答えは、橙の空に
「おめでとうございます」
とりあえず仙霞は一揖してみせた。すると楊胤は眉を寄せて口を開く。
「断った」
「え?」
「辞退したのだ」
これには仙霞も驚いた。仙霞の予知では楊胤は皇帝になるはずである。未来が変わったのだろうか。
「どうしてですか?」
「言っただろう。人でありたいからだ。……危うく、その場で首を斬られそうになったがな」
楊胤は朗らかに笑った。
笑いごとではない、と仙霞は心の中でつぶやく。
「それは、いつの話ですか?」
「お前が華蠱宮に戻る前日のことだ」
そうだったのか。どうりで、あの日の様子がどこかおかしかったわけだ。
「終始無言で落ち込んでいたのは、そのせいだったのですね」
それほどの出来事があったあとなら、心中はさぞ複雑だったに違いない。
「いや、それは関係ない」
あっさりと否定され、仙霞は思わず面食らう。
「では……他にも気がかりなことがあったのですか?」
仙霞の問いに、楊胤は短く息を呑み、一拍の沈黙を置いたのち、まっすぐに仙霞を見つめた。
「……お前を、手放したくなかったからだ」
仙霞はその言葉の意味を考える。
(そこまで私の能力を買ってくださっていたのだろうか?)
だが、蠱毒以外のことで役に立った覚えはない。
それに、呪殺のような出来事がそう頻繁に起こるはずもない。
側に置いておく理由などないはずだ。
そんな簡単な理屈を、聡明な楊胤様がわからないはずはないのに。
「ああ、包子のことですか」
「は?」
えらくお気に入りの様子だった。毎日、特に用事もないのに仙霞の棟を訪れては、包子を頬張っていたのだ。
(楊胤様は、見かけによらず食いしん坊だったのね)
「すみません、まさか楊胤様がいらっしゃるとは思っていなかったので、今日は用意していません」
「いや、そういうことではなくて……。ああ、もういい。そういうことにしておけ!」
楊胤は乱暴に前髪をかき上げた。
額が露わになったその面立ちは、妙に艶めいて見えた。
そういうことにしておけとはどういう意味なのか気になったが、深く考えるのも面倒なので、仙霞は素直にそういうことにしておくことにした。
「俺は皇子だが、何の権力もない。これまではそれで良かった。だが、今は違う。──欲しいものができたからだ」
楊胤は、言葉に力を込めながら静かに語り出した。
「力が欲しければ、皇太子になれば良かったのでは?」
少々身も蓋もない言い方になってしまったが、それが仙霞の率直な疑問だった。
楊胤が皇帝となれば、きっと良き為政者になるだろう。本人が望まなくとも、国のためにはその方が良いはずだ。
「そうじゃない。……皇帝になってしまったら、手に入らないものがあるんだ。いや、手に入れることはできるかもしれないが──望む形ではなくなる」
まるで謎かけのような言葉だった。なかなか難しい言い方をする。
仙霞が小首を傾げていると、楊胤がそっと彼女の肩を両手で掴んだ。
「必ず迎えに来る。だから、待っていてくれ」
力強くそう告げると、楊胤はゆっくりと腕を離した。
(迎えに来る……?)
なにが言いたいのだろうか。回りくどい言い方で、いまひとつ要領を得ない。
「私、華蠱宮から出るつもりはありませんけど……」
「それも含めて考えている!」
なぜか叱られた。
よくわからないが、真剣さだけはひしひしと伝わってくる。
これ以上余計なことを言って、さらに怒らせても面倒なので、仙霞は黙っておくことにした。
「いいか、また来るからな。俺のことを忘れるなよ!」
念を押すように言い残し、楊胤は仙霞に背を向けた。
(……別れの挨拶をしに来たのではなかったのだろうか)
突風のように現れて、夕焼けのように消えていく。
小さくなっていく背中を見つめながら、仙霞はそんなことを思った。
そして、楊胤の謎めいた言葉と行動を思い返すうちに、ふと腑に落ちる。
(……包子を作っておけ、という意味だったのかもしれない)
あの時の流れや、切実な表情を思い出せば思い出すほど、そうとしか思えなくなってくる。
しかし、『待っていてくれ』とは言われたものの、どれほど待てばいいのだろう。
(数週間? 数か月? それとも数年?)
次に楊胤が華蠱宮を訪れるのは、いつになるのか。
仙霞は、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
初めてできた、人との繋がり。
楊胤は、仙霞のことを忘れていなかった。
忘れようともしていなかった。
その事実に胸がきゅっと締めつけられ、仙霞は衣の胸元をそっと掴んでうつむく。そして、ほのかに唇を綻ばせた。
この感情を、なんと呼べばいいのかわからない。
胸の奥が温かく満たされる。仙霞という存在が、この世にあってもいいのだと、静かに肯定してもらえた気がした。
また会いたい、と仙霞は思った。
どのような形で再会できるのかはわからない。
それでも、いつか楊胤は会いに来てくれる。
(明日は、包子を作ろう)
【完】




