使節団の影
交渉がいったん中断されてから、三日が過ぎました。
名目は「本国への報告の準備」と「条文の精査」。
そのあいだ、公国の使節団は辺境の城に滞在を続けています。
滞在——という言葉は、本来、それほど不穏な響きを持たないはずなのに。
この三日間で、私はその言葉に、うっすらと別の重みを感じ始めていました。
◆ ◆ ◆
「アルマディアの騎士さまだって!」
その日、私は市場の様子を見に出た帰り道、子どもたちのはしゃぐ声を耳にしました。
人混みの向こうに見えるのは、公国の紋章をあしらったマントを羽織った数人の騎士たち。
きちんと手入れされた鎧に、陽光を反射する剣の柄。
村の人々は、物珍しさと緊張の入り混じった目で彼らを眺めていました。
「見るだけなら、構いませんわね」
私は自分にそう言い聞かせながら、少し距離を置いて彼らの様子を眺めました。
騎士たちは、屋台の並ぶ通りをゆっくりと歩いています。
しかしその視線は、焼き立てのパンや並べられた野菜にはほとんど向かず——
代わりに、私の目にはよく見慣れた建物のほうへと、さりげなく流れていきました。
たとえば、物資の倉庫。
たとえば、兵舎へ続く道。
そして、城壁の見える角度。
一人の騎士が、わざとらしくない程度の声量で呟くのが聞こえました。
「この領は……飢饉にはそこそこ強そうだな。
倉庫の数と位置が、よく考えられている」
別の騎士が、笑い混じりに応じます。
「兵の姿はあまり見えませんね。
訓練はどれほどの頻度で?」
質問を向けられたのは、近くにいた若い兵でした。
突然話しかけられ、緊張したのか、彼は少し慌てたように背筋を伸ばします。
「え、ええと……日によりますが、朝と夕にそれぞれ——」
「そうですか。規則正しいのは良いことです」
騎士はにこやかに頷きました。
けれど、その目は決して笑ってはいない。
彼らの視線は、“景色”ではなく、“数”を数えているように見えました。
兵の数。
見張りの交代のタイミング。
倉庫の出入り。
城壁までの距離と、道の広さ。
(……観光、というには、少し熱心すぎますわね)
そう思ったところで、小さな影が視界の端に飛び込んできました。
「これ、あげる」
公国の騎士の一人が、袋から取り出した飴玉を、近くにいた子どもに差し出しています。
透き通った琥珀色の飴が、陽の光を受けてきらりと輝きました。
「わあ……!」
受け取った子どもは、ぱあっと顔を輝かせます。
「アルマディアの飴だよ。公都の市で一番人気なんだ」
騎士は、どこか誇らしげに微笑みました。
その様子を見て、私は胸の奥が少しだけざわつくのを感じます。
「……全員が悪人、というわけでもないのですよね」
思わず、小さく漏れた言葉は、自分自身に向けたものでもありました。
飴を子どもに分け与える手はたしかに優しい。
けれど、その同じ手が、別の場では“数”を数え、“弱点”を撫でている。
友好的な笑顔と、冷静な観察の眼差し。
どちらも本物なのでしょう。
ただ——私が守らなければならないのは、飴玉の甘さに目を輝かせる子どもたちのほうなのです。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ、執務室に戻ると同時に、扉が控えめに叩かれました。
「リヴィア様。ご報告が」
入ってきたのはレオンです。
背筋はいつもどおり真っ直ぐですが、その目には少しだけ疲れがのぞいていました。
「どうぞ。ちょうどこちらも、市場で気になる光景を目にしましたの」
私は手振りで椅子を示します。
レオンは遠慮がちに一礼し、その場に立ったまま報告を始めました。
「使節団の護衛の一部が、ここ数日、城内のあちこちを歩き回っています」
「“散歩”という名目の、ですわね」
「ええ」
レオンは城の簡易地図を広げました。
「見て回っている場所は、主にここです」
指先が示したのは、城門、城壁、見張り台、兵舎、武器庫——そして物資倉庫。
「城門の構造、見張りの人数と交代時間。
兵舎の入り口の位置や、倉庫との距離。
何気ない会話の中で、さりげなく情報を引き出そうとしているようです」
「兵たちは?」
「今のところ、余計なことは話していないはずです。
ただ……“雑談”の形で繰り返されると、いつか何かを零しそうで」
レオンの眉間に、うっすらと皺が寄りました。
「早めに線を引くべきでしょう」
「そうですわね……」
私が頷いたところで、今度は別のノック音が。
「お邪魔していいかい、お嬢さん」
顔を覗かせたのはマルコでした。
いつもの軽い笑みを浮かべながらも、その目はどこか真剣です。
「ちょうどいいところですわ、マルコ。
公国の“散歩”について、そちらからも話が?」
「まあね。
レオン殿とは違う方向で、いろいろ見えてきたよ」
マルコは椅子に腰を下ろし、斜めに寄りかかるような仕草で続けました。
「ここ数日、酒場や市場でな。
公国の護衛さんたちが、うちの若い兵や商人とよく飲んでる」
「仲良くなるのは、悪いことではありませんけれど」
「問題は、そのあとだ」
マルコは、くるくると指先でコップの縁をなぞります。
「酔いが回った頃合いを見計らって、こんな話をする」
彼は少し声を低くしました。
「“アルマディアに来てみないか? 腕の立つ若者は、いくらでも歓迎される”」
胸の奥が、ぴくりと反応しました。
「具体的な条件までは、まだ出してねぇ。
でも、“公都の賑わい”“こっちと比べ物にならない給金”“出世の早さ”——
そういう話で、じわじわと耳元をくすぐってる」
マルコは、肩をすくめます。
「今のところ、本気で乗りそうなのはごく一部だが……
華やかな話に目を輝かせる若いのがいるのも、まあ、無理はないさ」
「そうですわね」
私は、窓の外に視線を向けました。
この辺境の空は広く、風は澄んでいますが——
公都のきらびやかな光には、きっと別の魅力があるのでしょう。
「私は、誰かが自分の意思で新しい世界へ行くことまで、止めるつもりはありません」
ゆっくりと言葉を選びながら、私は続けました。
「ですが、“抜き取られ方”だけは、見過ごせませんわ」
レオンが、静かに頷きます。
「“友好”の名のもとに、兵力と人材を削られれば——
いざという時、この辺境は丸裸になります」
「向こうに行ったやつが、あとで“案内役”にされる可能性もあるしな」
マルコの声音には、軽さと鋭さが同居していました。
「ここを好きな者が、ここを傷つけるために使われるのは……やりきれない話だ」
友好の名の下で、情報を集め、兵や商人の心を揺らす。
彼らのしていることは、戦場で剣を振るうのとは違う種類の“侵食”です。
それでも——。
(感情的に拒絶して、門を閉ざしてしまうのは簡単ですわ)
ですが、それではきっと、何も守れない。
世界はもう、辺境だけで完結するほど狭くはないのですから。
「……分かりました」
私は椅子から立ち上がりました。
「線を引きましょう。
穏やかに、しかし、はっきりと」
◆ ◆ ◆
その日の夕方。
私は公国の正使を、小さな応接室へと招きました。
「お呼び立てしてしまい、申し訳ございませんわ」
「いえ。公爵令嬢が私に用があるとあらば、いつでも駆けつけますとも」
正使は相変わらず柔らかな笑みを浮かべています。
しかし、その瞳の奥には、数日で少し色が増えたようにも感じました。
(“交渉で刃向かってくる娘”から、“少しは警戒すべき相手”になれたのでしたら、それはそれで上出来ですわね)
そんな自嘲を胸の奥に押し込んで、私は用件を切り出しました。
「先日から、あなた方の護衛の方々が、城下や村のあちこちをご覧になっていると伺いました」
「ええ。
初めて訪れる土地ですから、皆、興味津々でして」
正使は、冗談めかして肩を竦めます。
「食べ物も文化も、人々の暮らしぶりも。
辺境とはいえ、とても豊かだと感心しているのですよ」
「それは光栄なことですわ」
私は微笑みを返しました。
「わたくしどもは、あなた方をお客様としてお迎えしています。
ですから、市場や集いの家、教会など、皆の暮らしが見える場所を歩いていただくのは、歓迎いたします」
「ふむ」
「ただ——」
そこで、一度だけ息を整えました。
「城壁や城門、兵舎、武器庫、物資倉庫など、軍事に関わる場所の見学は、
今後はお控えいただけると助かりますわ」
正使の笑みが、ほんのわずかに固まりました。
「……我々が、そのような場所を?」
「ええ。
こちらの目から見て、“少し熱心すぎる観光”に映る場面がございましたので」
私は、決して声を荒げることなく、淡々と続けます。
「もし誤解であれば良いのですが——
城門の構造や見張りの交代時間、兵の数などを詳しく尋ねられたと聞いております」
正使の瞳が、一瞬だけ細まりました。
すぐに、柔らかな笑みに戻ります。
「……なるほど。
私の部下が、少々好奇心を抑えられなかったようですね」
「好奇心は大切なことですわ。
ただ、それが“友好”の枠をはみ出し、
こちらが警戒せざるを得ない域に達してしまうと——残念でしてよ」
正使は軽く首を垂れました。
「お詫び申し上げます、公爵令嬢。
我々の“熱意”が、少々行きすぎたようだ」
その口調は、あくまで丁寧。
けれど、その目にははっきりと「試した」という色が浮かんでいました。
(やはり、“どこまで許されるか”を測っておられたのですわね)
私は、胸の内の苦味を表に出さないよう、唇の端を穏やかに保ちました。
「それから——もう一点だけ」
「どうぞ」
「この数日、公国の護衛の方々が、我が領の若い兵や商人に、
“公国での仕事”や“より良い待遇”を匂わせるお話をされていると聞きました」
言葉の選び方には、細心の注意を払います。
「彼らが自分の意思で旅立ち、新しい土地で生きること自体を、
わたくしが止める権利はないと思っています」
正使が、意外そうに眉を上げました。
「ただし——」
私はまっすぐに彼を見つめます。
「この土地から人材を引き抜くことを、
“友好の証”と呼ばれるのは、少々困りますわ」
正使は、ふっと笑みを深めました。
「……貴女がそこまで冷静に見ておられるとは、正直、驚きましたよ」
「辺境は、狭い世界です。
誰が誰と何を話したかは、思った以上に早く広まりますの」
そして——何より。
(ここで生きる人たちの背中を守るためには、
こうした話に耳を塞いでいるわけにはいきませんもの)
私は、静かに言葉を結びました。
「公国の豊かさと可能性を、私も否定するつもりはありません」
「光栄です」
「ですが——この土地の兵や民に対する直接のお誘いは、
“友好条約の交渉中”という状況を考えますと、
少々、“影”が濃く見えてしまいます」
正使は、一瞬だけ目を閉じ、それから肩を竦めました。
「理解いたしました。
今後、そのような行きすぎた勧誘がないよう、こちらで厳しく申し渡しておきましょう」
「ありがとうございますわ」
「……いやはや」
正使は、どこか愉快そうに、しかし諦め半分のような口調で続けました。
「噂以上ですね、公爵令嬢。
奇跡の力だけでなく、人の動きと視線までも、こうして見ておられるとは」
「皆を守りたければ、
奇跡だけでは足りませんもの」
私は穏やかに微笑みました。
「友好という言葉は、時に、とても便利な仮面になります。
その下で、何を見ているのか——目を逸らさないことだけは、忘れてはいけませんわ」
正使は、その言葉に何かを感じ取ったのか、ふっと笑い、その場を辞しました。
◆ ◆ ◆
応接室から自室へ戻る廊下を歩きながら、私は深く息を吐きました。
(ちゃんと伝わりましたかしら……)
表向きは柔らかく、しかし線は引いた。
それがどこまで効くのかは、まだ分かりません。
本当は——
枕を抱えて、ベッドの上でごろごろと転がりたい気分です。
「はしたないですわね」
自分で自分にそうツッコミを入れながら、私は小さく笑いました。
窓の外では、公国の騎士たちが、まだ城下を歩いているのが見えます。
子どもたちに飴を配る姿もあれば、倉庫の方角をちらりと窺う姿もある。
どちらも、同じ人間の中にある一側面。
友好の仮面を被る手と、鎖を手繰る指先。
その両方を見据えながら、それでも笑顔を失わないこと。
——決して気分の良い仕事ではありません。
けれど。
「ここで生きる人たちの背中を守るためには、
私がやるしかないのですわね」
そっと胸に手を当てます。
精霊王の気配は、今夜は静かでした。
だからこそ、私は自分の目と舌だけを頼りに、
この“影”と向き合わなければなりません。
友好という名の光の中で、
その縁に落ちる影を見失わないように——。
そう心に刻みながら、私は窓のカーテンをそっと閉じました。




