言葉という刃
アルマディア公国との晩餐が終わった夜。
客人たちがそれぞれの客室へと引き上げ、廊下の灯りがひとつ、またひとつと落とされていくころ——私はひとり、執務室にこもっていました。
机の上には、公国が持ち込んだ友好条約案の写し。
その隣には、私が書き加えた赤いインクの線が、蜘蛛の巣のように走っています。
(……魔法の詠唱のほうが、まだ簡単ですわ)
思わず、そんな愚痴が胸の内に浮かびました。
軍の駐留、監察官の派遣、信仰と教会の扱い。
どの条文にも「悪意」そのものは見えません。
けれど、ほんの一行の言葉尻ひとつで、この辺境の裁量はあっけなく奪われてしまう。
たとえば——。
「“緊急事態と判断された際、公国軍は辺境領内に駐留し、治安維持を補助することができる”……」
私はその部分を指先でなぞり、首を傾げました。
「誰が、何をもって“緊急事態”と判断するのか。
そこが、どこにも書かれていませんわね」
この一文を許せば、「あちらが緊急だと言い張れば、いつでも兵を入れられる」という意味にもなりかねません。
別の条文には、監察官についてこうありました。
「“公国は必要に応じて監察官を派遣し、条約が正しく運用されているか確認する”」
一見、どこにでもありそうな文です。
けれど、こちら側の監察官については、どこにも触れられていません。
(監視は一方通行……それを、友好とは呼べませんわ)
さらに、信仰に関する条文。
「“本条約締結後、辺境領内の宗教行事および教会活動は、公国の定める教義および秩序に従い、調整されるものとする”」
「調整」。
それはつまり、こちらで長く祈ってきた人々のやり方を、
「あなた方は間違っている」と上書きする権利を与える言葉にもなりうる。
私はペンを取り、深く息を吸い込みました。
「……では、こちらからも“言葉”でお返ししませんとね」
緊急時の駐留を、「辺境側の正式な要請があった場合」に限定する文言を加える。
監察官については、「互いに派遣し合う」形に。
宗教と教会については、「相互の独立を尊重し、干渉しない」と明記する。
夜が更け、窓の外の空が濃い藍から黒に近づくころには——
紙束の上に、私なりの「修正案」がひとまず形になっていました。
インクの染みがついた指先を見つめて、私は小さく笑います。
「本当に……魔法の詠唱より、ずっと疲れますわね」
◆ ◆ ◆
翌朝。
軽く目の下に残った疲れを、侍女が器用に隠してくれました。
鏡の中の私は、なんとか「いつもの公爵令嬢」の顔を保っています。
執務室に入ると、既にレオンとマルコが待っていました。
「おはようございます、リヴィア様」
「おはよーさん。顔色は……まあ、徹夜明けにしちゃマシなほうかね」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
私は苦笑しつつ、机の上に修正案の束を置きました。
「これを、そのまま公国に提示されるおつもりですか?」
レオンが、慎重に紙束を手に取ります。
その眼差しは、昨夜から変わらず真剣です。
「ええ。これでも、かなり譲歩したつもりなのですけれど」
私は肩をすくめました。
「本当なら、公国軍の駐留は一切認めたくありません。
監察官も、互いに派遣することさえ、本音を言えば気が進みませんわ。
それでも——」
「まったく門を閉ざせば、向こうはもっと乱暴な手を使ってくる、ってわけだ」
マルコが、顎を指で掻きながら言いました。
「うちの状況からして、交易の道まで全部閉じるのは現実的じゃねぇ。
だったら、飲めるギリギリの条件にして、向こうにも『損じゃねぇ』と思わせる……
上手くやったほうだと思うぜ、お嬢」
「珍しく素直に褒めてくださいますのね、マルコ」
「命かかってりゃ、オレだって真面目になるさ」
ふたりの言葉に、小さく胸の緊張がほどけていくのを感じました。
「さて——行きましょうか」
修正案をファイルに収め、私は立ち上がります。
廊下を歩く足音は、いつもと同じはずなのに、今日は妙に重く響きました。
胸のあたりで、心臓の鼓動がひとつひとつ数えられるようです。
(剣は持っていません。
兵を動かす号令も、私にはできません。
だからこそ——)
扉の前で立ち止まり、そっと息を整えます。
(せめて、この舌とペン先くらいは、研いでおかなくては)
◆ ◆ ◆
交渉の場に選ばれたのは、城の小広間でした。
大広間ほど仰々しくはなく、しかし客間よりは改まった空間。
窓から差し込む光が、長机の中央に置かれた水差しやグラスを淡く照らしています。
片側には、私と、その後ろに控えるレオン、マルコ、そして神父様。
反対側には、公国の正使ディートリヒ殿と、冷静そうな書記官が席についていました。
「改めまして、昨日は素晴らしいおもてなしをありがとうございました、公爵令嬢」
ディートリヒ殿は、いつもの柔らかな笑みを湛えています。
「こちらこそ。遠路はるばる、ようこそお越しくださいましたわ」
形式的な挨拶を一通り終えたあと、
私は手元の修正案に軽く触れました。
「さて——昨夜お預かりした条約案について、
こちらでも検討させていただきました。
いくつか、修正の提案がございます」
「ほう」
ディートリヒ殿の目が、興味深そうに細められます。
「ぜひお聞かせください」
書記官が、すぐさまペンを構えました。
「まず、軍の駐留についての条文です」
私は、原案の該当箇所をめくりながら口を開きました。
「“緊急事態と判断された際、公国軍は辺境領内に駐留し——”」
「ええ。辺境の安全を第一に考えた文面です」
「その点は、理解しておりますわ」
私は頷きました。
「ですが——この文面では、ひとつ大きな穴がございます」
「穴、と申しますと?」
「“誰が緊急事態と判断するのか”が、どこにも書かれておりません」
小広間に、わずかな静寂が落ちました。
「このままでは、公国側が“緊急だ”とお考えになれば、
いつでも兵を入れることができる、という意味にも取れてしまいます」
「それは、あくまで誤解に過ぎませんよ、公爵令嬢」
ディートリヒ殿は穏やかに笑います。
「我が国が、そのような乱暴な振る舞いを——」
「ええ。
今のディートリヒ殿は、きっとそのようなことをなさらないのでしょう」
私は彼の言葉を遮ることなく、静かに重ねました。
「ですが、条約というものは“今の良心”だけで運用されるものではありません。
十年後、二十年後、この文面を読む誰かが、どう解釈するのか。
そこまで含めて考えなければ、言葉は簡単に人を縛る鎖になりますわ」
ディートリヒ殿の笑みが、わずかに薄くなりました。
「では、どう修正されたいと?」
「“辺境側の正式な要請があった場合に限り、公国軍は駐留できる”——
そのように、主体をこちらに明記したいのです」
書記官のペン先が、さらさらと音を立てました。
「ふむ。
それでは、緊急の際に迅速な対応が——」
「緊急であればあるほど、“こちらの声”が必要です」
私はきっぱりと言いました。
「ここに生きている人々の危機を、
遠く離れた地図の上で決められることほど、恐ろしいことはありませんから」
レオンが、私の後ろでわずかに頷いた気配がしました。
◆ ◆ ◆
「次に、監察官に関する条文です」
私は、別の紙を指先で押さえました。
「“公国は必要に応じて監察官を派遣し、条約の正当な運用を確認することができる”」
「はい。条約にとって当然の項目かと」
「ええ。
“互いに”監察し合うのであれば、ですわね」
私の言葉に、書記官の手が止まります。
「この条文では、公国側からこちらへの監察しか、どこにも記されておりません。
それでは、“友好”ではなく“一方的な監視”になってしまいます」
「公国のほうに監察官を送られたいと?」
「必要であれば、そうなりましょう」
私は淡々と言いました。
「ですが、実際にはそう頻繁にはならないでしょうね。
ただ、“送る権利がある”ことが重要なのです」
「権利、ですか」
「ええ。
“こちらにも同じ権利がある”——
そう思えるだけで、人は随分と違うものですから」
ディートリヒ殿は、しばし黙って私を見つめていました。
その視線は、昨夜の晩餐のときよりも、いくぶん真剣です。
「では、こう書き換えるのはいかがでしょう」
私は自分の修正案から一行を読み上げました。
「“双方は、必要に応じて監察官を派遣し合い、条約の運用状況を確認することができる。ただし、その権限と期間は、事前に協議・合意した範囲に限る”」
書記官が、またペンを走らせます。
「……だいぶ、お詳しいようですね」
ディートリヒ殿の声に、皮肉というよりは、純粋な驚きが混じっていました。
「王都でのご教育の賜物でしょうか?」
「王都で習ったのは、主に“どうやって相手を怒らせずに断るか”くらいのものですわ」
私は、軽く冗談めかして肩をすくめました。
「ここに来てからのほうが、よほど多くを学びました。
税の文書、領地の境界、教会との書簡。
どの紙切れにも、“言葉”の刃が隠れておりましたから」
◆ ◆ ◆
「最後に——信仰と教会に関する条項です」
私は、一番神経を尖らせていた一文に目を落としました。
「“本条約締結後、辺境領内における宗教行事および教会活動は、公国の定める教義および秩序に従い、調整されるものとする”」
神父様の指先が、後ろで僅かに震えたのを、私は気配で感じました。
「これでは、ここで長く祈ってきた人々のやり方を、“間違っている”と上書きする権利を、あなた方に差し出すことになります」
「そんなつもりは——」
ディートリヒ殿が口を開きかけたのを、私は穏やかに制しました。
「たとえ今のあなた方にそのつもりがなくとも、文言はそう読めてしまうのです」
私は、机に置かれた十字架——この地の人々が代々大切にしてきた、少し欠けた木製のそれに視線を落としました。
「ここで祈ってきた人たちの時間と救いは、本物です。
それを、“遠くの誰かの正しさ”で塗りつぶす条文は——
私には、とても飲み込めませんわ」
言いながら、神父様のほうを一瞬だけ振り返ります。
彼は、深く頭を下げていました。
それが、私に向けられた感謝なのか、それとも何か別の感情なのかは、
今はまだ聞かないことにします。
「ですから、こちらからの提案はこうです」
私は修正案を読み上げました。
「“双方は、互いの領内における信仰と教会活動の独立を尊重し、条約に名を借りて干渉しないことを約す”」
「……“干渉しない”」
ディートリヒ殿が、その言葉を反芻しました。
「それでは、秩序が——」
「秩序を守るために、
他者の祈りを踏みにじってよい、ということにはなりませんわ」
私は静かに返しました。
「秩序を守りたいという思いと、
ここで生きる人々の心を守りたいという思い。
どちらかひとつだけが正しいわけではないと、私は信じたいのです」
◆ ◆ ◆
交渉は、何度も言葉を往復させながら続きました。
ディートリヒ殿はときに譲歩を示し、ときに「公国としての立場」を盾に押し返してきます。
私はそのたびに、紙の端に自分の指先を押し当てながら、声を整えました。
(今、私が向き合っているのは剣ではなく、言葉。
けれど、ここで負ければ——)
目の前に浮かぶのは、畑で笑っていた人々の顔。
集いの家で、つたない字を書いて見せてくれた子どもたちの手。
礼拝堂で静かに祈っていた老人の背中。
(ここで負ければ、流れる血は、戦場と変わりません)
途中、喉がひどく乾きました。
紅茶に手を伸ばしたとき、カップのふちを指先で軽く鳴らしてしまい、
自分でも驚くほど心臓が跳ねました。
(落ち着きなさい、リヴィア)
そっと息を吐き、震えを押し込めます。
◆ ◆ ◆
やがて、窓から差し込む光が傾き始めたころ——
ディートリヒ殿が、ペンを置きました。
「……ひとまず、今日はここまでに致しましょう」
書記官も、山になったメモを閉じます。
「公爵令嬢。
貴女の懸念は、よく理解できました」
ディートリヒ殿は、まっすぐに私を見ました。
その視線には、もう昨夜のような“試すような色”はありません。
「この修正案は、そのまま本国に持ち帰り、改めて検討いたします」
「ありがとうございます」
私は、深く礼をしました。
「公国と辺境のあいだに、本当に“友好”と呼べる形が見つけられることを願っておりますわ」
「簡単ではないでしょうが……」
ディートリヒ殿は、ふっと口元を緩めました。
「ひとつ、確かなことがあります」
「確かなこと?」
「噂以上だ、ということです。
——“奇跡の公爵令嬢”と呼ばれる方が、
奇跡だけでなく、言葉の使い方にも長けておられるとは」
それが賞賛なのか、警戒なのか。
おそらく、そのどちらもなのでしょう。
「私には、剣も、大軍もありませんもの」
私は、少しだけ肩の力を抜いて答えました。
「せめてこの舌とペンくらいは、鈍らせないように努めておりますの」
「なるほど」
ディートリヒ殿は、立ち上がりながら小さく笑いました。
「鎖をかけようとしたつもりが、
こちらのほうが指を切られた気分です」
「それは、それは。
お怪我が深くならないうちに、どうかご自愛くださいませ」
軽い冗談を交わしながらも——
互いに、相手がこれからも簡単には折れないことを、
どこかで理解している空気がありました。
◆ ◆ ◆
交渉が終わり、客人たちが退出したあと。
小広間には、私とレオンだけが残りました。
「お疲れさまでした、リヴィア様」
レオンが、小さく頭を下げます。
「……私、変なところはありませんでした?」
思わず、そんな言葉が口をついて出ました。
「言い回しや態度、失礼は——」
「ありませんでした」
レオンは即答しました。
「完璧でした」
その一言に、耳まで熱くなるのを感じます。
「そ、そうですか……それなら、よかったですわ」
「ええ」
レオンは、わずかに目元を和らげました。
「剣の代わりに言葉を持つお方だと、
相手にも、はっきり伝わったと思います」
私は、机の上に残った自分の修正案に目を落としました。
赤いインクの線が、乱れながらも確かな軌跡を描いています。
(鎖を断ち切るために、
私にできるいちばん鋭い刃は——)
そっと指先で、その線をなぞりました。
(この舌と、インクに濡れたペン先。
それしか持たないからこそ。
鈍らせるわけには、いかないのですわ)
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけていました。
橙色の光が、小広間の床に長い影を落とします。
嵐の本番は、きっとこれから。
それでも——
今日、言葉で守れたものがあるのなら。
それだけで、少しだけ、胸を張っていい気がしました。




