玉座に沈む月
「かしこまりました」
楊胤は深く拱手して頭を垂れる。
おそらく帝は、自分が四夫人の宮を訪れていたことを知っているのだろう。そうであれば、罪人が四夫人の中にいることも察しているはずだ。皇子とはいえ楊胤の力で四夫人を裁くことはできない。だが、帝の後ろ盾が得られるというのは、事実上の大きな追い風に他ならない。
(必ず見つけねばならぬ)
楊胤の背筋に冷たいものが走る。
梅昭媛の件のときとは訳が違う。あのときは、見つからなくともそれらしい報告でやり過ごせただろう。
しかし今は、帝の命がかかっているのだ。間違いなど許されない。必ず見つけて処罰し、帝の蠱病も完解せねばならない。
「もしも此度の件を解決し、余の病も治せるなら、お前を皇太子に指名してもよい」
「は?」
思わず間抜けな声が漏れた。青天の霹靂で、理解が追いつかない。
帝の顔を見れば、不敵な笑みが浮かんでいる。
「皇太子でございますか。私は継承権も低く、母はただの女官でした。偉大な兄たちを差し置いて、私が皇太子とは不敬の極みでございます」
楊胤は失礼にならぬよう言葉を選び慎重に答えた。
皇太子になりたいなど一度も思ったことはない。
野心とは無縁に生きてきた。もし本当に皇太子となれば、兄たちの嫉妬で命が危ういのも明らかだ。
「もちろん、余はお前の母のことをよく覚えておる。聡明なまなざし、高い矜持、良き女であった。もし今も生きていたならば、皇后にまで昇っていたかもしれぬ。それほどの器量の女だと余は見ていた。惜しいことをした」
初めて帝の口から母のことを聞いた。
楊胤は、そんな思いが帝にあったとは知らなかった。
言葉を失っていると、帝はさらに続けた。
「だから余は、お前を買っておる。虐げられながらも文武に秀で、その才を見せる。しかして野心を見せぬ。もしお前がその気になれば、愚鈍な兄たちなど一掃できように」
帝は口元を斜めに上げ、狡猾さを隠そうともしていない。
――ああ、やはりこの人を好きにはなれない。いや、大嫌いだ。
楊胤は心の中で吐き捨てる。
帝は賢帝と呼ぶにふさわしい。人の才を見抜く目を持ち、多くの妃に子をなした。才ある女に子を宿させることは、皇帝としては正しい営みだろう。
だが、人としてどうかは別の話だ。
幾人もの妃に子を作り、歳を重ねればその訪れも途絶える。やがて帝は若い妃のもとへ通い、また子を宿す。後宮にいる女はすべて帝のもの――誰に手を伸ばそうと、責める理由はない。帝として当然の務め。帝が悪いわけではない。
しかし、人には心がある。
物のように扱われ、愛もなく夜伽を命じられる女たちの悲しみを、帝は想像したことがあるだろうか。きっと女たちも理解したうえで後宮に入ったのだと、そう思っているに違いない。だが古来より、後宮で女たちの諍いが絶えぬ理由を、この男はわかっていない。割り切って人形のように暮らせるのなら、愛憎など芽生えぬはず。
(母がどんな思いで自死を選んだのか……この男は一生、理解することはないのだろう)
寒々しい気持ちで、楊胤は帝を見つめた。
「身に余る光栄なお言葉、ありがたく頂戴いたします。ですが――」
断ろうとした矢先、帝が言葉を遮った。
「とりあえず、蠱毒の罪人を見つけることだけに集中せよ。わかったか」
有無を言わせぬ鋭いまなざし。
「……承知いたしました。全身全霊で勤めさせていただきます」
「よろしい。話は以上だ。下がれ」
楊胤は放心したまま部屋を下がった。
あまりにも突拍子もない内容だった。――こんな話を、蠱婆の前でしてしまってよいのだろうか。
(だが、蠱婆がいなければ蠱毒は抑えられなかった)
ここまで回復したのも蠱婆の力によるものだ。退出させられなかったのは当然か。
(俺が……皇太子?)
それは、いずれ皇帝となることを意味する。
玉座など望んだことはなかった。自分に資格があるとも考えたことがなかった。だが、楊胤の血は確かにその資格を有している。
(なぜ帝は、急にそんなことを……)
頭の中は混乱していた。だからこそ冷静にならねばならない。
楊胤は必死に思考をまとめようとした。
(……それほど蠱毒は恐ろしいのだろう)
無理もない。絶叫するほどの痛みと、死の恐怖にさらされたのだから。
この件を解決しなければ自らの命が危うい――ならば、どんな手を使ってでも解決しようとするはずだ。
(落ち着け。帝は本気で俺を皇太子にしたいわけではない)
病で気が弱っているだけだ。完解すれば、考えを改めるに違いない。
(……しかし)
大内殿の回廊で、楊胤の足が止まった。
足早に帰ろうとしていたが、思わず口元を手で覆う。
顔は青ざめていた。周囲に人影はない。
(もし罪人が――貴妃か淑妃だったら?)
帝がそう考えたからこそ、あの言葉を口にしたのではないか。
その可能性は高い。なにせ、罪人は四夫人の中にいるのだから。
だとすれば、四夫人の子でない自分に帝位を――と考えるのも、筋は通ってしまう。
(もし貴妃だった場合……三人の皇子は継承権から外れる。最悪の場合は死罪もあり得る。そうなれば――俺が第二位に繰り上がってしまう)
本当に、自分が皇帝に担ぎ上げられる可能性があるのだ。
ただの厄介ごとだと思っていた事件が、まさかここまで自分に関わるとは。
楊胤は青ざめたまま宮へ戻り、そのまま真っすぐ仙霞の棟へと足を向けた。




