二つの道、三つ目の答え
新しい条約案が届いたのは、曇り空の午前でした。
執務室の扉を叩く音は、いつもよりわずかに固く響いていた気がします。
「アルマディア公国使節団の正使殿がお見えです」
報せを聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴りました。
(いよいよ、“次の手”が来ましたのね)
私は深く一度息を吸い、机の上をさっと整えました。
散らばっていた報告書を重ね、インク壺の位置を指先で真っ直ぐに揃える。
そんなささやかな儀式で、自分の心を落ち着かせるのは、最近すっかり癖になってしまいました。
◆ ◆ ◆
応接室の扉を開けると、すでに正使と書記官が席についていました。
テーブルの中央には、見慣れた公国式の紋章入り封筒。
その横に、少し分厚い書類束が整然と積まれています。
「お待たせいたしました、リヴィア・エルノーラ・ヴァルシュタインです」
私が名乗ると、正使は立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべて一礼しました。
「お呼び立てしてしまい恐縮です、公爵令嬢。
先日のお話を受けまして、本国にて改めて検討がなされました」
そう言って彼は、手元の書類束を指先で軽く叩きます。
「こちらが、修正を加えた条約案でございます」
「拝見いたしますわ」
私は書類を受け取り、ページをめくりました。
そこには、確かにいくつかの変化がありました。
たとえば、軍の駐留について。
『緊急事態において、公国は辺境領の防衛のために軍を派遣し得るが、
その駐留期間は、辺境領主および公国代表の協議により定めるものとする』
以前よりは、辺境側の意志が明文化されています。
監察官についての条文もこう変わっていました。
『治安維持のための監察官は、公国より派遣することができる。
ただし、その職務権限は、辺境領主との協議により定められ、
辺境領の法と慣習を尊重するものとする』
一見すれば、こちらの要望が反映された形です。
文末には、「尊重する」「協議する」「共同で」という穏やかな言葉が並んでいました。
けれど——。
(“誰が”“どの場面で”決めるのか。
肝心なところは、まだ公国側が握っておられますわね)
ページをめくるたびに、喉の奥に小さな棘がひとつずつ引っかかるような感覚がありました。
正使は、私の表情を注意深く窺いながら口を開きました。
「我が主は、妥協もまた力だと理解しておられます」
「……妥協、ですか」
「ええ。すべてを我が方に引き寄せようとすれば、
かえって反発を生みますから」
正使は、微笑みを崩さぬまま続けます。
「ですが、完全な対等など幻想でもある。
世界は、どこまでも綺麗事だけでは回りません」
静かな口調でした。
けれど、その言葉には、長く権力の側に立ってきた者の現実感が滲んでいます。
「我が主は、あなたを高く評価しておられる」
その一言に、空気が少し変わりました。
「辺境を守り、教会とも王国とも距離を取りながら、
奇跡を振るう娘。
その名は、既に多くの国々に届いている」
正使は、まっすぐに私を見ました。
「ゆえに——辺境に埋もれさせるつもりはない、と」
そこからの言葉は、はっきりとした二つの道として提示されます。
「ひとつは」
彼は指を一本、立てました。
「この条約を、我々の案に近い形で受け入れ、
公国の庇護のもとで、より大きな舞台に立つ道」
続けて、もう一本。
「もうひとつは、条約を断り、
これまでどおり“独立した辺境”として道を選ぶこと」
正使の声は、終始穏やかでした。
けれど、その言外の意味は、あまりにも明瞭です。
——前者を選べば、保護と繁栄を。
——後者を選べば、教会や他国との軋轢の矢面に立つ可能性を。
部屋の空気が、少し重くなりました。
視線だけで周囲を窺うと、レオンが静かにこちらを見ているのが分かります。
マルコは眉をわずかにひそめ、口元に指を当てていました。
誰も軽々しく言葉を挟もうとはしません。
(……二つの道。
庇護を取るか、孤立を選ぶか)
目の前に置かれた条約案の紙束が、急に重く感じられました。
◆ ◆ ◆
正使の言葉は、決して間違ってはいません。
公国の庇護下に入れば——守れるものは、確かに増えるでしょう。
より多くの物資。
訓練された兵。
公国の名を背中に負うことで、他国や教会も無視しづらくなる。
子どもたちの学校は、もっと整えられるかもしれません。
病に苦しむ人々に届けられる薬も増えるでしょう。
(もし、ここを公国の領として差し出せば——
私の肩にかかる重さは、少し軽くなるのかもしれません)
頭の中で、ひとつの風景が浮かびました。
公都の立派な建物、整えられた道路。
私に丁寧な礼を向ける人々。
「奇跡の公爵令嬢」を、国を挙げて讃える声。
そして、その隣に。
今までどおり、この辺境に留まる道も、もちろん見えています。
時に教会とぶつかり、
時に王都の貴族から疎まれ、
そして今、こうして公国にも“扱いを決めかねた存在”として見つめられている。
嵐が来れば、最初に揺さぶられるのは、この北限の土地です。
世界の端に立っているということは、そういうことなのでしょう。
(どちらを選んでも、代償は払うことになる)
紙の上の選択が、ここで暮らす誰かの人生を変えてしまう。
それは、私がこれまで何度も噛み締めてきた現実です。
——それでも。
どちらの道にも、どうしても飲み込めない何かが残っていました。
公国の庇護は、いつ鎖に変わるか分からない。
「守る」という名のもとに、「従わせる」方向へ舵が切られる日が来るかもしれません。
独立を選べば、確かに誇りは守れるでしょう。
けれど、その誇りと一緒に、救えるはずの命まで手放してしまう瞬間が来る可能性だってある。
(……二つしかない、と言われること自体が、
すでに何かを諦める前提なのではなくて?)
この辺境で過ごした日々が、私に教えてくれたことがあります。
雨の降る田畑で、種を守るために、農夫たちは幾つもの工夫を重ねます。
「水を引くか、諦めるか」の二択ではなく、
「少し土を盛る」「風よけを立てる」「早く刈れる品種を混ぜる」——
そんな小さな工夫の積み重ねで、畑は生き延びてきました。
人の生き方も、きっと同じはずです。
「……なるほど」
私は、ゆっくりと顔を上げました。
「お二人のご提案は、よく理解いたしました」
正使が静かに頷きます。
「そうですか。
では——リヴィア様は、どちらの道を」
「ですが」
私は彼の言葉を、やわらかく遮りました。
「今ここで、世界の形を二つに切り分けてしまうのは、
少々、拙速に思えますわ」
「……拙速?」
正使の瞳に、ほんのわずかな興味の色が浮かびました。
◆ ◆ ◆
「公国の庇護のもとに入る道も、独立を貫く道も」
私は、自分の声が震えていないことを確かめながら言葉を紡ぎます。
「どちらにも、利点と代償があります。
それは、先ほどのお話で、よく分かりました」
「ですが——」
テーブルの上に置いた自分の手を、そっと重ねました。
温度を確かめるように。
「今、この場で全てを決めてしまえば、
その先に見えるはずだった別の道を、私たちは二度と選べなくなります」
正使の眉が、かすかに動きます。
「と、言いますと?」
「私から、一つ提案をさせていただいてもよろしいでしょうか」
正使は一瞬書記官と視線を交わし、それから頷きました。
「お聞きしましょう」
「今は、大きな条約は結びません」
私ははっきりとそう告げました。
部屋の空気が、わずかに張り詰めます。
けれど逃げずに続けました。
「代わりに——小さな協力から始めたいのです」
「小さな、協力?」
正使が言葉を反芻します。
「はい。
物資の交換なら、まずは限られた品目と量から」
私は指を折りながら、ひとつひとつ挙げていきました。
「例えば、冬場に不足しがちな薬草や保存食を、
決まった範囲と期間だけ、互いに融通し合う」
「共同防衛であれば、
国境近くの特定の村に限って、
“事前に双方が合意した場合のみ”小規模の協力部隊を組む」
「監察官ではなく、“連絡官”を互いに派遣し、
お互いの土地の事情を学び合う形にする」
書記官が、慌ただしくペンを走らせました。
正使は腕を組み、じっと私の言葉を聞いています。
「それらを、まずは一年——いえ、三年ほど」
私は少し考え、期間を告げました。
「一定期間ごとに結果を検証し、
互いにとって本当に利益があったのか、
どこに軋轢が生まれたのかを、隠さずに見せ合う」
そして——。
「その上で、将来的に大きな条約を結ぶべきだと、
双方が心から思えた時に、改めて話し合いの席についていただきたいのです」
静寂が落ちました。
正使の瞳が、まるで新しい生き物でも見るように、私を見つめます。
「……貴女は、本当に“囲い込まれる”ことを嫌うのですね」
静かに漏れた言葉には、非難よりも感心が混じっていました。
「それでいて、我々を完全に拒絶するわけでもない」
「公国を敵に回したいわけではありませんもの」
私は、ほんの少し口元を緩めました。
「ただ——私は、自分で選べる未来でなければ、信じることができません」
胸の内の言葉が、そのまま口からこぼれました。
「二つの道しかないと告げられたときこそ、
三つ目、四つ目の道を探すべきだと、
私はこの辺境で学びました」
「雨が降るか、枯れるか、ではなく」
ふと、畑の風景が浮かび、思わず例えを乗せてしまいます。
「水を引く、土を盛る、種を変える……
人は、思ったよりも、しぶとくて、しなやかですわ」
正使の口元に、かすかな笑みが浮かびました。
「……なるほど」
彼は背もたれに軽くもたれ、ゆっくりと息を吐きます。
「貴女の提案は、我々にとっても都合の良いものではないでしょう」
「でしょうね」
思わず、少しだけ肩の力が抜けました。
「しかし、悪いものでもない」
正使は視線を落とし、机上の条約案と私の顔とを何度か行き来させました。
「小さな協力と、観察の時間。
それは、公国にとっても“この辺境という土地”と“リヴィアという人間”を、
より正確に知る機会になる」
「それは同時に、
私たちにとって“アルマディア公国”という国を知る時間にもなりますわ」
「ええ」
正使は、最後にそう言い添えました。
「この案は、本国に持ち帰り、改めて検討しましょう。
我が主は、貴女のような人間を嫌うほど、狭量ではありません」
その言葉が、本心であることを願いたくなります。
「……噂どおりだ」
席を立ち上がりながら、正使がぽつりと呟きました。
「いえ、噂以上ですね、公爵令嬢。
奇跡だけでなく、“選び方”にも、随分とこだわりをお持ちだ」
「私には、剣も軍隊もありませんもの」
私は静かに答えました。
「せめて、自分の足で立つことと、
自分で道を選ぶことくらいは、譲れませんわ」
正使は一礼し、応接室を後にしました。
◆ ◆ ◆
会談が終わって、ようやく自室へ戻ると——
私はそのままベッドに倒れ込みました。
「……あそこで“嫌です”とだけ言えたら、
どれほど楽だったでしょうね」
枕に顔を埋めて、じたばたと足を動かします。
きっと、侍女に見られたら卒倒される光景ですわ。
「しかし、“全部断る”と“全部受け入れる”の間に、
道を作るのがこんなにも疲れるなんて……」
しばらくもぞもぞ転がっていると、静かなノック音が聞こえました。
「リヴィア様。入っても?」
扉の向こうから聞こえた声に、私は慌てて身体を起こしました。
「ど、どうぞ」
入ってきたのはレオンです。
彼は室内の乱れたベッドと、妙な体勢の私とを一度だけ見比べ、何事もなかったかのように視線を逸らしました。
「先ほどの会談……お見事でした」
「からかわないでくださいませ。
私、どこか変ではありませんでした?」
思わず聞き返すと、レオンは少しだけ考えてから、真顔で言いました。
「変だった点を挙げるとすれば……
三つ目の答えが、少々ずる賢く聞こえたところでしょうか」
「ず、ずる賢く……!」
私がむきになって声を上げると、レオンの口元が、ほんの少しだけ柔らかくなりました。
「褒め言葉です。
あの二択だけで話を終わらせないための、最善の知恵でしたから」
「……わ、私なりの精一杯ですのよ?」
「ええ。存じています」
レオンの言葉に、胸の奥が少し軽くなりました。
窓の外には、いつもの辺境の空。
遠く、まだ見ぬ公国の空と、どこかで繋がっているはずの青。
(選択を迫られるとき、
二つの道しかないと言う人を、私は信用しません)
心の中で、そっと言葉を繰り返します。
(世界はもっと、複雑で、しぶとくて、しなやかなはずですから)
だから私もまた——
簡単に決められた道を歩くだけの人形ではなく、
自分の足で、三つ目の、四つ目の道を探し続ける人間でありたい。
そう思いながら、私はもう一度、大きく息を吸い込みました。




