#24 みんなで医療費を節約しようって決めた
地域連携室から医事課のフロアに戻ると、そこにはすでに戦いを終えた後のような、独特の冷めた空気が漂っていた。
カウンターの奥では、葉月が細長い指でトントンとデスクを叩きながら、端末の画面を睨みつけている。
「……お疲れさまです、葉月さん。さっき、大変だったみたいね」
愛美が声をかけると、葉月はふっと視線を上げ、短く息を吐いた。
「ああ……。愛美さん、お疲れさまです。新人二人はどうでした? 連携室で水瀬の毒気に当てられなかった?」
「毒気だなんて。水瀬くん、一生懸命説明してくれたわよ」
紬は、葉月のデスクの横に置かれた「対応記録」のメモが、走り書きで埋め尽くされているのを見逃さなかった。
「あの……葉月さん。さっきの、何のお話だったんですか? 結構長い時間、患者さんのご家族と話してましたよね」
紬が恐る恐る尋ねると、葉月は椅子の背もたれに体を預け、こめかみを指で押さえた。
「ええ。……また例の“長期収載品の選定療養”についてのトラブルよ」
「長期収載品……せんていりょうよう?」
紬がその聞き慣れない呪文のような言葉を繰り返すと、葉月は小さく息を吐いてから紬のほうへ視線を戻した。
「……日下さん、人生で一度も病院かかったことないって言ってたわよね」
「は、はい。風邪もひいたこともなくて……」
「じゃあちょうどいいわ。さっきのトラブル、その“初見殺し”みたいな制度だから」
葉月はそう言って、近くにあった椅子を軽く足で引き寄せた。
「“長期収載品”っていうのはね、簡単に言うと――」
何度も繰り返してきた説明をなぞるように、葉月は淡々と口を開いた。
「特許が切れた後も先発メーカーが作り続けてる“元祖の薬”のこと」
「元祖……?」
紬が首を傾げる。
「そう。例えば、最初に開発された薬があって、それはしばらく特許で守られる。でも特許が切れると、他の会社も同じ成分の薬を作れるようになる」
「それが、“ジェネリック医薬品”ですか?」
沙耶が補足すると、葉月は軽く頷いた。
「正解。で、その“元祖”が長期収載品。“後から出てきた安い方”がジェネリック」
「えっ、新しいほうが安いんですか!?」
紬が思わず身を乗り出した。
「普通、逆じゃないですか? 新しいもののほうが高いイメージが……」
葉月は「まあ、そう思うわよね」と小さく肩をすくめた。
「でもこれは“新しい薬”じゃなくて、“同じ中身を別の会社が作った薬”なの。開発費がかかってない分、安くできる」
「なるほど……コピーみたいなものなんですね」
「言い方は雑だけど、概ねそんな理解でいいわ」
「そういうこと。で、問題はここから」
葉月は端末の画面を指でトン、と叩いた。
「“同じ薬なのに、なんで最初に開発された薬は追加でお金を払うんだ”って言われるのよ」
紬の手が止まる。
「……確かに、それは思います」
「でしょ?」
葉月は肩をすくめた。
「それが、2024年10月から始まった“選定療養”の話」
少しだけ間を置いて、続ける。
「簡単に言うとね。安いジェネリックがあるのに、患者さんが“どうしても先発品がいい”って選んだ場合、その“差額の一部”を保険とは別に自費で払ってもらう仕組みが強化された。それが“選定療養”」
「えっ……」
紬は思わず声を漏らした。
「それって……実質的に“高いほうを選んだらペナルティ”みたいなものじゃないですか?」
「まあ、患者さんはそう感じるでしょうね」
葉月はあっさり言った。
「でも制度としては“選択の自由は残す。ただしコストは意識してね”っていう形よ」
沙耶が慎重に言葉を選ぶ。
「つまり……ジェネリックがある場合は、基本的にはそっちを使ってほしい、ということですか?」
「そういうこと」
葉月は頷いた。
「もちろん、医師が“この人には先発品が必要”って判断した場合は別。そういうケースは対象外。でも、“なんとなく先発品がいい”って理由だと、追加負担が発生する」
紬はゆっくりと呟いた。
「……それ、患者さん怒りませんか?」
葉月は、ほんの一瞬だけ遠くを見るような目をした。
「怒るわよ」
即答だった。
「“今まで保険で出てたのに、なんで急にお金取るの?”って。今日の人もそれ」
「……ですよね」
「しかもね、患者さんから見たら、“同じ薬”にしか見えないの。効き目もほぼ同じ。でも片方は高い」
「じゃあ安い方でいいって……」
紬が言いかけて、止まる。
葉月がそれを拾った。
「そう、合理的に考えればね。でも現実は違う」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「“ずっとこの薬で安定してたから変えたくない”って人もいるし、“ジェネリックはなんとなく不安”って人もいる。理屈じゃないのよ」
「制度が変わるスピードに、患者さんの理解が追いついてない。典型的なパターンね」
紬は何も言えずに頷いた。
窓口での理不尽な怒りを思い出すように小さく息を吐いた葉月に代わり、愛美がホワイトボードの前に一歩踏み出した。
いつもの柔らかい笑みを少しだけ引き締め、マーカーを手に取る。
「でもね、ふたりとも。国もね、ただ患者さんに意地悪をしたくてこんな面倒な仕組みを作ったわけじゃないんだよ」
「制度の……趣旨、ですか?」
沙耶がノートにペンを向けたまま、愛美を見上げた。
「そう。キーワードは医療費の財源を守るため」
愛美はホワイトボードに『日本の医療費』と書き、その下に大きなお財布の図を描いた。
「今、日本の医療費って年間で約48兆円もかかっているの。高齢化が進んで、この数字は毎年どんどん増えてる。でも、私たちが納めている保険料や国の財源には限界があるでしょ?」
「……はい」
「もし、このお財布が空っぽになったらどうなると思う? 医療保険制度そのものが崩壊して、将来、本当に高額な手術や、がんの最先端治療が必要になった人が、全額自己負担で行わざるを得なくなるかもしれないの。何千万、何百万っていうお金が払えなくて、命を諦めなきゃいけない時代が来るかもしれない」
愛美の言葉は穏やかだったが、その内容は驚くほど切実だった。
「だから国は、効果が同じならできるだけ安い薬を使って、みんなで医療費を節約しようって決めたの。それでも“どうしてもブランド物の先発品がいい”って個人がこだわるなら、その分の贅沢は自己負担にしてくださいね、っていうのがこの選定療養の本当の狙いなんだよ」
紬は、自分の手元にあるノートを見つめた。
(ただの値上げじゃなくて、未来の誰かの命を守るための節約なんだ……)
「本当に医療が必要な重症の患者さんに、限られた財源を集中させるための、痛みを伴う改革。……そしてね、実はこれ、まだ序の口なのよ」
愛美が少し声を潜め、ホワイトボードに新しい文字を書き加えた。
『OTC類似薬(市販薬類似薬)の追加負担』
その横に大きく『2027年3月スタート予定!』と書く。
「……来年の春には、これの本番が始まるんだから」
「本番……ですか?」
「いま国会で法律の準備が進んでるんだけどね。ふたりは、ドラッグストアでよく見る『ロキソニン』とか『アレグラ』って知ってる?」
「あ、はい。CMでよく見ます!」
紬が元気よく答える。
「あれ、病院で先生に“いつもの痛み止めとアレルギーの薬出しておきますね”って処方してもらうと、今までは保険が効いて3割負担で安く買えてたでしょ?」
「そうですね。私も花粉症の時期は病院で貰ったほうが安いので、多めに処方してもらってました」
沙耶が深く頷く。
愛美は、その沙耶を見つめて少しいたずらっぽく微笑んだ。
「それがね、これからは高くなるの」
「えっ?」
沙耶が小さく目を見開いた。
「国がね、ドラッグストアで自分で買えるような身近な薬は、わざわざ病院の保険を使わないで、自分で買って治してねって言い始めたの。だから、市販薬と同じ成分の処方薬は、これまでの3割負担に加えて、薬代の25%を“特別の料金”として全額自費で上乗せすることになったのよ」
「……ええっと」
紬は素早く頭の中で計算しようとしたが、そもそもドラッグストアで薬を買ったことがない。実家にも救急箱はあるが、風邪ひとつひかない健康体だったため、薬の値段の相場が全くピンとこなかった。
「あの、沙耶ちゃん。それって、どれくらい大変なことなの?」
紬が隣の沙耶にコソッと耳打ちする。
すると沙耶は、まるで大天災の予報でも聞いたかのように、真っ青な顔で硬直していた。
「もし、病院で1,000円の薬を処方されたとしたら、今までは3割負担だから窓口で払うのは300円で済んでました」
「うん、300円。安いよね」
「それが、これからは市販薬と同じだからって理由で、薬代の25%……250円が“選定療養費”として丸々上乗せされることになります。そうすると、300円+250円で、支払いは550円になりますね」
紬はパチパチと瞬きをして、頭の中で数字を追いかける。
増えることはわかったけど、大騒ぎすることような金額ではなさそうな印象を受けた。
そんな紬の表情を見た愛美が補足する。
「ちなみに、高齢の方は色々な薬を処方されていることが多くて、それぞれに25%が加算されるからね」
「ロキソニン、アレグラ、保湿剤のヒルドイド、便秘薬の酸化マグネシウム……」
葉月が事務用パソコンの画面を見つめたまま、冷ややかに、けれど重々しく付け足す、
「うちの病院でも、毎日何百人もの患者さんに出してる定番中の定番の薬たちよ。これが一斉に値上がりするの」
「毎日、何百人も……」
沙耶がごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、いつものお薬ちょうだいって来られたお年寄りの方とか、毎月アレルギーの薬を貰いに来る患者さん全員に、窓口で値上がりの説明をしなきゃいけないんですか……?」
「当然、大荒れになるわね」
葉月は即答した。
「『なんでいつもの薬がこんなに高いんだ!』『病院で貰ったほうが損じゃないか!』って、確実に言われるわ。お年寄りや、ずっとその薬を飲んでる人からすれば、寝耳に水だもの」
葉月はそう言いながらも、どこかこれから始まる大戦を控えた戦士のような、鋭く、覚悟の決まった目をしていた。
「でもね」
愛美がホワイトボードの文字をペンで小さく叩く。
「これも全部、さっき言った社会保障を未来に繋ぐための、国からの強いメッセージ。本当に医療が必要な重症の患者さんに財源を集中させるための、痛みを伴う改革なの。ただ我慢してもらうんじゃなくて、“なぜそうなったのか”を説明するのが、私たちの仕事」
「制度と患者さんの間に立つ“通訳”みたいなものですね」
沙耶がまだ少し青い顔のまま、搾り出すように言うと、愛美は嬉しそうに頷いた。
「いい表現だね」
紬は、さっきの葉月の疲れた表情と、隣で震えている沙耶の横顔を交互に見つめた。
(通訳……か)
(でもそれって、“納得してもらえない言葉”も、自分の口から伝えなきゃいけないってことだよね)
カウンターの向こうでは、患者が番号を呼ばれるのを待っている。
その一人ひとりに、違う事情があって、違う価値観がある。
「……難しそうです」と沙耶が正直に言う。
「難しいよ」と葉月が即答した。
「でも、だから面白いのよ」
その言葉は、疲れているはずなのに、不思議と少しだけ楽しそうだった。




