噂の値段
アルマディア公国との「三つ目の答え」が、ひとまず受け入れられた——
その知らせが届いた日、辺境の空には、いかにも「何事もありません」と言いたげな青が広がっていました。
「まずは、この程度から様子を見るのが賢明でしょう」
倉庫の中で、木箱に貼られた印を確認していたレオンが、控えめに言います。
公国から届いたのは、乾燥させた薬草や、保存性の高い干し肉、少量の上質な布。
こちらから送るのは、北限でしか採れない鉱石と、精霊の加護を受けたと言われる穀物。
「ええ。大きな約束ほど、ゆっくり育てたほうが安全ですわ」
私は木箱に手を置きながら答えました。
商談用の墨跡がまだ新しい帳簿。
積み上がった木箱の隙間から差し込む光。
穏やかで、少しだけ緊張をはらんだ空気。
——少なくとも、この倉庫の中までは、「世界の駆け引き」は届いていないように思えました。
◆ ◆ ◆
その日の夕刻、私は集いの家に顔を出しました。
公国との取り決めが動き出すという噂は、村の人々にも少しずつ広がっています。
実際の中身を知っている者は多くありませんが、「物資が少し楽になるらしい」という期待だけは、そこかしこで話題になっていました。
「……でな、王都じゃあこう言ってるんだとよ」
焚き火の代わりに灯されたランプの下、旅の商人が身振り手振りを交えて話しています。
木の長椅子に座る村人たちが、興味津々といった顔で耳を傾けていました。
私は端の席に座り、お茶を口に運びながら、その様子を眺めます。
「“アルマディア公国が、歌えば国がひとつ消える女を取り込もうとしている”——だとさ」
「またその二つ名ですの……」
思わず小さく呟いてしまいました。
隣に座っていた侍女が、肩を震わせます。
「お嬢様、声が漏れております」
「失礼」
私は咳払いひとつで誤魔化し、耳を澄ませました。
「王都の連中はな、あんたのことを“公国の切り札になるかもしれない女”だってさ」
商人は、わざと声を潜めたり高めたりしながら続けます。
「教会筋の偉いさんたちは、“あの女を放っておけば秩序が崩れる”って顔をしてるとか」
ざわ、と小さな笑いとざわめきが混じりました。
“あの女”——どうやら、私のことらしいのですが。
(せめて名前ぐらいは呼んでいただきたいものですわね)
心の中でだけ、ささやかな不満を漏らします。
すると、商人がふっとこちらを見ました。
「……で、だ」
彼は、どこかいたずらっぽい目をして言いました。
「一番たちが悪いのは、その噂を“利用しよう”って考える連中でさ」
「利用、ですの?」
思わず問い返すと、商人は肩をすくめました。
「“辺境の奇跡の公爵令嬢と繋がっている”って言えば、
値切り交渉が楽になると思ってる商人とかね」
周りの何人かが、苦笑混じりに顔を見合わせます。
「“あの公爵令嬢に頼めば、雨だって好きなときに降らせてもらえる”とか言って、
自分の都合のいい話を通そうとする貴族もいるらしい」
彼は指を一本立てて、くるくると回しました。
「つまり——あんたの名前に、勝手に値札をつけて、
あちこちの交渉のテーブルに並べてるってわけさ」
お茶の湯気が、ふわりと揺れました。
(私は、ここで畑と学校と、小さな祈りを守っているだけなのに)
心の中で、そっとつぶやきます。
(“リヴィア”という名前だけが、遠く離れた場所で値段をつけられて、
見たこともない市場を歩き回っている——)
少し、気味が悪くなりました。
「リヴィア様のサイン入り証文とか作れば、高く売れますよ」
冗談めかしてそう言ったのは、マルコでした。
いつのまにか集いの家に顔を出していたらしく、壁にもたれて腕を組んでいます。
「もちろん、正式な許可があれば、ですがね」
「そんなものはありません!」
思わずきっぱり否定すると、周囲から笑いが起こりました。
笑い声の響く空間にいるのに——
胸の奥には、やはり冷たいものが残ります。
(私がここでどれだけ静かに息をしていても、“物語としての私”は、
勝手に値札をつけられて、
見たこともない市場を歩き回っているらしい)
それを完全に止めることは、おそらく不可能なのでしょう。
噂は、人の口と耳がある限り、どこまでも勝手に育っていきますから。
◆ ◆ ◆
数日後。
執務室で書類に目を通していると、マルコが軽い足取りで入ってきました。
「ちょっと面白い話を仕入れてきましてね」
「面白い、という言葉で始まる報告は、大抵ろくでもありませんわよ?」
「まあまあ、聞いてください」
マルコは椅子に腰を下ろし、片手で紙片をひらひらと振って見せました。
「《赤い風》のカタリナ嬢、覚えておられますね」
「忘れようとしても忘れられませんわ」
森で交わした会話。
正義と正義がぶつかり合ったあの夜の空気が、ふっと蘇ります。
「その彼女が、どうやらこう言っているらしい」
マルコは紙片を見て、読み上げました。
「“公国に取り込まれるくらいなら、あの女も敵だ”——と」
私は目を瞬きました。
「……早とちりも、ここまでいくと芸術ですわね」
思わず本音が漏れてしまいます。
マルコが口元を歪めました。
「向こうからすれば、“公国と話をしている”って情報だけで、
そう判断してもおかしくはない。
それだけ、あの女にとって公国は憎むべき相手ってことですよ」
「……ええ。分かっています」
頭では、理解できます。
カタリナは、奪われたものの側から世界を見ている人。
公国も教会も貴族も、まとめて「壊すべき構造」として憎んでいる。
そんな彼女から見れば、私の「三つ目の答え」は、
きっと「日和見」にしか見えないのでしょう。
(それでも——)
胸の奥に、小さな棘が刺さるような感覚がありました。
(私が何を選ぶかで、誰かが“味方”になったり、“敵”になったりする)
噂というものは、本当に簡単に、人と人の間に線を引いてしまいます。
公国にとって私は、
「取り込むべき価値ある駒」であり、
教会にとっては、「秩序を乱しかねない危険な変数」。
王都の貴族から見れば、
「利用価値はあるが、扱いを誤れば自分の立場を危うくする存在」。
《赤い風》からすれば、
「今は辛うじて共闘することもあるが、
どの瞬間にでも“敵”へと転ぶかもしれない不安定な要素」。
(そして、ここで一緒に畑を耕している人たちにとって私は——)
窓の外から、子どもたちの笑い声が聞こえてきました。
字の練習をしている声。
誰かが誰かを追いかける足音。
(……ただの、“少し魔法が使える領主”くらいでいてくれれば、
いちばん楽なのですけれど)
苦笑が、自然と漏れました。
◆ ◆ ◆
その日の夕方、私は集いの家の片隅で、一人お茶を飲んでいました。
旅人たちの噂話は、相変わらず尽きません。
「聞いたか? “彼女の機嫌を損ねた国は滅ぶ”って話」
「それは言いすぎだろう」
「でもよ、辺境の城は悪人を飲み込むって噂もあるし——」
子どもたちでさえ、「歌えば国がひとつ消える女ごっこ」なる謎の遊びをしている始末です。
「だから、誰が最初に言い出しましたの、その噂……」
思わず頭を抱えると、近くにいた行商人が、くつくつと笑いました。
「まあまあ、お嬢さん」
「お嬢……?」
思いがけない呼び方に顔を上げると、その商人は悪戯っぽい目をしていました。
「噂ってのはな、恐怖と期待の足し算でできてるもんでさ」
「恐怖と……期待」
「“あんたの機嫌を損ねた国は滅ぶ”って噂が広まれば、
あんたを怒らせないようにする国も出てくる」
彼は指先で空中に円を描きました。
「そして、“あんたの機嫌を取れる”って考えた奴は、
その噂を逆手に取って、自分の商売や政治の駆け引きに使おうとする」
「私の名前を、ですの?」
「そう。あんたの名前をね」
彼は、まるで当たり前のことを告げるように言いました。
「それが“噂の値段”ってやつですよ。
あんたの名前は、今、世界のあちこちの卓の上に並べられてる」
お茶の表面に、ランプの灯りが揺れました。
その揺らぎが、どこか遠い国々の会議室や、
地下の酒場や、
暗い森の中で囁かれる言葉と、
一本の糸で繋がっているような気がして——
思わず、指先に力が入りました。
(私が何もしていなくても。
私がただ、ここで今日の天気と畑の様子を気にしているだけでも)
(“物語としての私”は、
どこかで、誰かの取引材料になっている)
「……少し、うんざりしますわね」
ぽつりとこぼすと、商人は肩を揺らしました。
「それだけ見れば、そうでしょうね」
「他にも何か、見えるのですの?」
「そりゃあ」
彼は、いたずらっぽく片目をつぶりました。
「“噂の値段”が高くなればなるほど、
あんたの名にただ乗りしようとする奴も増えるけど——」
「同時に、“直接確かめようとする奴”も増える」
「直接、ですの?」
「そう。“本物”か、“作られた怪物”か。
どっちなのか、自分の目で確かめに来たがる連中がね」
私はしばし黙り、湯気の向こうを見つめました。
(本物か、怪物か)
その評価は、きっと人の数だけ違うのでしょう。
私がどれだけ説明しても、「自分の正しさ」から見た私の姿を、誰も手放してはくれない。
(それでも——)
胸の奥で、小さく息を吸います。
(噂に引きずられて歩くのではなく、
噂に追いつこうとする側でいたい)
私が何を選ぶかで、
誰かが「味方」になったり、「敵」になったりする。
その事実は、きっとこれからも変わらないのでしょう。
だけど。
「私が何を選ぶかを決めるのは、噂ではありませんわ」
小さく、けれどはっきりと呟きました。
「ここで生きている人たちの顔と、
私が守りたいと思ったものたち。
それだけです」
噂は噂。
物語は物語。
“物語としての私”が、どこでどんな値札をつけられていようとも——
この手で触れられる現実だけは、私自身が選びたい。
外では、夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていました。
その空の下で、誰かがまた、私について何かを語っているのかもしれません。
それでも私は、目の前のお茶を飲み干し、
今日もまた、畑と学校と、小さな祈りの帳簿に目を通すのです。




