#27 呼吸って本当に不思議
「……はぁ、はぁ……っ、つ、紬さん、少、少々お待……ゲホッ、げほっ!」
午前中の受付時間が終了し、休憩のためにバックヤードに入った瞬間だった。
沙耶がまるで糸の切れた人形のように、壁に背中を預けてズルズルと崩れ落ちた。
まだお昼休憩に入ったばかりだというのに、彼女の額からは大粒の汗が吹き出し、色白の肌は見たこともないほど真っ赤に上気している。制服の胸元が、その下の激しい鼓動を隠しきれずに大きな波を打っていた。
「ちょっと、沙耶ちゃん大丈夫!? 息が完全に上がってるよ!」
「す、すみません……午前中の、あの張り詰めた空気から急に解放されたら……心臓が、今まで経験したことがないくらいバクバクしてしまって……ひゅっ、はぁ、はぁっ……!」
完全にパニックに陥っている沙耶の様子に、紬は息を呑んだ。
窓口では完璧に患者たちと渡り合っていた沙耶だが、その繊細な心臓は初日の修羅場のプレッシャーを限界まで溜め込んでいたらしい。
「沙耶ちゃん、私の目を見て。大丈夫、午前中の仕事は全部終わったから。焦らなくていいよ」
紬は慌てて沙耶の隣にしゃがみ込むと、彼女のぽっちゃりとした冷や汗で震える両手をぎゅっと包み込みながら、その胸元に目をやった。
(……待って、ベストのボタン、はち切れそうじゃん……!!)
本人が気にしているお腹まわりもさることながら、制服のベストを内側から猛烈に押し上げているのは、豊かなバストだった。激しい過呼吸で胸が大きく上下するたびに、事務服の紺色のベストがメリメリと悲鳴を上げ、中央のボタンが引きちぎれんばかりに引っ張られている。
(これ、サイズ完全に合ってないよね……!?)
紬は瞬時に察した。
沙耶は、自分の体型に合わせた大きめサイズの制服を申請するのが恥ずかしくて、見栄を張ってパツパツのものを無理やり着ているのだ。色白の肌が真っ赤になっているのは、過呼吸だけでなく、この物理的な締め付けのせいも確実にあった。
「沙耶ちゃん、ちょっとごめんね! 一回ボタン外そう!」
「ひゃいっ!? あ、だ、ダメ……っ」
「ダメじゃない! 苦しい原因これもあるから!」
紬は沙耶の抵抗を押し切り、ベストのボタンを上からパチパチと3つ外して解放してあげた。
途端に、窮屈な布地から溢れ出すように豊かな膨らみが広がり、沙耶の胸元が劇的に楽になる。
「ほら、これでラクになったでしょ? もう一回、スーって吐いて……」
「う、うう……す、すーー……はぁ……っ」
数分後、自販機から買ってきた冷たいお茶のペットボトルを首元に当ててやると、沙耶は「ひゃんっ」と小さく声を上げ、ようやく人心地ついたように深く息を吐き出した。
しかし、呼吸が落ち着くにつれて、沙耶の顔は別の理由でみるみる耳まで真っ赤に染まっていく。パツパツのブラウスのボタンの隙間が空いているのが見えてしまっていることに気づいたからだ。
「……すみません、お見苦しいところを。情けないです、受付に立っていただけなのに……」
沙耶は恥ずかしさで消え入りそうな声になりながら、慌ててベストのボタンを留め直そうとする。だが、肉厚な指先が震えて、なかなかボタンが穴に通らない。
「何言ってるの。あんなに頭フル回転させてたら、誰だってパンクするよ。それに……」
紬はクスッと笑うと、沙耶の手を優しく退けて、代わりにベストのボタンをパチパチと留めてあげた。
「サイズ申請の恥ずかしさは女子として100%共感するけどさ、夏服は、ちゃんとリラックスできるサイズにしてもらおう? 私も一緒に総務課に付いていってあげるから」
「……うぅ、ありがとうございます……。完全にやってしまいました……」
沙耶はまだ少し赤みの残る顔で眼鏡の位置を直すと、少しバツが悪そうに、けれどいつもの丁寧なトーンで話し始めた。
「……ですが、人間の身体って、本当に皮肉ですよね。今まさに身を以て体験しましたが、過呼吸のメカニズムって、世間のイメージとは真逆なんです」
「え? 真逆って?」
「過呼吸になると、みんな“酸素が足りない!”と思って必死に空気を吸おうとしますよね。でも実際は逆で、恐怖や緊張のストレスで呼吸が浅く速くなった結果、体内の二酸化炭素を必要以上に吐き出しすぎてしまうのが原因なんです」
沙耶は手元のお茶を一口含み、喉を鳴らして飲み込んだ。
「血液中の二酸化炭素の濃度が急激に下がると、アルカリ性に傾いた脳の血管がキューッと収縮してしまいます。すると、脳への血流が減って、強いめまいや“息が吸えない”という脳の錯覚が引き起こされる。つまり、酸欠ではなく二酸化炭素の欠乏。だから紬さんがしてくださったように、まずはしっかり『息を吐いて呼吸を遅くする』のが、医学的に最も正しい対処法なんです。……ありがとうございました、助かりました」
「へぇー! 酸素の吸いすぎで息苦しくなるんだ。人間の体って本当に不思議……って、そんな状態でも頭の中でロジックが回ってる沙耶ちゃん、やっぱりタダモノじゃないね」
紬は感心しつつ、自分の制服の襟元をパタパタと仰いだ。午前中のあの怒濤の時間を思い返す。
「でもさ、呼吸って本当に不思議だよね。さっきの患者さんたち、みんな『息が苦しい』とか『咳が出る』って言ってたのに、蓋を開けてみたら全然違う病気だったじゃない?」
「……そう、ですね」
沙耶はまだ少し赤みの残る顔で眼鏡を押し上げ、いつもの丁寧な、けれどどこか熱っぽいトーンを取り戻した。
「夏木さんは心臓(循環器内科)、秋山さんは鼻(耳鼻咽喉科)、そして冬野さんはお家のアレルギー(呼吸器内科)。同じ『コンコン』や『ハァハァ』でも、原因の出処は体の中でバラバラでした」
「そうそう。私なんて、“息が苦しい=肺が悪い”のワンパターンしか頭になかったからさ。同じような呼吸器の症状でも、案内するべき診療科がこんなに違うんだって、今日身をもって知ったよ。医療の世界って本当に奥が深いよね」
「本当にその通りです。……ちなみに、さっきの私の『ハァハァ』を医事課的に仕分けするなら、病気ではなく『過換気症候群』……要するに、極度の緊張による自律神経の暴走ですね」
沙耶は少しきまり悪そうに、でも真面目な顔で自分の胸元を指差した。
「人間の脳って臆病ですから、午前中のあの修羅場で『大ピンチだ!』と判断すると、交感神経が急激に優位になって、酸素を必要以上に吸い込もうと呼吸を浅く速くしてしまうんです。これが過呼吸のメカニズムです」
「へぇー、自分の息切れまで冷静に分析しちゃうあたり、さすが沙耶ちゃんだわ」
紬が感心したように笑うと、沙耶は冷たいマイボトルを両手で包み込みながら、少しトーンを落として言葉を続けた。
「人間の『呼吸』って、実は肺だけでやってるわけじゃないんですよ」
「え、肺以外でも呼吸してるの? エラ呼吸とか?」
「違います」
沙耶は真面目な顔で首を振ると、少し呼吸が整ってきたのか、いつもの丁寧なトーンを取り戻した。
「肺自体には、実は自ら膨らんだり縮んだりする筋肉がありません。ただの風船のようなものです。じゃあどうやって息を吸っているかというと、肺の周りにある肋骨の筋肉や、お腹との境界線にある横隔膜という筋肉が動くことで、胸の中の気圧を変化させて、受動的に空気を出し入れしているんです」
「へぇー! 肺が自分で頑張ってるわけじゃないんだ」
「はい。だから、私みたいな体型は、それ自体が立派な呼吸器の障害を引き起こす原因になるんですよ」
「えっ、そうなの? 単に体が重くて疲れるからじゃないんだ?」
「もちろん、脂肪を持ち運ぶ負荷もありますが、それだけではありません」
沙耶は人差し指を立て、熱弁を振るい始めた。
「脂肪、特にこのお腹まわりの内臓脂肪が増えると、横から肺を圧迫するだけでなく、下から横隔膜をぐーーっと押し上げてしまうんです。そうなると、肺が物理的に広がるスペースが狭くなって、一回に吸い込める空気の量が強制的に制限されてしまいます。これを医学用語で『拘束性換気障害』と言います」
「こうそくせいかんき……また難しい言葉が……」
「簡単に言えば、自前の贅肉のせいで、24時間ずっと胸をコルセットでギューギューに締め付けられているような状態です。さらに、首や喉のまわりに脂肪がつくと、気道が物理的に狭くなって空気が通りにくくなります。ただでさえ体を動かす効率が悪いのに、呼吸の空気の通り道まで狭くなっている。だから、ちょっと動いただけであっという間に酸素不足に陥って、私のように『ハァハァ』と激しい息切れを起こしてしまう……。これこそが、肥満による呼吸器症状のロジックです」
沙耶は自分の制服の上からお腹を見つめ、深いため息をついた。
「……あの、紬さん」
お茶を飲み干した沙耶が、少し言いにくそうに、けれどすがるような目で紬を見つめた。
「実は、自分の体型を分析して納得している場合ではないんです。私の今の切実な悩みは、まさにこれなんです」
「これって?」
「『ダイエット目的で運動を始めようと思っても、すぐに息が上がって動けなくなる』という絶望のループです。脂肪を燃やすために激しい運動を続けなければいけないのに、私の贅肉は、そんな運動すら許してくれません。……何か、こんな私でも息を切らさずに、健康的に運動で痩せる方法って、あったりしますか……?」
「……運動するとすぐ息が上がっちゃう、か」
紬は少し視線を斜め上に向け、自分のこれまでの生活や、ダイエットに成功した友達の話を脳内で検索した。やがて、ポンと手を叩く。
「なーんだ、そんなこと! 沙耶ちゃん、難しく考えすぎだよ。それなら、『フラットロード・スロージョギング』はどう?」
「ふらっとろーど……すろーじょぎんぐ、ですか?」
沙耶は初めて聞く呪文のような単語に、眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「そう! まずフラットロードっていうのは、とにかく平坦で坂道がない道のこと。で、スロージョギングっていうのはね、歩くのと同じくらいの、なんなら隣の人と笑顔でおしゃべりできるくらいの超スローペースで走る運動のことだよ」
紬は自分の足元を小さく動かしながら、身振り手振りで説明を続ける。
「これなら、さっき沙耶ちゃんが言ってた『ハァハァと息が上がる手前』をずっとキープできるから、脂肪を燃やすための有酸素運動を長続きさせられるんじゃない?」
「なるほど……!」
沙耶の目がきらりと輝き、すかさず胸のノートを開いた。
「素晴らしい着眼点です、紬さん! 医学的にも、息が切れるほどの激しい運動(無酸素運動)は糖質を優先的に消費してしまいますが、おしゃべりできる程度の軽い強度の運動(有酸素運動)は、脂肪を優先的にエネルギーとして燃焼させます」
「でしょ?」
紬の提案に深く納得し、熱心にメモを取っていた沙耶だったが、ふとペンを握る手を止め、何か重大な矛盾に気づいたように顔を上げた。
「……あ。でも、紬さん。そうなると、一つ大きな疑問が生じるのですが」
「ん? なあに?」
「実は私、日常生活の消費カロリーを稼ぐために、最近、8階の更衣室に行くときに、エレベーターを使わず階段を使うようにしているんです」
「えっ、1階から8階まで!? 階段で!?」
今度は紬が目を丸くする番だった。
「はい。下り階段だけじゃなく、登り階段も大腿四頭筋や大臀筋(お尻の筋肉)を強烈に刺激するので、消費カロリーとしては平地を歩く場合の3倍以上になるはずなんです。……ですが、さっきのロジックだと『坂道や階段のような強い負荷は、心臓や肺に負担をかけて息が切れるからダメ』ということになりますよね?」
沙耶は自分の太ももをノートの上からトントンと叩きながら、真剣な眼差しで紬を見つめた。
「実際、3階あたりを過ぎたあたりから、私の呼吸は完全に悲鳴を上げています。これは、ダイエットの選択肢として……完全に間違っているということでしょうか……!?」
「うーん、間違っているかどうかはわからないけど、そんなにつらいと続かないよね」
紬の言葉に、沙耶はハッとしてノートを胸に抱え直した。
「……なるほど。エビデンスに囚われて、自分の初期設定を見誤っていました。盲点です……」
沙耶がガックリと肩を落とした、その時だった。
バックヤードの重い扉が静かに開き、葉月先輩が戻ってきた。
いつものポーカーフェイス——無表情でクールな佇まいのままだ。しかし、その薄い胸元は不自然に激しく上下しており、前髪が額の汗で少し張り付いている。
「はぁ……はぁ……、……お疲れ様」
椅子に泥のように腰掛け、長い手足を投げ出した葉月の姿を、紬は呆然と見つめた。
今の葉月の荒い呼吸のテンポは、さっき過呼吸から復活したばかりの沙耶のそれと、驚くほどぴったりシンクロしていたからだ。
制服の下に過剰な脂肪を蓄えた沙耶と、モデルのように細く風が吹けば折れそうなほど華奢な葉月。シルエットは正反対なのに、吐き出す息の苦しそうな重さだけが、完全に一致している。
「えっ、葉月さん!? どうしたんですか!?」
紬が思わず立ち上がって尋ねる。
「……敷地外の、コンビニの喫煙所まで……往復してきただけ……」
「え、往復って、あそこ確か歩いて片道5分はかかりますよね?」
「そう。往復10分……、早歩きしたら……死ぬかと思った……」
そんな葉月を見た沙耶も、脳内でロジックを組み立てる。
(完璧超人に見える葉月さんの細さは、筋肉量も相当少ない証拠……。酸素をエネルギーに変換する筋肉量が足りていないから、少しの運動で骨格筋がすぐに酸欠を起こして悲鳴を上げてしまうんだ……!)
沙耶は少しだけ親近感を覚えつつ、大真面目な顔で切り込んだ。
「あの、葉月さん。大きなお世話かもしれませんが……タバコ、辞めたほうがいいと思います」
「タバコに含まれるニコチンは血管を急激に収縮させますし、一酸化炭素は血液の酸素運搬能力を低下させます。つまり、タバコを吸うのは自ら進んで低酸素状態のハードモードを作り出しているようなものです」
「……耳が痛い」
葉月は片手で顔を覆い、深くため息をついた。
「でもね、もう完全に習慣になっちゃってるのよ。お昼のこの時間に、あの場所まで行って、煙を吐き出すっていう一連の流れをやらないと、午後の仕事のスイッチが入らないの」
「習慣……!?」
その言葉を聞いた瞬間、沙耶の目が獲物を見つけた猛獣のように見開かれた。
沙耶はガタッと椅子を引いて立ち上がると、葉月の前ににじり寄った。
「葉月さん! 私も明日からの休憩、その喫煙所まで付いて行っていいですか!?」
「……は?」
葉月は心底、不審なものを見る目で沙耶を見下ろした。
「木崎さん……あなた、タバコ吸うの? そんな風には見えないけど」
「いえ、吸いません! 1ミリも吸う気はありません!」
沙耶は拳をぎゅっと握り締め、熱く語った。
「私は、痩せるために歩くことを習慣にしたいんです! 自分一人の意志だと『今日は疲れたからいいや』と甘えが出ますが、葉月さんの『タバコを吸う』という強固な習慣に便乗することで、私も強制的に毎日往復10分のウォーキングを習慣化できます!」
「副流煙の影響をモロに受けるけど? それはいいの?」
「そ、それは……確かに、非喫煙者の私が能動的に副流煙を吸い込むのは、健康増進目的のウォーキングとしては致命的な矛盾、まさに本末転倒です……!」
沙耶は雷に打たれたように硬直した。眼鏡の奥の目が激しく泳ぎ、手元のノートにすかさず「副流煙:主流煙より有害物質の濃度が高い。受動喫煙リスク」と猛烈な勢いでメモを書き殴り始める。
そんな沙耶の横で、紬が意地の悪い笑みを浮かべて葉月ににじり寄った。
「葉月さん、沙耶ちゃんへの副流煙の影響を回避するために、ここはもう、禁煙しないとですね!」
紬はニヤニヤしながら、人差し指でバツ印を作って葉月の顔の前に突き出す。
葉月は紬の冗談交じりの提案に、眉をピクリとも動かさずに冷淡な声を返した。
「タバコ吸えないなら、私、コンビニ行かないけど」
「あっ、そうですよね! 目的が消滅しますもんね!」
「……あ」
紬の悪戯っぽい笑顔の横で、沙耶が本当に寂しそうな、シュンとした顔で自分の分厚いノートを見つめていた。せっかく見つけた「ウォーキングの強制習慣化」という名案が、受動喫煙というエビデンスの壁によって一瞬で崩壊してしまったのだから、無理もない。
耳まで真っ赤にしてがっくりと肩を落とす沙耶の背中は、まるで雨に濡れた子犬のように小さく見えた。
その様子を、椅子の背もたれに深く体を預けたまま、ジト目で眺めていた葉月が、ふぅと小さくため息をついた。
そして、視線をわざと明後日の方へ向けながら、本当に面倒くさそうに、ボソッと呟いた。
「……アイコスに、しようかな」
「えっ?」
紬と沙耶の声が、綺麗にハモった。
「葉月さん、今なんて……?」
沙耶が弾かれたように顔を上げ、眼鏡の奥の目を丸くする。
葉月は気まずそうに顔を背け、爪先でトントンと床を叩きながら、ぶっきらぼうに言葉を付け足した。
「だから……加熱式タバコ。あれなら、煙じゃなくて蒸気だし、紙巻きタバコに比べたら副流煙の有害物質は9割以上カットされてるんでしょ? 木崎さんのノートの、どこかに書いてないわけ?」
「あ、あります! あります!!」
沙耶は世界最高峰の宝物を見つけたかのようにパッと表情を輝かせると、猛烈な勢いでノートのページをめくった。
「加熱式タバコは、タバコ葉を燃焼させずに加熱するため、タールなどの有害物質の発生が劇的に抑えられます! もちろんニコチンは含まれるので完全な無害ではありませんが、非喫煙者への受動喫煙による健康被害、特に周囲への副流煙の悪影響という観点から見れば、紙巻きタバコとは比較にならないほどリスクが低いです! なにより、あの独特な強い臭いが衣類に付着するのも防げます!」
「……そこまでは聞いてない。それに、声が大きい」
葉月は気まずそうに耳を塞ぐ仕草をしてみせたが、その耳の先端がほんのり赤くなっているのを、紬の鋭いセンサーは見逃さなかった。
(葉月先輩が、沙耶ちゃんの寂しそうな顔に負けて、長年の習慣を妥協しようとしてる……!)
その不器用な優しさに、紬の胸の奥がキュンと温かくなる。
それと同時に、このチャンスを逃す手はないと、沙耶の背中をぐっと押した。
「やったじゃん、沙耶ちゃん! 葉月さんの健康のためにも、これはもう大義名分ができたね!」
「はい! 葉月さん、ありがとうございます!」
沙耶は感動に震える手でノートをバチンと閉じると、椅子の上の葉月に深々と頭を下げた。
「では、決まりですね! 明日からの昼休憩、葉月さんがコンビニの喫煙所へ向かう往復10分間、私はフラットロード・ウォーキングのバディとして、謹んで同行させていただきます!」
「……勝手にしなさい。ただし、歩くペースは私に合わせてもらうからね。遅れたら置いていくから」
「望むところです! 大腿四頭筋を意識して、全力で追従します!」
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほど熱血モードになっている沙耶と、それを「やれやれ」という表情で、けれど拒絶はせずに受け入れている葉月。
その二人の奇妙な契約の成立を見届けながら、紬はコーラのペットボトルを掲げて笑った。




