥に……後鼻漏だ……!)


沙耶の脳内で、パズルのピースがカチリとはまった。


(鼻水がのどの奥に垂れ流れることで気道を刺激して、慢性的な咳を引き起こしている。原因は肺じゃなくて、鼻やのどにある。だったら……!)


沙耶はパッと顔を上げ、確信を持って微笑んだ。


「秋山さん、その症状でしたら、原因は肺ではなく鼻やのどの可能性が高いです。ですので、本日は耳鼻咽喉科で診てもらうのが一番……」

「木崎さん、ちょっと待って」

すぐ後ろから、葉月の冷静な声が沙耶の言葉を遮った。


「えっ……?」

「火曜日は耳鼻咽喉科の外来、休診日だよ」

「あ……!」


せっかく自力で正しい病態に気づけたのに、曜日ごとのスケジュールという初歩的な受付ルールが頭から完全に抜け落ちていた。

患者さんも「え? 今日は耳鼻科お休みなんですか……?」と困惑した表情を浮かべている。


「だから今日は総合内科で一次対応。急ぎなら内科の先生が診てくれるから」

「えっ……あ、すいません!」

沙耶は一瞬パニックになり、手元のマニュアルをめくる指が激しく震えた。

普段の冷静さが嘘のように、視線があちころに泳いでしまう。


「ええと、総合内科ですね。内科は、その、あちらの廊下をまっすぐ進んでいただいて……突き当たりを右に、ではなくて、患者さんから見て左に……」

声が上ずり、指し示す方向もおぼつかない。

女性も「え? どっち?」と困惑した表情を浮かべている。


見かねた葉月がすっと横から入り、慣れた手つきでファイルを差し出した。

「失礼いたしました。本日は耳鼻咽喉科の専門医が不在のため、まずは総合内科の医師が初期対応をさせていただきます。こちらの用紙をご記入の上、廊下を左に進んだ突き当たりの南ブースにお出しください」

「あ、そうですか。わかりました」


的確で淀みのない案内に、女性は安心したようにペンを取り、待合室へと向かっていった。


患者が離れたのを見届け、沙耶は小さく肩を落とした。

「すみません、葉月さん……。せっかく症状は分かったのに、案内が全然できなくて……」


葉月は窓口の棚からラミネートされた外来担当医表を取り出し、沙耶の前に置いた。

「いいよ、最初は誰でも迷うから。でも、曜日によって診療科の先生が来ていない日があるのは、これから毎日あることだからね。見て、これが各科の担当医スケジュール。火曜の耳鼻咽喉科は誰も担当していないのがわかるでしょ」

「はい。曜日や時間だけでなく、この表で先生ごとの予定を確認するのが大事なんですね。……でも、耳鼻咽喉科の先生って、今日はお休みなんですか?」


沙耶の疑問に、葉月は少しだけ表情を緩めて答えた。

「“お休み”というより、外勤だね。うちの病院の医師は、みんなこの病院“だけ”を担当してるわけじゃないの。火曜日は耳鼻咽喉科の先生が大学病院で手術担当。逆に、木曜にはその大学から別の先生が外勤でこっちに来てくれる、という感じ」


沙耶は一瞬考え込み、ぽつりと呟いた。

「なんのためにそんなことを……? 外来がお休みだと患者さんが困っちゃいません?」

「それはね、医師の“育成”と“地域医療のバランス”のためだよ」


葉月は書類を整えながら、淡々とした声で続けた。

「大学病院は、専門医や研究者を育てる場所。外の現場経験を積ませる必要がある。でも、大学だけでは患者さんの数も限られるし、こういう地域の病院では医師が足りない。だからお互いに医師を派遣し合って、地域の医療を支えつつ、若い医師は臨床経験を積む。患者さんから見れば“先生がいない日”に見えるけど、その裏では“医療のネットワークを回す仕組み”が動いてるの」


沙耶は手元のメモを見つめながら、静かに呟いた。

「……外勤って、“医師がいない理由”じゃなくて、“医療をつなぐ仕組み”なんですね」

ただの休診だと思っていたルールの裏にあるロジックを知り、沙耶の目がきらりと光った。


そんな沙耶の様子に満足したように頷くと、葉月は手元の時計に視線を落とした。

「午前中の受付終了まであと三十分。ここからは駆け込みの患者さんが増える時間帯だから、二人とも気を引き締め直してね」

「はい!」


葉月の予言通り、ロビーの自動ドアが慌ただしく開閉を繰り返す。

午前の診察が終わる前に滑り込もうという患者たちで、さっきまで落ち着いていたカウンターが一気に慌ただしくなり始めた。

データ入力の手を動かしながら、紬は次々と訪れる患者たちの案内に追われる。


(お腹が痛い人は消化器内科、捻挫や骨折は整形外科……よし、だんだん慣れてきたぞ)


自分の案内で患者たちがスムーズに各エリアへ流れていく。その小さな達成感に、紬がほんの少し緊張を緩めた、その時だった。


「ゴホッ、ゴホッ……あの、何日も咳が続くから受診したいんですけど、予約はしていなくて……」

紬の窓口に、激しく咳き込む患者がやってきた。

紬の頭はフル回転する。マニュアルを見れば、呼吸器内科は「予約患者のみ」と記載されている。しかし、目の前の患者さんはとても辛そうだ。


「受付したほうがよさそうですけど、予約のない患者さんを受付してもいいんでしょうか……?」

戸惑う紬の背後から、愛美がすっと声をかける。

「呼吸器内科は完全予約制だから、まずは外来クラークに確認ね。診察枠の空きを確認するのもそうだけど、それ以上に“激しい咳”の患者さんを一般の待合室にそのまま通していいか、看護師にトリアージ(判断)してもらう必要があるから」


紬が内線受話器に手を伸ばしかけた瞬間、後ろから葉月がその手を遮った。


「日下さん、電話をする前に、まずその患者さんにいくつか質問しなさい」

「えっ? でも、早く看護師さんに連絡しないと……」


焦る紬に、葉月は冷静な、けれど教え込むような強い眼差しを向けた。

「ただ『咳がひどい患者さんが来ました』って電話しても、外来クラークは『で、どんな咳?』ってなるだけよ。呼吸器内科が完全予約制にしている最大の理由は、外来の混雑緩和だけじゃない。『感染症のコントロール』のためよ」


葉月はカウンターの陰で、激しく咳き込んでいる患者に視線を投げた。

「長引く激しい咳の中には、結核や百日咳、新興感染症みたいに、空気感染や飛沫感染で他の患者さんに移してしまう病気が隠れている。だから予約制にして、怪しい人は最初から導線を分けるの。今、その予約の網をすり抜けて突発的に患者さんが来ちゃった。だったら、受付である私たちがヒアリングをして、その咳がどれくらい危険なものか、病名のあたりをつけなきゃいけないのよ」

「病名のあたり……?」

紬が気圧される。


「そう。それをクラークや看護師に伝えることで、初めて『じゃあ第二隔離室に誘導して』とか『すぐ診察室に入れて』っていう的確な判断(トリアージ)ができる。……いい? まずは症状、受傷契機(いつから、何がきっかけで始まったか)、そして既往歴(昔の病気)の3つを急いで聞いてきなさい」

「わ、わかりました……!」

「ほら、木崎さんも」

「はいっ!」


若葉マークの胸を少し張り、紬は受付カウンターを回り込んで患者の男性の前に進み出た。

「冬野さん、お辛いところすみません。少しだけ、お話伺ってもいいですか?」

「ゴホッ、ゲホッ……す、すみません、予約もなしに……」

男性はハンカチで口元を押さえ、肩を上下させている。


「いえ! 大丈夫ですからね」

紬は患者と同じ目線になるように少し膝を折り、まずは“普通のヒアリング”を始めた。


「その咳、いつ頃から出始めましたか? お熱は出ました?」

「熱は……最初から全然ないんです。ただ、2週間くらい前から急に喉がイガイガし出して、乾いた咳がずっと止まらなくて……ゴホッ」

「2週間……」


「……あの、失礼します」

沙耶が一歩前へ出て、患者の男性に尋ねた。

心の中で(熱がないのに2週間も咳だけ続く風邪なんてあるのかな……?)と首をひねりつつ、もう一つの質問をぶつけた。


「1日の中で、特に『この時間にひどくなる』とかはありますか? 夜中に咳で起きちゃうとか」

「あ、夜中ってわけじゃなくて……」

男性は少し困ったように眉を寄せ、首をかしげた。


「なんか変なんですけど、家にいて、リビングでテレビ見てる時が一番ひどいんです。今朝も家ではゲホゲホ言ってたんですけど……こうして外に出て病院まで歩いてる間とか、今このロビーに立ってる間は、心なしか少し息が楽なんですよ」


家にいる間だけ症状が悪化するという男性の言葉に、沙耶の鑑別センサーもピクリと反応した。


(もし結核などの強い感染症だとしたら、一緒に暮らしているご家族にも同じような症状が出ているはず……!)


沙耶はいつものぶ厚いノートを胸に抱え、少しおずおずと尋ねた。

「あの……ご家族の中に、最近同じように激しい咳をされている方はいらっしゃいませんか?」

「家族? いや、家内も娘も、全然ピンピンしてますよ。僕だけがゴホゴホやってて、うるさがられてるくらいで……」


(家族に同じ症状の人はいない。ということは、家庭内での飛沫・空気感染の可能性は低い……?)


沙耶が頭の中でデータを組み立てている横で、紬は完全に手持ち無沙汰になっていた。

医学的な難しい質問は沙耶ちゃんに任せるとして、自分に今できることは何だろう。


(あ、そうだ。データ入力を進めるために、保険証のコピーを先に取っておこう!)


「お話の途中ですが、確認のために保険証を一度お預かりしてもいいですか?」

「あ、はいはい。どうぞ」

預かった国民健康保険証を手に、紬は複合機へと向かう。


カシャ、と緑色の光が走り、印刷された温かい紙が出てきた。何気なくそのコピーに目を落とした紬は、ある記載に手を止める。


(あれ……? 住所が『福岡県北九州市……』。九州?)


でも、さっき手書きした診察申込書の住所には、しっかりこの病院の近くの地名が書かれていた。コピーを持ってカウンターに戻った紬は、申込書と保険証を交互に見比べながら、素朴な疑問をぶつけてみた。


「あの、冬野さん、こちらの保険証の住所、九州のままになっているんですけど、今回のご住所はこちらで間違いないですか?」

「ああ、ごめんねえ。実はね、2週間前にこっちに引っ越してきたばかりで、その保険証は前の住所なんだよ」

「えっ、2週間前に、お引っ越しですか?」

紬がペンを握ったまま聞き返す。


その「2週間前」と「引っ越し」というワードが、すぐ隣でノートを睨んでいた沙耶の耳に飛び込んできた。


(2週間前に引っ越し……。家の中にいる時だけ、咳がひどくなる……)


沙耶の脳内で、バラバラだったピースが急激に一つの形を成していく。


(新居……新しい建材、壁紙、接着剤。外に出ると楽になる……)


「……もしかして」

沙耶は小さく息を呑み、おずおずと、けれど確信を持って男性の顔を見た。


「その新しくお引っ越しされたお家って……もしかして、新築の一戸建てか、内装をきれいにリフォームしたばかりのマンションだったりしますか?」

「えっ?」

男性は驚いたように目を丸くした。


「そうだよ! よく分かったね。築浅の分譲マンションを買い取って、壁紙もフローリングも全面リフォームして、ピカピカの状態で入居したんだ。それがちょうど2週間前」


男性の口から「リフォーム」という言葉が出た瞬間、沙耶はパッと後ろの葉月を振り返った。

「葉月さん! この方、風邪じゃなくて、『シックハウス症候群』の可能性があります……!」

「シックハウス?」

紬が素っ頓狂な声を出す。


「はい! 新築やリフォーム直後の家で、建材の接着剤(ホルムアルデヒドなど)の化学物質に喉の粘膜が反応しちゃうアレルギーです。身体の中でバイ菌が繁殖してるわけじゃないので……人に移る咳じゃありません!」


沙耶の少し上ずった解説を聞いて、カウンターの奥にいた葉月の目が、ほんの一瞬だけ「おっ」と見開かれた。

葉月はすぐさま手元のメモ用紙にペンを走らせながら、沙耶に短く確認する。

「熱なし、家族歴なし、2週間前の転居直後から自宅内限定で発症。……間違いないわね?」

「は、はい! 間違いないと思います!」

「上出来よ」


葉月は迷いなく内線受話器を取ると、呼吸器内科のクラークを呼び出した。

「お疲れ様、医事課窓口です。予約外の咳嗽患者さん1名。50代男性、発熱なし。2週間前にリフォーム済みの物件へ転居後、自宅内でのみ乾性咳嗽が激化。外出時は軽減。シックハウス等の環境アレルギー疑いです。飛沫感染のリスクは極めて低いと思われますが、一般待合で案内していいか外来に確認して」


電話口のクラークが「了解、それならすぐ待合通して平気か聞いてみる!」と明るく応じる声が、漏れ聞こえてきた。

受話器を置いた葉月は、ほっと肩の力を抜いた紬と、自分のノートをぎゅっと抱きしめて固まっている沙耶を交互に見やると、ふっと意地悪げに笑った。


「……ま、初めてにしては悪くないヒアリングだったんじゃない?」

「沙耶ちゃん、すごすぎる……!」

紬はたまらず、隣の沙耶の肩をバシバシと叩いた。


「えっ、あ、いや、私なんか全然! 紬さんが『九州の住所』に気づいて引っ越しの話を引っ張り出してくれたからで……!」

「ううん、私のただの確認を、そんな病名に結びつけちゃうの、もう立派な特殊能力だよ!」

「ふふ、二人ともナイスコンビネーション」

愛美がにっこり笑って、二人の若葉マークを指でつつく。


「クラークから『感染症じゃないなら一般待合のソファーでどうぞ』って。ほら日下さん、患者さんをご案内してあげて」

「はいっ!」

紬は弾んだ声で返事をすると、「お待たせいたしました、どうぞこちらへ!」と、男性をソファーへとエスコートしに駆け出した。


「……というわけで冬野さん、こちらの一般の待合ソファーでお待ちいただけますので、どうぞ!」

紬が笑顔でソファーを指し示すと、冬野さんは「ああ、ありがとう。隔離されなくてホッとしたよ」と、激しい咳の合間に安堵の表情を浮かべた。

しかし、紬の仕事はここで終わりではなかった。手元にある、コピーしたばかりの保険証の文字を見つめる。


(福岡県北九州市……。2週間前にこっちへ引っ越してきた、って言ってたよね)


紬は、先輩たちから教わったレクチャーを頭の中で反芻した。

『制度と患者さんの間に立つ“通訳”になりなさい』

ただ手続きをこなすんじゃない。なぜそうなっているのか、相手に伝わる言葉で話す。

紬はもう一度冬野さんの前に少し膝を折り、目線を合わせて、預かっていた前の住所の保険証をそっと両手で差し出した。


「冬野さん、お辛いところ重なるお話で大変恐縮なのですが……こちらの保険証について、大切なお知らせがあります。2週間前に九州からこちらにお引っ越しされた際、前の役所に『転出届』は出されましたか?」

「うん? ああ、引っ越し前日に出したよ。こっちの役所には、今週末に手続きに行く予定なんだけど……それが何か?」

冬野さんが不思議そうに首を傾げる。


紬は言葉を選びながら、ゆっくりと、けれど明瞭に伝えた。

「実は、国民健康保険は『住んでいる自治体』ごとに加入するものなんです。お引っ越しの手続きをされた時点で、大変申し訳ないのですが、こちらの保険証は“資格喪失”……つまり、すでに使えない状態になってしまっているんです」

「えっ!? じゃあ、今日の診察代はどうなるの?」

冬野さんの表情に、一瞬で不安と焦りが走った。


「保険証、手元にあるのにダメなの?」

「はい。今日、このまま受診されますと、一旦は『10割負担』、つまり全額自費での計算になってしまいます」

「じゅ、10割……!?」

冬野さんが小さく息をのんだ。通常の3倍以上の金額を窓口で請求される恐怖。それは健康保険という制度に守られて生きてきた一般の人間からすれば、理不尽なペナルティのように感じられてもおかしくない。


横でそれを見ていた沙耶が、助け舟を出そうと息を吸った。

しかし、紬は怯まなかった。


「でも、安心してください!」

紬は冬野さんの目を真っ直ぐに見つめ、トーンを一段落として優しく微笑んだ。


「冬野さんが支払われたお金が、無駄になってしまうわけでは絶対にありません。今週末にこちらの役所で新しい住民票と国保の手続きをされる際、今日の『10割分の領収書』をお持ちいただければ、払いすぎた7割分のお金は、役所の窓口で全額ちゃんと現金で返ってきます」

「役所で……返ってくる?」

「はい! 今日の10割負担は、国のルール上、新しい保険証が発行されるまでの『一時的なお預かり金』のようなものなんです。冬野さんが正しく新しい町に仲間入りするための手続きの間だけ、少しだけ立て替えておいていただくようなイメージです」


紬の説明に、冬野さんの肩の力が、ふっと抜けていくのが分かった。

「……なるほどな。ただの罰金じゃなくて、手続きの間の立て替え、か。それなら納得だよ。国保ってそういう仕組みなんだね。引っ越したばかりでバタバタしてて全然知らなかったよ。教えてくれてありがとう、お姉さん」

「いえ! とんでもないです。お薬代も同じように一旦10割になりますので、薬局の領収書も絶対に捨てずに役所へ持って行ってくださいね」

「分かった、大事に取っておくよ」

冬野さんはすっかり安心した様子で領収書の大切さを手帳にメモし、ソファーに深く腰掛けた。


カウンターの奥に戻ると、葉月が事務用パソコンの画面を見つめたまま、パチパチとキーボードを叩きつつ呟いた。

「……へえ。患者さんの目線に合わせた、いい通訳だったんじゃない?」

「あ、ありがとうございます……!」

紬は照れくさそうに頭を掻いた。


案内を終えたところで、午前中の受付時間が終了した。


(それにしても……。同じような咳や息切れの症状でも、原因によって、循環器、耳鼻科、呼吸器に分かれるんだ)


(私が『どこ?』を聞いて、沙耶ちゃんが『なんで?』を見つける)


なんだ、一人じゃ全然見えなかった病気の正体が、二人ならちゃんと手が届くじゃないか。案内を終えて戻ってきた紬と、まだ少し照れくさそうに眼鏡を拭いている沙耶の目が合い、二人はお互いに、ほんの少しだけ口角を上げた。

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