#25 ダイエットっていうのは健康のためにするのであって、そのダイエットで健康を損なっているようじゃこの先心配
二人は重い足取りで更衣室へ向かった。
紬がロッカーを開け私服に着替えていると、隣からシャカシャカと衣類が擦れる、妙にアクティブな音が聞こえてきた。
「……え?」
思わず振り返った紬は、目を丸くした。
そこにいたのは、いつもの体型を隠すようなフワッとしたブラウスやロングスカート姿の沙耶ではなかった。スタイリッシュなスポーツブランドの黒いパーカーに、脚のラインがはっきりとわかる機能性レギンス。足元には、クッション性の高そうなガチのウォーキングシューズが鎮座している。
しかし、その服装はあまりにも容赦なく、彼女のリアルな体型を浮き彫りにしていた。いつもは厚い生地の奥に隠されていたお腹まわりは、ピチッとしたレギンスのウエストゴムの上に乗っかっている。
それでも、沙耶の表情には一切の照れがなかった。
「沙耶ちゃん……それ、これから一走り行く感じ?」
「いえ、走るわけではないです」
沙耶は真面目な顔で、姿勢を正した。
「今日は、ここから数駅分、ガッツリ歩いて帰ろうと思いまして。……ダイエットです」
「ダイエット?」
「はい。私、本当に太りやすい体質で……。先日、紬さんに車で送っていただいたとき、シートベルトが少し窮屈に感じて、危機感を覚えたんです。今日から本気で代謝を上げにいきます!」
色白でぽっちゃり体型の沙耶が、並々ならぬ覚悟でスポーティな装いをしている。
そのアンバランスな真剣さに、紬は少しドキッとした。
「じゃあ、行きましょうか」
「あ、うん……!」
更衣室を出てロビーへ向かう途中、沙耶は迷わず非常階段と書かれた重い扉を押した。
「え、エレベーターは?」
「使いません。日常生活の消費カロリーを侮ってはいけませんから。下り階段も、しっかり大腿四頭筋を意識すれば立派なトレーニングです」
二人は静かな階段室をトントンと降り始めた。
「それにしても、太る仕組みって本当に理不尽ですよね」
階段の踊り場で、沙耶のスイッチが静かに入った。
「大前提として、消費するカロリーよりも食べるカロリーの方が大きければ太る。これは地球の物理法則みたいなものです。単純な引き算のはずなんです。でも……」
沙耶の靴音が、規則正しくコンクリートに響く。
「世の中には同じ量を食べて、同じように生活しているのに太っていく人と、涼しい顔をして体型をキープしている人がいる。この差って何だと思います?」
「……やっぱり、体質とか?」
「そうです。私の場合は、前にお話しした『橋本病』。喉の手前にある甲状腺という小さな器官が慢性的に炎症を起こす病気です。本来なら、全身の代謝を活発にする甲状腺ホルモンを分泌してくれる場所なんですけど……」
沙耶は階段を下りるスピードを落とさず、言葉を続ける。
「病気が進行してホルモンがうまく作られなくなると、体の中のすべての工場が省エネモードに入っちゃうんです。普通に生きているだけで消費されるはずの“基礎代謝”がガクンと落ちる。そうなると、自分では以前と全く同じ食事をして、同じように歩いているつもりでも、メーター自体が狂っているから、実質的にずっと“摂取カロリー過多”の状態が作られちゃうんです」
「なるほど……! 中の中まで省エネになっちゃうんだ」
「はい。だから今までは、病気のせいだから太るのはしょうがない、運動してもどうせ効果が出にくいからって、どこか言い訳にして逃げていたんです」
沙耶はそこで一度言葉を切り、自分の足元をしっかりと見つめた。
踊り場を回り、次の階段へ踏み出す一歩に、ぐっと力がこもる。
「でも、先輩方の仕事を見ていて、自分が恥ずかしくなりました。皆さん、制度の理不尽さや環境のせいにせず、今できる最善を尽くして戦っている。それなのに私は、自分の身体の仕組みに勝手に限界を決めて、戦いもせずに諦めていました」
沙耶は前を向き、紬の目を真っ直ぐに見つめた。
少し上気した肌に、強い光が宿っている。
「だから、まずは生活から変えます。基礎代謝が低いなら、自分で動いて燃やすしかありませんから!」
普段よりほんの少し早口な沙耶の熱量に圧倒されつつも、紬の胸には温かいものが広がっていった。
「なるほど、そういうわけね……。病気を言い訳にしない沙耶ちゃん、めっちゃ格好いいよ」
紬は心から感心して、深く深く頷いた。
トントン、と階段に沙耶の靴音が規則正しく響く。
その必死な背中を見ているうちに、紬の脳内にも一人の女子としてのささやかな好奇心が頭をもたげてきた。
「ねえ、じゃあさ。運動を増やすのもいいけど、そもそも食べる回数を減らすのはどう? 1日2食にするとか。朝ごはんを抜くだけなら、運動するより手っ取り早くカロリー減らせそうじゃない?」
その素朴な提案が口から出た瞬間、階段を下りる沙耶のウォーキングシューズが、キッと甲高い音を立てて止まった。
「紬さん、それは絶対にダメです! むしろ一番太りやすいデスゲームの始まりです!」
沙耶は弾まれたように振り返ると、眼鏡の奥の目をこれまでにないほど見開いた。
そのただならぬ迫力に、紬は思わず階段の一段上へとのけぞる。
「え、ええ……!? だって食べる量が減るんだよ?」
「人間の身体を侮ってはいけません。とんでもなく優秀で、同時にもの凄く臆病なんです」
沙耶はリュックのサイドポケットから、付箋がびっしり貼られた分厚いノートを引っこ抜き、ある図解を紬に突きつけた。そこには、複雑な臓器のイラストと、赤線で膵臓、そして太字でインスリンと書かれている。
「キーワードは、血糖値とインスリンです。人間が太るのって、単にたくさん食べたからだけじゃなくて、糖質を摂って血糖値が急激に上がったときに分泌される、このインスリンというホルモンの仕業なんです。インスリンには、血液中の余った糖をどんどん脂肪細胞に溜め込んちゃう性質があるんですよ」
「脂肪に……溜め込む……」
「はい。それを踏まえて、1日2食にして食事と食事の間隔を長く空けてしまうとどうなるか。人間の身体は、飢餓状態……つまり『次にいつ栄養が入ってくるか分からないピンチ』だと判断してしまうんです。そんな飢えてカラカラの身体に、ドカンと一気に次の食事を流し込んだらどうなると思います?」
沙耶の熱弁に、紬はごくりと唾を飲み込んだ。
「……どうなるの?」
「身体の防衛本能が『またいつ飢えるか分からないから、今のうちに全部蓄えておこう!』とフル稼働します。その結果、血糖値が爆発的に跳ね上がる血糖値スパイクが起き、インスリンが狂ったように分泌されて、入ってきた栄養をこれでもかと脂肪細胞に詰め込むんです。これが“食事を減らしたのに逆に太る”のメカニズムです」
沙耶はふぅ、と小さく息を吐き、眼鏡の位置を直した。
「しかも、食事の回数を減らすと、食事のたびに体温が上がって勝手にカロリーを消費してくれる“食事誘発性熱産生”という貴重なボーナスチャンスまで、自ら1回分捨てることになります。特に私のように基礎代謝が低い人間がそれをやったら、食べたもの全てが右から左へ脂肪細胞に直行します」
「こわっ……! じゃあ、痩せたいからって安易に抜くのは完全に逆効果なんだね」
「はい。大切なのは、3食を規則正しく、血糖値をなだらかな丘のようにコントロールしながら食べることです。ドカンと高い山を作ってはいけません。インスリンという優秀なシステムを暴走させず、いかに労って長持ちさせるか。それこそが、健康的に痩せるための本質なんですよ」
沙耶の熱い熱量に、紬は「なるほどなぁ……」と、自分の食生活をこっそり振り返りながら深く感心していた。
「じゃあさ、よく聞く”ベジタブルファースト”とか、唐揚げの前にキャベツ食べるのって、都市伝説じゃなくてガチなんだ?」
「ガチです。食物繊維を先に入れることで、糖の吸収を緩やかにするんです。階段を降りるようなちょっとした運動も、食後の血糖値上昇を抑えるのに凄く効果的なんですよ」
「へぇー! 勉強になる……!」
医事課の座学より、心なしか紬の食いつきが良い。
調子に乗った紬は、自分の下腹部を指先で少しつまんでみせた。
「私、体重は普通なんだけど、このへんのお肉がなかなか落ちないんだよねぇ」
すると、階段を下りる沙耶の足取りが、また一段と熱を帯びた。
「それは皮下脂肪ですね。紬さん、脂肪には大きく分けて2種類あるのをご存知ですか?」
「あ、内臓脂肪と皮下脂肪ってやつ?」
「そうです」
沙耶は一段下から振り返り、人差し指を立てて眼鏡をくいっと上げた。
「皮膚のすぐ下につく“皮下脂肪”は、女性につきやすく、クッションや保温の役割がある反面、一度つくと非常に落ちにくい。紬さんが気にするお腹やお尻のお肉はこれですね」
「一度つくと非常に落ちにくい……!」
「一方で、内臓の隙間につく“内臓脂肪”は、男性や中年以降につきやすく、生活習慣病の引き金になる悪玉ですが、運動によって比較的簡単に燃焼してくれます」
沙耶は再び前を向き、一歩一歩を踏みしめる。
「私の場合は、皮下脂肪の下で、内臓脂肪も蓄積されているんだと思います」
沙耶の知識量に圧倒されつつも、紬は心から感心して頷いた。
と、同時に、さっき沙耶のリュックから見えたノートが気になり、歩きながら尋ねてみた。
「ねぇ、さっきのぶ厚いノートって何? 付箋すごかったけど」
「ああ、これですか」
沙耶は歩きながらリュックのサイドポケットからそのノートを引っこ抜いた。
パラパラとページがめくられると、そこには医学書顔負けの細かさで、身体のメカニズムや世間のダイエットの誤解がびっしりと分析・整理されていた。
「私、凝り性なもので、巷にあふれるダイエット情報を片っ端から調べて、科学的根拠があるものだけを精査してまとめておいたんです。世の中、間違った情報があまりにも多すぎますから」
「間違った情報?」
紬は興味津々でノートを覗き込む。
「例えば、よくある誤解が“とにかく汗をかけば脂肪が燃える”という思い込みです。紬さんも聞いたことありませんか?」
「あ、ある!」
「サウナスーツを着て運動したり、サウナに長時間こもる方。あれも大きな誤解です。汗をかいて一時的に体重が減るのは、単に身体の水分が抜けただけ。水を飲めば一瞬で元に戻ります。脂肪が燃焼するときに発生する水分は、汗ではなく主に呼吸(二酸化炭素)として吐き出されるんです。つまり、ハァハァと息が上がるような有酸素運動をして、初めて脂肪は消費される。サウナでダラダラ汗を流しても、脂肪そのものは1グラムも減っていません」
「ええっ!? じゃあ岩盤浴で『めちゃくちゃ脂肪燃えたわ〜』って言ってた私の友達、あれ幻だったの……?」
「水分が移動しただけの幻です。むしろ脱水症状で代謝が落ちるリスクすらあります」
沙耶の容赦ないエビデンスの刃に、紬は「世知辛いなぁ」とため息をついた。
しかし、ここで紬の脳内にある一つの仮説がひらめいた。
(水分を抜くのが幻なら、やっぱり本丸はさっきの“脂肪を溜め込むホルモン”ってことだよね……?)
紬は階段の手すりに手を置き、一段下の沙耶を見下ろす。
「……ねえ、沙耶ちゃん。汗をかいても意味がないならさ、結局のところ、太る原因はインスリンってやつにあるわけでしょ?」
「大枠としては、その理解で間違いありませんが……」
「だったらさ」
紬は名案を思いついたように、悪戯っぽく微笑んだ。
「それなら、インスリンを出ないようにしたほうがいいの?」
紬の素朴な疑問に、階段を下りる沙耶のウォーキングシューズが一瞬、キッと甲高い音を立てて止まった。
「紬さん、それは絶対にダメです! 命に関わります!!」
沙耶は弾かれたように振り返ると、眼鏡の奥の目をこれまでにないほど見開いた。
そのただならぬ迫力に、紬は思わず階段の一段上へとのけぞる。
「い、インスリンって出ちゃダメな悪者なんじゃないの……?」
「とんでもありません! インスリンは、私たちが生きていくために絶対に欠かせない、身体の中で『唯一血糖値を下げることができる超重要ホルモン』なんです」
沙耶はぶ厚いダイエットノートのページを激しくめくり、ある図解を紬に突きつけた。
そこには、複雑な臓器のイラストと赤線で「糖尿病」と書かれている。
「もし、インスリンが全く出なくなったり、極端に足りなくなったらどうなると思いますか? 血液中の糖分を細胞がエネルギーとして吸収できなくなって、血管の中に糖が溢れかえってしまいます。これが『1型糖尿病』という命に関わる病気のメカニズムです。インスリンが出ないと、人間はご飯を食べても全くエネルギーに変換できず、餓死するようにどんどん痩せ細って、最後は意識を失って昏睡状態に陥ってしまうんです」
「えっ……昏睡……」
予想以上にガチな医学の領域に、紬はごくりと唾を飲み込んだ。
「だから、インスリンを出さないのが正解ではなく、『必要なときに、必要な量だけ、おだやかに出てもらう』のが正解なんです。さっき言ったドカンと一気に分泌される『インスリンの無駄遣い(スパイク)』を繰り返していると、やがて膵臓が疲れ果ててインスリンを出せなくなったり、細胞がインスリンに慣れて糖を吸収しなくなってしまう。これが、食べすぎや運動不足が原因でなる『2型糖尿病』です」
沙耶はふぅ、と小さく息を吐き、眼鏡の位置を直した。
「つまり、インスリンという優秀なシステムを暴走させず、いかに労って長持ちさせるか。それこそが、健康的に痩せるための本質なんですよ」
沙耶は再び前を向き、一階への扉を目指して力強く階段を降り始めた。
紬は「なるほどなぁ……」と目を丸くするばかりだった。そんな風に自分の身体をロジカルに分析している沙耶だからこそ、最近SNSのタイムラインでやたらと見かける広告を思い出し、ふと疑問をぶつけてみたくなった。
「そういえばさ、沙耶ちゃん。それだけ身体の仕組みを調べてるなら聞きたいんだけど……最近ネットでよく見る『マンジャロ』とかって薬、あれってどういう理由で痩せるのかな? 美容外科の広告で“打つだけで食べたい欲求が消える、奇跡のダイエット注射!”ってめちゃくちゃ流れてくるんだけど」
その言葉が出た瞬間、沙耶の足がぴたりと止まった。
階段室の薄暗い照明の中で、沙耶の眼鏡の奥の目が、すっと鋭くなる。
「紬さん。それは……今、医療界でもものすごく問題になっているテーマです」
「えっ、問題?」
「はい。マンジャロは、本来は『2型糖尿病』の患者さんのために開発された、ものすごく画期的な注射薬なんです」
沙耶はリュックから再びあの分厚いノートを取り出すと、今度は「GLP-1/GIP受容体作動薬」と書かれた未知の領域のページを紬に突きつけた。
「マンジャロの正体は、私たちがご飯を食べたときに腸から分泌される『インクレチン』という消化管ホルモンを模した先進的なお薬です。……これがなぜ痩せるのか、理由は大きく分けて3つあります」
沙耶は人差し指を立て、階段室の壁を指すようにして語気を強めた。
「第1に、『脳への直接的な満腹シグナル』です。この薬の成分は、脳の視床下部にある満腹中枢に直接働きかけます。すると、実際には何も食べていないのに、脳が『もうお腹がいっぱいで、これ以上は何も入らない!』と強烈な錯覚を起こすんです。結果として、食欲という人間の本能そのものが消し去られます」
「本能が、消える……?」
「はい。そして第2が、『胃の排泄能の超延長』。胃腸の動きを意図的にパタッと遅くすることで、食べたものをあえて胃の中にずーーっと留まらせるんです。通常なら数時間で消化されるものがいつまでも胃に残るため、物理的な満腹感が丸一日中持続します。……裏を返せば、常に軽い胃もたれや吐き気を脳に感じさせて食欲を減退させている、とも言えます」
沙耶の徹底的なロジックに、紬はごくりと唾を飲み込んだ。
「そして最も重要な第3の理由が、さっきお話しした『インスリンの最適化と血糖値の強制コントロール』です。マンジャロは、血糖値が高くなったときにだけ、膵臓を強烈に刺激して『インスリンを出しなさい!』と命令します。さらに、血糖値を上げてしまう『グルカゴン』というホルモンの分泌を徹底的に抑え込む。これにより、体内の糖代謝が限界まで効率化され、脂肪がつきにくい状態を強制的に作り出すんです」
そこまで一気にまくしたてると、沙耶はふぅと低く重い息を吐き、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「……どうですか? 脳を騙し、胃の動きを止め、ホルモンバランスを外部から無理やり書き換える。これがマンジャロで痩せる本当の理由です。だからこそ、本来は重度の2型糖尿病や、健康障害を伴う高度肥満症の患者さんが、医師の厳格な管理のもとで命を守るために使うべき最終兵器なんですよ。……それを、一部の美容クリニックやオンライン診療が“痩せ薬”として、ダイエット目的の健康な人に自由診療で処方しているんです」
「え、じゃあ、病院で保険使って安く買ってるわけじゃないんだ?」
「美容目的は保険適用外なので全額自費です。でも、お金さえ払えば手に入ってしまうから、買い占めのような状態が起きて……一時期、本当にその薬を必要としている重症の糖尿病患者さんの分が市場で不足して、供給停止になる一歩手前までいったんです」
紬は息をのんだ。頭の中で、さっき愛美先輩や葉月先輩から耳にタコができるほど聞かされた言葉がリフレインする。
『本当に医療が必要な重症の患者さんに、限られた資源を集中させる』
「あ……それって、さっき選定療養の話で習ったことと、根っこは同じだ……」
「そうです」
沙耶は小さく頷き、再び階段を降り始めた。
「しかも、医師の適切な管理がないまま、ネットで簡単に買って安易に使うと、激しい嘔吐や脱水症状、最悪の場合は急性膵炎を起こすリスクもあるのに、広告では『手軽な美容』としての側面しか見せていません。病気を治すための『保険診療』と、綺麗になりたいという欲のための『自由診療』……。その境界線が、お薬の裏側で歪んじゃってるんです」
紬は、自分のスマホの画面に流れてくるキラキラした美容広告の裏側にある、重い現実を突きつけられて言葉を失った。
「ダイエットっていうのは健康のためにするのであって、そのダイエットで健康を損なっているようじゃこの先心配ですね」
やや重くなった空気を吹き飛ばすように、沙耶がドヤ顔で言う。
一階の重い扉を開けると、夕方の心地よい風が二人の頬を撫でた。
出入口へと続く通路を歩きながら、紬は静まり返った病院の建物を振り返った。
(病院の窓口って、ただ病気を治すだけじゃなくて、人間の“欲”や“悩み”、社会の縮図の最前線なんだな……)
事務職の座学はあんなに遠い国の話みたいだったのに、自分たちの身近なダイエットの話題と繋がった瞬間、急にその重みがすとんと腑に落ちた気がした。
そして何より、身体の仕組みをこれほど楽しそうに、熱く語る沙耶が、少しだけ羨ましかった。
(なんだか、ちゃんと勉強してみたくなってきたかも)
「なるほどなぁ……。ねえ沙耶ちゃん、そのノート、あとで私にもコピーさせてくれない?」
「えっ? ええ、構いませんけど……結構マニアックですよ?」
「いいのいいの。なんだか私、ちゃんと勉強してみたくなってきたかも。……あ、その前に、帰りにキャベツ買って帰ろ」
「ベジタブルファーストですね! 素晴らしい心がけです!」
「……さて!」
病院の敷地から出たところで、沙耶がリュックの紐をきゅっと締め直した。
その顔には、先ほどまでの緊張感はなく、どこか晴れやかな、負けず嫌いな笑みが浮かんでいる。
「お先に失礼します!」
沙耶は小さな一歩を踏みだした。




