お前を手放したくなかった
(こんなにも長く一緒にいたのは、蠱婆さまを除いたら初めてかもしれない)
出会った当初は、まさかここまで深く関わることになるとは思いもしなかった。
それに──楊胤は、苦労性でありながら、根は優しい皇子だった。
共に過ごした時間は短かったが、そのひとときは驚くほど濃密で、心に残るものだった。妙に感慨深い気持ちになり、仙霞の唇から、ひとつ小さなため息が零れる。
輿で行けるところまで運ばれ、そこからは歩いて帰ることになった。けもの道のような湿原を、ぬかるみに足を取られながら進む。
楊胤は終始、仙霞の傍らにいた。
だが、一言も話さない。宦官たちも同行しているせいで、会話を聞かれたくなかったのかもしれない。
険しい顔をしたまま黙って歩くその姿に、仙霞は少し気まずさを覚えた。
華蠱宮に着くと、さっそく蠱婆から呼び出しがかかった。
あれを取れ、これを持て、腰が痛い──と次々に言いつけられ、仙霞はあたふたと動き回る。
気がつけば、楊胤はすでに宦官たちと共に去っていた。まともに別れの言葉も交わせぬまま、今生の別れとなってしまった。
けれど、これでいいのだと仙霞は思う。
そもそも、ふたりに深い縁があったわけではない。
一時的に関わっただけの人、それだけのこと。
楊胤には新たな任務が与えられ、すぐに忙しくなるだろう。
仙霞のことなど、きっとすぐに忘れてしまうに違いない。
けれど仙霞は、忘れない。
仙霞にとって楊胤は、人の結びつきを初めて感じた相手だったからだ。
師匠や弟子の関係でもない。友達でもない。どういう関係性なのかはわからないけれど、色々なことを語り合い、経験を共にした相手だった。
──そんなことを思い返していると。
日が暮れはじめ、あたり一面が茜色に染まっていく。
この景色を、どこかで見たような気がした。
予知の映像だろうか。いや、違う。
初めて楊胤と出会ったときの、あの空の色とよく似ているのだ。
冷たい風が吹き抜け、仙霞の髪をやわらかく揺らす。吐く息が白く染まる中、山の端へ沈みゆく夕陽を眺めていると、背後から声がかかった。
「仙霞」
暗闇を照らす燭台の灯のように、穏やかで心をほっとさせる声だった。
振り返ると、そこには目を細め、温和な笑みを浮かべて立つ楊胤の姿があった。
少し離れた背後には、付き従う宦官の敬宋の姿も見える。
ちょうど楊胤のことを思い出していたところだったので、仙霞は驚きを隠せなかった。
「どうされたのですか? またなにか新たな呪いでも起こったのですか?」
仙霞の問いに、楊胤は小さく首を振りながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「いや、そうではない。ちゃんとした別れの挨拶ができなかったからだ」
なるほど。楊胤もそれが心残りだったのか。やはり真面目な人だと、仙霞は思う。
腕を伸ばせば触れられるほどの距離まで楊胤が近づき、そこで足を止めた。
「なにを集めているのだ?」
楊胤の視線が、仙霞の抱える小さな竹籠に向けられる。
「毒草です。このあたり一帯は毒草地帯なのです」
「毒草か。今までで一番ましだな」
楊胤は口元に微笑を浮かべた。
ましとはどういう意味だろう。
思い返せば、これまでは蛙だの虫だのを持ち歩いていたことも多かった。そう思えば確かにましなのかもしれない。
「毒草は護符にもなるのですよ。すべて枯れる前に集めておこうと思いまして」
「ほう、熱心だな」
短い会話のあと、ふと沈黙が落ちた。
別れの挨拶に来ただけなら、もう帰るのだろう。忙しい人だ。これ以上、世間話に付き合わせるのも気が引ける。
「では、これで。これまでありがとうございました」
仙霞が軽く会釈して立ち去ろうとしたそのとき、腕を掴まれた。
「待て、まだ話は終わっていない」
話があったのか。それならそうと、先に言ってくれればよかったのに。
仙霞は楊胤の方へ向き直り、まっすぐにその瞳を見つめた。
「なんでしょう?」
すると楊胤は、気まずそうに目を泳がせた。なにか言いにくい話題なのだろうか。
お付きの敬宋は少し離れたところに立ち、ぼんやりと空を眺めている。気を利かせてなのか、たんに興味がないだけなのかはわからない。
「実は、帝から皇太子に任命された」
ああ、そのことか。ついにきたかと仙霞は思った。
「驚かないのか?」
「驚いていますよ」
「表情が変わっていないが」
「心の中では驚いています」
それは嘘ではない。仙霞が予想するよりも早い段階だったなと驚いている。




