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境界に触れたもの


 世界が、軋んでいた。


 ――ミシ、……ミシ。


 音とも呼べない微かな歪みが、空間の奥で反響している。

 風は止み、鳥は鳴かず、ただ“何かがずれている”という違和だけが広がっていた。




「……なんだ、あれ……」


「動くな……見るな……」


「嘘だろ……街の結界、効いてねえ……」




 押し殺した声が、あちこちから漏れる。


 誰もが本能的に理解していた。

 あれは、“関わってはいけないもの”だと。




 黒い存在は、そこにあった。


 輪郭は曖昧。

 形は定まらず、煙のように揺らぎながら、それでも確かな“質量”だけが現実を押し潰している。


 ――ズゥ……ン。


 重さが、遅れて地面に響く。


 近づけば壊れる。

 触れれば消える。


 そういう理屈の外側にあるもの。




「……災厄級だ……」


 誰かが、かすれた声で言った。


「いや……あんなの、記録にない……」


「終わりだ……逃げろ……」




 だが、誰も動けない。


 逃げるという選択肢すら、思考から抜け落ちている。




 ――なるほど。


 内心で、ひとつ納得する。


 確かにこれは、“外側”だ。




 思考は静かだった。


 恐怖も、焦燥もない。


 ただ、既視感だけがある。


 何度も、繰り返してきた感覚。

 何度も、突き当たってきた“終点”。




 足が、一歩だけ前に出る。


 ――コツ。


 石畳を踏む音が、やけに大きく響いた。




「……おい」


「誰だ、あいつ……」


「まさか……チュートリアル坊……?」




 背後のざわめきが、わずかに色を変える。


 嘲りと、困惑と、そして――理解できないものを見る目。




 空間が、沈む。


 黒が、こちらを向く。


 目はない。


 だが確かに、“見られた”。




 ――ギィィ……。


 空気が軋む。


 視界の端が、わずかに歪む。




 瞬間。


 景色が消えた。




「来るぞッ!!」




 誰かの絶叫が、遅れて響く。




 視界の外側から、“それ”は侵入していた。


 速い、という言葉では足りない。


 回避も、防御も意味を持たない。

 ただ、“そうなる”という結果だけが先に存在している。




 ――遅い。




 認識だけが先にあった。


 体は、その後から追いつく。


 踏み込み。


 ――ダンッ。


 重心移動。


 剣の軌道。


 ――ヒュン。


 すべてが分解され、再構築される。




 剣が振るわれる。


 それは技でも、力でもない。


 ただ、“そこにあるべき動き”。




 接触。


 否。


 **重なり。**




 ――ビキ。


 わずかな異音。


 黒の内部に、歪みが走る。




「……え?」




 誰かが、間の抜けた声を漏らした。




 見えない核。

 構造の継ぎ目。


 存在を成立させている“何か”。




 ――ここか。




 二撃目。


 ――ザン。


 今度は、確信だけで振るう。


 抵抗はない。


 だが、**手応えだけがある。**




 次の瞬間。


 静止。




 すべてが止まる。


 音も、風も、呼吸も。


 ――しん、と。


 世界が、音を失う。




「……なに、した……?」




 誰かが、呟いた。




 ひびが入る。


 黒い存在の“内側”から。


 ――ピシ、……ピシピシ。


 表面ではない。


 **意味そのものが、壊れていく音。**




 そして。




 崩壊した。




 ――パリン。




 それは、あまりにも軽い音だった。


 災厄と呼ばれたものの最期としては、拍子抜けするほどに。




 次の瞬間。


 何も、なくなっていた。




 風が戻る。


 ――ザァ……。


 誰かが、膝をつく。


 ――ガクン。




「……消えた……?」


「嘘だろ……」


「一撃……いや、二撃……?」




 理解が追いつかないまま、ざわめきだけが広がる。




 その中心に、ひとり。


 俺は立っていた。




 ――こんなもんか。




 軽く息を吐く。


 ――ふう。


 想定より、少し弱かった。




 視線を感じる。


 振り返る。




 銀髪の女が、そこにいた。


 風に揺れる髪。

 鋭い視線。


 だがその奥には、明確な“理解不能”がある。




「……あなたは、何者?」




 問いは、正確だった。




 俺は少しだけ考えて。



「……まだ、チュートリアル中の冒険者だよ」



 その言葉に。


 周囲の空気が、もう一度だけ凍りついた。


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