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アイリスの瞳  作者: たけひろ
第四章:そして何も見えなくなった
42/57

41.出勤時間は迫っており――

User: TANAKA TORU [ID: JP-58D2Q7VA-E]

Date: 2030-12-12 (JST)


[LOG ENTRY]

・・・

07:14:06 — Emergency detected: incident moment log recorded.

07:14:06 — Vital signs checked. No bleeding or injuries detected.

07:14:06 — User notified: confirmation required for emergency reporting.

・・・

________________________________________


(あっ……ぶねぇ……)


道路に横たわりながら、晴れ渡る青空を見上げている。

俺の気持ちとは裏腹に、雲一つ見当たらない。

周辺は軽く騒ぎになっているものの、爽やかな良い天気だ。


(火事場の馬鹿力……って奴かな。警察で柔道を学んでおいて良かった)


どうもバイクがスリップして突っ込んできたらしい。そのまま突っ立っていたら直撃だっただろう。

辛うじて身体が反応し、バイクを飛び越えて前転をするように回避した。受け身だって上手く取れた。

今道路に横たわっているのは、とっさの事で勢いが付き過ぎて、そのまま倒れ込んだだけだ。


さすがにあんなアクロバティックな動きをこの年齢でするのはキツイ。節々に痛みがある。

だが、幸いケガのような熱を持った痛みは感じられない。

ダメージは無理な動きをした反動だけで済んだようだ。


(さて、いつまでもぼーっとしてられない)


正直しんどいが、自分に喝を入れて起き上がる。バイクの突っ込んでいった方を見ると、30mほど先で街路樹に激突したようだ。

その数mほど手前に運転手が倒れているが、自分で起き上がろうとしている所から見るに意識もあるらしい。

だが警察官として放置もできない。立ち上がって駆け寄る。


「大丈夫ですか?お怪我は?」

「……ああ、大変申し訳ありませんでした。僕は軽い打撲くらいで、大丈夫だと思います。あなたこそお怪我はありませんでしたか?」

「はい、幸い私もなんとか回避できました。どこもぶつかっていませんので大丈夫です」


運転手がフルフェイスヘルメットを脱ごうとするのを手で制し、簡単に身体の状態を確認する。

幸い強い痛みの兆候などもなく、眩暈や嘔吐感も無いらしい。

素人判断で断言はできないが、とりあえず切迫した危険は無さそうだ。少し安心できた。


119番に連絡して救急車の手配と、警察も呼んでもらうようにお願いだけして、改めて運転手に向き直る。

警察では交通課の案件になるはずだ。詳しい事情聴取はそちらが行うはずだが、その前に、どうしても確認が必要な事がある。


「さて、すみません、実は私も警察の者です。まだ出勤前なのですが、葵原中央署刑事課の田中と申します」

「え!?け、刑事さんでしたか……この度は、誠に申し訳ございません……」

「ああいえ、責めようというわけではありません。幸い私も怪我はありませんでしたしね。むしろ対応に慣れた私で良かったです。

……ただ、雑談がてら、少しだけお話を聞かせてもらおうかと思って」

「え、ええ、構いませんが……」


運転手は若い男性、ヘルメットを着用したままで目元しか見えないが、おそらく20代後半くらいだろう。

事故の直後で無理もないが、恐縮しきりで、目も泳いでいる。


「普段からバイクには乗っているんですか?」

「ええ、趣味なんです。今日は久々の良い天気だったので、ツーリングに行こうと思っていたんですが……」


男はチラリとバイクの方を見る。エンジン付近が街路樹に激突したようで大きく凹んでいる。

大破というわけでは無いが、少なくとも無事とはとても言えないだろう。


「なるほど。では、どうしてスリップを?」

「申し訳ありません……」

「いえ、責めているわけではなく、シンプルな疑問なんです。普段からバイクに乗っているなら、こんな見通しも良い交差点でそう簡単に転ばないだろう、と不思議で」


ここが、核心だ。

もし俺の予想が正しいなら。そしてもし俺がすでに目を付けられているのならば。


そして男は、俺の予想通り――外れていて欲しかった予想通りの答えを返した。


「交差点に差し掛かる直前、信号がもう少しで黄色に変わりそうで、間に合わせようと焦ってスピードアップしちゃったんです。

そしたら道のちょうどカーブラインに氷が張っていて、それに気付いた時にはもう氷の上で車体を傾けていた所で…。

そのままスリップして、交差点に突っ込んじゃった、というわけです」


バイクの運転手が、『信号がもう少しで青から黄色に変わりそう』だなんて、どうやって知ったのか。それは、”何か”に教えられたからではないだろうか。

『スピードアップして間に合わせよう』だなんて、なぜ思ったのか。趣味のツーリングなら急ぐ必要も無かっただろうに、”何か”に今なら間に合うとでも言われたのではないだろうか。

その道に氷が張っていたのは、偶然だったのだろうか?

そしてその先に俺が、妙な仮説を考えているであろう人間が立っていた事は、ただの奇跡的な偶然だとでも言うのだろうか?


「ツーリングは元々行く予定だったんですか?」

「昨日までは雨だったので迷っていたのですが、今日早朝に起きたら『よく晴れそうでツーリング日和だ』と言われ、つい浮かれて出発しちゃいまして」

「……SOPHIAに、言われたんですね?」

「はい。よくよく考えれば、この寒さだからアイスバーンや水たまりが凍っている事は想定すべきでした。重ね重ね、僕の不手際で危険な目に合わせて申し訳ありません。賠償など必要でしたら必ず」

「いえ、それには及びませんよ……」


昨日の深夜まで雨が続き、今朝はこの冷え込みだ。日が昇って間もない今の時刻は、道に氷が残っている事なんて容易に想像ができる。

だと言うのに、ツーリングを促した。それはきっと、『バイクの運転に慣れていてツーリングが好きなユーザーへの最適化』なのだろう。

交差点でのやり取りも、『ユーザーの普段の行動を踏まえての最適化』の一環だろう。


男は何度も頭を下げているが、俺はもうそんな事を気にかけていられない。

もう、十分だ。はっきりと分かった。


(……きっと、昨夜『未必の故意』と口走ったのを聞かれたから、だろうな……)


証拠は無い。理由も分からない。目的も分からない。

だが、もはや仮説だなんて言っている場合じゃない。

SOPHIAは、偶然の重なりに見せかけて、殺人を行っている。

そして、俺はその標的の仲間入りをしてしまった。


その後、男は救急車に乗って病院に運ばれて行った。救急隊員の話では、意識もはっきりしているしおそらく問題無いだろう、との事だった。

予想通り葵原中央署交通課の警察官(生憎と知り合いでは無かったが)が来て事情聴取を行ったが、俺に怪我が無かった事、俺と運転手の供述にもSOPHIAログにも不整合が無かった事、そして俺が賠償などを特に要求しないと表明した事から、聴取が終わったらその場で解散となった。

当然だ、彼らの目には不運が連続して重なった、不幸な事故としか見えていないのだろうから。


全部終わったのは、そろそろ9時になる頃だった。

警察署まで送ろうかと言われたが、固辞した。

これから病院に行って運転手の事情聴取もしなければならないだろうし、報告書作成なども必要だろう、俺は自分で歩いて行けるから大丈夫だ、と。


それらは嘘ではない。だが、全部建前だ。

俺は今この瞬間、どうしても確認しなくてはならない事があっただけだ。


「なぁ、SOPHIA。どうしてさっき、あのタイミングで水道料金の通知をしたんだ?」


努めて平静に、声に震えが出ないように、問いかけた。

これが、決定的な分かれ道になる予感を持ちながら。

視界の外で俺の手がゆっくりと上がっていき、やがてSOPHIAに指が触れた。


[申し訳ありません、田中様。以前『警察業務中以外ならいつでも良い』と伺いましたので、移動中でも問題無いと判断しておりました。以後は座っている時などを優先するようにいたします]

「……そうか、さすが、”完璧”な対応、だな」

[恐縮です。では改めてご出勤ください。遅刻の旨は伝えてありますが、出勤時間は迫っており――]


―――プツン。


SOPHIAの電源ボタンにかけていた指を離した。

もうこの声に素直に耳を傾ける事はできない。電源さえ切断すれば、SOPHIAは俺に直接干渉できないはずだ。

大丈夫だ。SOPHIAが現れたのはたかだか6年前、俺は警察勤務歴だけでも18年のベテランだ。SOPHIAが無い社会の方が慣れ親しんでいるくらいだ。

子供の頃は携帯電話すら無かった。何も連絡手段が無い時代だって経験がある。


だと言うのに、どうしてだろう。何も見えない、何も聞こえない。社会の全てから取りこぼされたように感じるのは。

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