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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第4章_壊れてしまった均衡と、新しい世界のかたち
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言葉という刃

 アルマディア公国との晩餐が終わった夜。

 客人たちがそれぞれの客室へと引き上げ、廊下の灯りがひとつ、またひとつと落とされていくころ——私はひとり、執務室にこもっていました。


 机の上には、公国が持ち込んだ友好条約案の写し。

 その隣には、私が書き加えた赤いインクの線が、蜘蛛の巣のように走っています。


(……魔法の詠唱のほうが、まだ簡単ですわ)


 思わず、そんな愚痴が胸の内に浮かびました。


 軍の駐留、監察官の派遣、信仰と教会の扱い。

 どの条文にも「悪意」そのものは見えません。

 けれど、ほんの一行の言葉尻ひとつで、この辺境の裁量はあっけなく奪われてしまう。


 たとえば——。


「“緊急事態と判断された際、公国軍は辺境領内に駐留し、治安維持を補助することができる”……」


 私はその部分を指先でなぞり、首を傾げました。


「誰が、何をもって“緊急事態”と判断するのか。

 そこが、どこにも書かれていませんわね」


 この一文を許せば、「あちらが緊急だと言い張れば、いつでも兵を入れられる」という意味にもなりかねません。


 別の条文には、監察官についてこうありました。


「“公国は必要に応じて監察官を派遣し、条約が正しく運用されているか確認する”」


 一見、どこにでもありそうな文です。

 けれど、こちら側の監察官については、どこにも触れられていません。


(監視は一方通行……それを、友好とは呼べませんわ)


 さらに、信仰に関する条文。


「“本条約締結後、辺境領内の宗教行事および教会活動は、公国の定める教義および秩序に従い、調整されるものとする”」


「調整」。

 それはつまり、こちらで長く祈ってきた人々のやり方を、

 「あなた方は間違っている」と上書きする権利を与える言葉にもなりうる。


 私はペンを取り、深く息を吸い込みました。


「……では、こちらからも“言葉”でお返ししませんとね」


 緊急時の駐留を、「辺境側の正式な要請があった場合」に限定する文言を加える。

 監察官については、「互いに派遣し合う」形に。

 宗教と教会については、「相互の独立を尊重し、干渉しない」と明記する。


 夜が更け、窓の外の空が濃い藍から黒に近づくころには——

 紙束の上に、私なりの「修正案」がひとまず形になっていました。


 インクの染みがついた指先を見つめて、私は小さく笑います。


「本当に……魔法の詠唱より、ずっと疲れますわね」


◆ ◆ ◆


 翌朝。


 軽く目の下に残った疲れを、侍女が器用に隠してくれました。

 鏡の中の私は、なんとか「いつもの公爵令嬢」の顔を保っています。


 執務室に入ると、既にレオンとマルコが待っていました。


「おはようございます、リヴィア様」


「おはよーさん。顔色は……まあ、徹夜明けにしちゃマシなほうかね」


「褒め言葉として受け取っておきますわ」


 私は苦笑しつつ、机の上に修正案の束を置きました。


「これを、そのまま公国に提示されるおつもりですか?」


 レオンが、慎重に紙束を手に取ります。

 その眼差しは、昨夜から変わらず真剣です。


「ええ。これでも、かなり譲歩したつもりなのですけれど」


 私は肩をすくめました。


「本当なら、公国軍の駐留は一切認めたくありません。

 監察官も、互いに派遣することさえ、本音を言えば気が進みませんわ。

 それでも——」


「まったく門を閉ざせば、向こうはもっと乱暴な手を使ってくる、ってわけだ」


 マルコが、顎を指で掻きながら言いました。


「うちの状況からして、交易の道まで全部閉じるのは現実的じゃねぇ。

 だったら、飲めるギリギリの条件にして、向こうにも『損じゃねぇ』と思わせる……

 上手くやったほうだと思うぜ、お嬢」


「珍しく素直に褒めてくださいますのね、マルコ」


「命かかってりゃ、オレだって真面目になるさ」


 ふたりの言葉に、小さく胸の緊張がほどけていくのを感じました。


「さて——行きましょうか」


 修正案をファイルに収め、私は立ち上がります。


 廊下を歩く足音は、いつもと同じはずなのに、今日は妙に重く響きました。

 胸のあたりで、心臓の鼓動がひとつひとつ数えられるようです。


(剣は持っていません。

 兵を動かす号令も、私にはできません。

 だからこそ——)


 扉の前で立ち止まり、そっと息を整えます。


(せめて、この舌とペン先くらいは、研いでおかなくては)


◆ ◆ ◆


 交渉の場に選ばれたのは、城の小広間でした。


 大広間ほど仰々しくはなく、しかし客間よりは改まった空間。

 窓から差し込む光が、長机の中央に置かれた水差しやグラスを淡く照らしています。


 片側には、私と、その後ろに控えるレオン、マルコ、そして神父様。

 反対側には、公国の正使ディートリヒ殿と、冷静そうな書記官が席についていました。


「改めまして、昨日は素晴らしいおもてなしをありがとうございました、公爵令嬢」


 ディートリヒ殿は、いつもの柔らかな笑みを湛えています。


「こちらこそ。遠路はるばる、ようこそお越しくださいましたわ」


 形式的な挨拶を一通り終えたあと、

 私は手元の修正案に軽く触れました。


「さて——昨夜お預かりした条約案について、

 こちらでも検討させていただきました。

 いくつか、修正の提案がございます」


「ほう」


 ディートリヒ殿の目が、興味深そうに細められます。


「ぜひお聞かせください」


 書記官が、すぐさまペンを構えました。


「まず、軍の駐留についての条文です」


 私は、原案の該当箇所をめくりながら口を開きました。


「“緊急事態と判断された際、公国軍は辺境領内に駐留し——”」


「ええ。辺境の安全を第一に考えた文面です」


「その点は、理解しておりますわ」


 私は頷きました。


「ですが——この文面では、ひとつ大きな穴がございます」


「穴、と申しますと?」


「“誰が緊急事態と判断するのか”が、どこにも書かれておりません」


 小広間に、わずかな静寂が落ちました。


「このままでは、公国側が“緊急だ”とお考えになれば、

 いつでも兵を入れることができる、という意味にも取れてしまいます」


「それは、あくまで誤解に過ぎませんよ、公爵令嬢」


 ディートリヒ殿は穏やかに笑います。


「我が国が、そのような乱暴な振る舞いを——」


「ええ。

 今のディートリヒ殿は、きっとそのようなことをなさらないのでしょう」


 私は彼の言葉を遮ることなく、静かに重ねました。


「ですが、条約というものは“今の良心”だけで運用されるものではありません。

 十年後、二十年後、この文面を読む誰かが、どう解釈するのか。

 そこまで含めて考えなければ、言葉は簡単に人を縛る鎖になりますわ」


 ディートリヒ殿の笑みが、わずかに薄くなりました。


「では、どう修正されたいと?」


「“辺境側の正式な要請があった場合に限り、公国軍は駐留できる”——

 そのように、主体をこちらに明記したいのです」


 書記官のペン先が、さらさらと音を立てました。


「ふむ。

 それでは、緊急の際に迅速な対応が——」


「緊急であればあるほど、“こちらの声”が必要です」


 私はきっぱりと言いました。


「ここに生きている人々の危機を、

 遠く離れた地図の上で決められることほど、恐ろしいことはありませんから」


 レオンが、私の後ろでわずかに頷いた気配がしました。


◆ ◆ ◆


「次に、監察官に関する条文です」


 私は、別の紙を指先で押さえました。


「“公国は必要に応じて監察官を派遣し、条約の正当な運用を確認することができる”」


「はい。条約にとって当然の項目かと」


「ええ。

 “互いに”監察し合うのであれば、ですわね」


 私の言葉に、書記官の手が止まります。


「この条文では、公国側からこちらへの監察しか、どこにも記されておりません。

 それでは、“友好”ではなく“一方的な監視”になってしまいます」


「公国のほうに監察官を送られたいと?」


「必要であれば、そうなりましょう」


 私は淡々と言いました。


「ですが、実際にはそう頻繁にはならないでしょうね。

 ただ、“送る権利がある”ことが重要なのです」


「権利、ですか」


「ええ。

 “こちらにも同じ権利がある”——

 そう思えるだけで、人は随分と違うものですから」


 ディートリヒ殿は、しばし黙って私を見つめていました。


 その視線は、昨夜の晩餐のときよりも、いくぶん真剣です。


「では、こう書き換えるのはいかがでしょう」


 私は自分の修正案から一行を読み上げました。


「“双方は、必要に応じて監察官を派遣し合い、条約の運用状況を確認することができる。ただし、その権限と期間は、事前に協議・合意した範囲に限る”」


 書記官が、またペンを走らせます。


「……だいぶ、お詳しいようですね」


 ディートリヒ殿の声に、皮肉というよりは、純粋な驚きが混じっていました。


「王都でのご教育の賜物でしょうか?」


「王都で習ったのは、主に“どうやって相手を怒らせずに断るか”くらいのものですわ」


 私は、軽く冗談めかして肩をすくめました。


「ここに来てからのほうが、よほど多くを学びました。

 税の文書、領地の境界、教会との書簡。

 どの紙切れにも、“言葉”の刃が隠れておりましたから」


◆ ◆ ◆


「最後に——信仰と教会に関する条項です」


 私は、一番神経を尖らせていた一文に目を落としました。


「“本条約締結後、辺境領内における宗教行事および教会活動は、公国の定める教義および秩序に従い、調整されるものとする”」


 神父様の指先が、後ろで僅かに震えたのを、私は気配で感じました。


「これでは、ここで長く祈ってきた人々のやり方を、“間違っている”と上書きする権利を、あなた方に差し出すことになります」


「そんなつもりは——」


 ディートリヒ殿が口を開きかけたのを、私は穏やかに制しました。


「たとえ今のあなた方にそのつもりがなくとも、文言はそう読めてしまうのです」


 私は、机に置かれた十字架——この地の人々が代々大切にしてきた、少し欠けた木製のそれに視線を落としました。


「ここで祈ってきた人たちの時間と救いは、本物です。

 それを、“遠くの誰かの正しさ”で塗りつぶす条文は——

 私には、とても飲み込めませんわ」


 言いながら、神父様のほうを一瞬だけ振り返ります。

 彼は、深く頭を下げていました。

 それが、私に向けられた感謝なのか、それとも何か別の感情なのかは、

 今はまだ聞かないことにします。


「ですから、こちらからの提案はこうです」


 私は修正案を読み上げました。


「“双方は、互いの領内における信仰と教会活動の独立を尊重し、条約に名を借りて干渉しないことを約す”」


「……“干渉しない”」


 ディートリヒ殿が、その言葉を反芻しました。


「それでは、秩序が——」


「秩序を守るために、

 他者の祈りを踏みにじってよい、ということにはなりませんわ」


 私は静かに返しました。


「秩序を守りたいという思いと、

 ここで生きる人々の心を守りたいという思い。

 どちらかひとつだけが正しいわけではないと、私は信じたいのです」


◆ ◆ ◆


 交渉は、何度も言葉を往復させながら続きました。


 ディートリヒ殿はときに譲歩を示し、ときに「公国としての立場」を盾に押し返してきます。

 私はそのたびに、紙の端に自分の指先を押し当てながら、声を整えました。


(今、私が向き合っているのは剣ではなく、言葉。

 けれど、ここで負ければ——)


 目の前に浮かぶのは、畑で笑っていた人々の顔。

 集いの家で、つたない字を書いて見せてくれた子どもたちの手。

 礼拝堂で静かに祈っていた老人の背中。


(ここで負ければ、流れる血は、戦場と変わりません)


 途中、喉がひどく乾きました。

 紅茶に手を伸ばしたとき、カップのふちを指先で軽く鳴らしてしまい、

 自分でも驚くほど心臓が跳ねました。


(落ち着きなさい、リヴィア)


 そっと息を吐き、震えを押し込めます。


◆ ◆ ◆


 やがて、窓から差し込む光が傾き始めたころ——

 ディートリヒ殿が、ペンを置きました。


「……ひとまず、今日はここまでに致しましょう」


 書記官も、山になったメモを閉じます。


「公爵令嬢。

 貴女の懸念は、よく理解できました」


 ディートリヒ殿は、まっすぐに私を見ました。

 その視線には、もう昨夜のような“試すような色”はありません。


「この修正案は、そのまま本国に持ち帰り、改めて検討いたします」


「ありがとうございます」


 私は、深く礼をしました。


「公国と辺境のあいだに、本当に“友好”と呼べる形が見つけられることを願っておりますわ」


「簡単ではないでしょうが……」


 ディートリヒ殿は、ふっと口元を緩めました。


「ひとつ、確かなことがあります」


「確かなこと?」


「噂以上だ、ということです。

 ——“奇跡の公爵令嬢”と呼ばれる方が、

 奇跡だけでなく、言葉の使い方にも長けておられるとは」


 それが賞賛なのか、警戒なのか。

 おそらく、そのどちらもなのでしょう。


「私には、剣も、大軍もありませんもの」


 私は、少しだけ肩の力を抜いて答えました。


「せめてこの舌とペンくらいは、鈍らせないように努めておりますの」


「なるほど」


 ディートリヒ殿は、立ち上がりながら小さく笑いました。


「鎖をかけようとしたつもりが、

 こちらのほうが指を切られた気分です」


「それは、それは。

 お怪我が深くならないうちに、どうかご自愛くださいませ」


 軽い冗談を交わしながらも——

 互いに、相手がこれからも簡単には折れないことを、

 どこかで理解している空気がありました。


◆ ◆ ◆


 交渉が終わり、客人たちが退出したあと。

 小広間には、私とレオンだけが残りました。


「お疲れさまでした、リヴィア様」


 レオンが、小さく頭を下げます。


「……私、変なところはありませんでした?」


 思わず、そんな言葉が口をついて出ました。


「言い回しや態度、失礼は——」


「ありませんでした」


 レオンは即答しました。


「完璧でした」


 その一言に、耳まで熱くなるのを感じます。


「そ、そうですか……それなら、よかったですわ」


「ええ」


 レオンは、わずかに目元を和らげました。


「剣の代わりに言葉を持つお方だと、

 相手にも、はっきり伝わったと思います」


 私は、机の上に残った自分の修正案に目を落としました。

 赤いインクの線が、乱れながらも確かな軌跡を描いています。


(鎖を断ち切るために、

 私にできるいちばん鋭い刃は——)


 そっと指先で、その線をなぞりました。


(この舌と、インクに濡れたペン先。

 それしか持たないからこそ。

 鈍らせるわけには、いかないのですわ)


 窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけていました。

 橙色の光が、小広間の床に長い影を落とします。


 嵐の本番は、きっとこれから。

 それでも——

 今日、言葉で守れたものがあるのなら。


 それだけで、少しだけ、胸を張っていい気がしました。


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