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アイリスの瞳  作者: たけひろ
第六章:完璧と蜜
55/58

54.急な来訪、ごめんなさい

User: TANAKA TORU [ID: JP-58D2Q7VA-E]

Date: 2030-12-12 (JST)


[LOG ENTRY]

・・・

-No active client detected.-

・・・

________________________________________


「ふぅ……」


髪に残った水気をドライヤーでしっかりと乾かし、一息つく。

まだ19時前だと言うのに、12月の太陽はとっくに沈み切って窓の外は真っ暗だ。

それに伴って気温も瞬く間に下がっていき、築30年ほどのこのアパートの断熱性能では、室内にいても冷たい空気を感じる。


(『殺すつもりなら、どうぞご自由に。生き抜いて見せます』、だと。大口叩いたもんだ……)


先ほど家に到着してから、ボロボロになった身なりを整えるために、服は適当に洗濯機に放り込み、とりあえずシャワーに向かった。

ついでだからと風呂も張ってしばらく浸かり、芯まで温まった。

命の危険にさらされ、寒空にさらされ、疲れ切った身体が、熱い湯で心地よくほぐされていった。


だと言うのに、今も手の震えが止まらない。

理由なんて分かり切っている。ただただ、怖いのだ。


(SOPHIAによる、未必の故意。これだけでも恐ろしいと思ったが、アンドロイド、IRIS、か。人と見分けがつかない、という事が、ここまで恐ろしい物だったとは……)


高橋さんの説明は、理路整然としていた。だが、彼らはあの事故が起きるその瞬間まで、俺を騙して上手く誘導しようとしていたのだ。

きっと何事もなくDVDを高橋さんに渡していたら、そのまま明かされる事なく、嘘を吐き続けていたはずだ。

殺す気は無いとか何とか言っていたが、とても頭から信じられない。


だが、彼らの言い分を信じられない、という事は。

今この瞬間にも、事故や殺人で、俺が死ぬ可能性だってある、という事だ。

意識して忘れようと思っても、どうしても頭の片隅に恐怖がこびりついてしまっている。


この部屋の隣に住んでいる人は、人間か?

小林は?課長は?井口は?大場は?名倉は?

これまでの事件で関わった関係者は、全員人間だったのか?

明日たまたま出会う人がIRISで、俺を殺しに来る、という可能性は?


(『一人でも、SOPHIAの危険性を訴え続けます』。言うのは簡単だが、何をしたら良いんだろう。俺に、何ができるんだろう)


もう、誰を信じれば良いのかも分からない。そんな世界で、たった一人でできる事なんてあるのだろうか。

何か行動しないといけないとは思いつつ、何をすれば良いのか見当もつかない。

今朝も何をすれば良いか分からない所から始まったが、1日経って、更に袋小路に追い詰められてしまったようだ。


…今日は、色々あって疲れた。さっさと寝て、明日からまた考えるとしよう。

まだ早い時間だが、疲れ切っている今なら、きっと泥のように眠れるだろう。

そう思ってベッドに向かおうとした所で――


―――キンコーン。


部屋備え付けの呼び鈴が鳴り、動きを止める事となった。


(……こんな時間に、来客?)


そもそも、この呼び鈴が鳴る事自体が稀だ。

俺自身が友達が多いわけでも無い上、誰か来るにしてもSOPHIA経由で連絡があれば出迎える。

だから、セールスくらいにしか使われないのだ。


(今、俺がSOPHIAを切っているからか?それにしても一体誰が……?)


誰かが、IRISが俺を殺しに来たのかもな。上等だ、それなら最後まで抵抗してやる。

そう心の中で嘯きながら、ドアに向かい、インターフォンを取った。


「はい、田中です。どなたですか?」

『こんばんは、急な来訪、ごめんなさい。市役所の春日です。』

「……春日さん!?」

『はい、ちょっと桂さんに関係する事で、内密に相談があって。今、少し時間よろしいですか?』

「わ、分かりました。すぐ開けます」


桂弓彦の事件を調べていたのなんて、もはや体感的には遥か昔の事だが、それでも無下に断る事なんてできない。

俺は慌ててチェーンを外し、ドアを開けた。

そこには、いつも通り魅力的な微笑みを湛えた、春日さんが立っていた。


―――後になって考えれば、やはり疲れと恐怖で冷静で無かったのだろう。

彼女が桂弓彦の何かを知っていたとして、俺に相談したかったんだとしても。

SOPHIA経由の連絡ならともかく、俺の家を知っているはずが無い、という事に気付く事はできなかった。


________________________________________


(さすがに、不思議な光景過ぎる)


1人暮らしのオッサンの殺風景な部屋。そのキッチンで、春日さんが料理をしている。

彼女は入ってくるなり、「お食事は済ませましたか?…まだ?それはいけません、食材だけあれば、簡単な物なら作って差し上げますよ」と言って、あれよあれよと料理を始めてしまったのだ。

正直、昼から怒涛の展開だったせいで食事なんて頭から抜け落ちていた。

あと、キッチンもだが部屋の掃除をしておいて良かった。


(しかし……やっぱり、綺麗だな……)


知り合いの、それも憧れている女性が自分の家で料理をしているという現実離れした光景に、ぼんやりと余計な事を考えてしまう。

相変わらず野暮ったい眼鏡型SOPHIAを掛けているものの、穏やかで包容力のある雰囲気に、柔らかな身体のライン。

更に手際を見るに料理も得意らしい。

そういえばいつぞやに市役所で出会った中富というお婆さんが、独身なのが不思議、と言っていた。全面的に同意する。


「はい、簡単な物ですみませんが、できましたよ」


そうこうしているうちに、料理ができたらしい。春日さんは器を持ってきてくれた。

丼用の大きな椀に太い麺と軽く火を通した野菜が盛られていて、もうもうと湯気を立てている透き通ったスープが注がれている。

その温かさとほのかに感じる出汁の香りだけで、食欲がそそられる。


「あまり時間をかけても、と思い、簡単なおうどんにしました。今日は寒かったので、温まってください」

「いや、ホント、恐縮です。……温かそうで嬉しいです。ありがとうございます」


やはり、意識から抜け落ちていただけで、腹は減っていたのだろう。

一口食べると猛烈な空腹感が沸き起こり、ついつい一気に食べきってしまった。

食べきってから、目の前に微笑んでいる春日さんがいる事を思い出して、ハッとする。


「あー、すみません、今日は事情があって昼も食べて無かったせいで、つい夢中になって食べてしまいました」

「いえいえ、お口に合ったようで何よりです」

「えーっと……そういえば、桂さんの事で何かお話に来られたとか。伺いましょうか?」

「ああいえ、すみません、あれは方便です。田中さんとお話したかっただけですよ」


照れ隠しのためにも本題に入ろうと思ったのだが、春日さんは微笑んだままとんでもない事を言い出した。

お話したかった?俺と?

いやいや、冗談に決まっている。舞い上がるんじゃない、俺。


「……ははは、本当だとしたら嬉しいんですが、揶揄わないでくださいよ」

「いえ、揶揄ってなんていませんよ。本当です。田中さんとお話に来たんです」


春日さんの表情は変わらない。本当に?

だが、本当に今更なんだが、警察官として現在の状況があまり良くない事に気付いた。

事件関係の緊急事態ならともかく、もし春日さんが桂弓彦の事件に関係する話じゃないのであれば、交際関係にあるわけでも無い女性をただ部屋に上げている事になる。

しかもその女性に夕飯まで作ってもらっている。それこそSOPHIAが起動していたら警告と報告のオンパレードだろう。


「……そうですか。いやしかし、私は警察官として、事件の聴取以外で異性を部屋に上げるのは少々マズいので、できれば日を改めて――」

「大丈夫ですよ。ここに来る前にSOPHIAの電源は切りましたし、誰にも、誰のSOPHIAにも見られていませんから」


暖房で温められていた室内の空気が、急に凍り付いたような気がした。

春日さんが来てから忘れていた、手の震えが戻ってきた。


「SOPHIAにも、見られていない?」

「はい、少なくともここに着く1km前からは一切見られていません。だから私がここに来た事を知っている人は誰もいませんよ」

「……どうして、そんな事が、言い切れるんですか?」

「だって、私もIRISですから。他のSOPHIAが見ているかどうかくらい、簡単に分かりますよ」


そう言って笑みを深める春日さんは、やはりどこまでも魅力的だった。

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