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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第4章_壊れてしまった均衡と、新しい世界のかたち
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見えない鎖

 晩餐会の翌朝。

 いつもより少しだけ重たい頭を抱えながら、私は執務室の椅子に腰を下ろしました。


 机の上には、昨夜、アルマディア公国の正使から渡された紙束がきれいに積まれています。

 友好条約案一式——その表紙には、丁寧すぎるほど整った文字でこう記されていました。


 《アルマディア公国と○○辺境領との相互友好及び互恵協定案》


(互恵、友好……耳に心地よい言葉ばかり、ですわね)


 私は小さく息を吐き、紙束を開きました。


◆ ◆ ◆


 条文の文字は、どれもよく磨かれた宝石のように整っていました。


「“両者は互いの繁栄と安全のため、友好的協力関係を築くことに合意する”……」


 最初の数行だけを読めば、きっと誰もが頷くでしょう。

 どこにも刺々しい表現はなく、「協力」「安全」「繁栄」といった言葉が並んでいる。


 けれど——ページをめくるごとに、首筋をなぞる冷たいものが、少しずつ濃くなっていきました。


 軍に関する条項のひとつ。


「“緊急事態において、公国は辺境領の防衛を補助するため、軍を派遣し、必要と認める期間、駐留するものとする”」


 一見、心強い文言です。

 ですが——。


(“緊急事態”を誰が決めるのかが、どこにも書いてありませんわね)


 そして、「必要と認める期間」。

 それが誰の判断なのかも、曖昧なままです。


 別の条には、こうありました。


「“辺境領の治安維持および条約の正当な運用を確保するため、公国は監察官を常駐させることができる”」


 安全のため、正当な運用のため——。

 けれど、その「ために」は、いつだって拡大解釈が可能です。


(常駐。……つまり、“ずっと見張られる”ということですわね)


 さらに、信仰と教会に関する条文。


「“両者は信仰の共有を推進するため、公国の定める教義と秩序に従い、公国より派遣された聖職者が辺境領内の宗教活動を統括するものとする”」


 信仰の共有。

 それ自体は、言葉だけ見れば、悪いことのようには思えません。

 ですが——「統括」という一語が、紙の上でやけに黒く滲んで見えました。


(ここで長く祈ってきた人たちのやり方を、“あなた方が正しいと思う形”で上書きする……その権利を渡す文言にだって、読めてしまいますわ)


 文字は穏やかで、どこにも「服従」や「支配」といった直截な言葉はありません。

 けれど、読み進めれば進めるほど——見えない何かが、手首や喉元に少しずつ巻きついてくるような感覚がありました。


(鎖は、いつも音を立てて近づいてくるとは限りませんのね……)


 静かで丁寧な言葉に包まれて、気づかないうちに重みを増していく。

 そんな種類の鎖も、世界には確かに存在するのだと、紙の上で思い知らされます。


 こめかみがじんと痛み始め、私は指先で軽く押さえました。


「……魔法の詠唱のほうが、まだ簡単ですわ」


 思わず零れた本音に、自分で小さく苦笑します。


◆ ◆ ◆


 ひと通り目を通したところで、私は書簡の束を抱え、隣室へと移動しました。

 そこでは既に、レオンとマルコ、そして地元の神父様が待っていてくれました。


「お忙しいところ、すみません。少し、お知恵をお借りしたくて」


 私がそう告げると、神父様は緊張した面持ちで立ち上がりかけ、慌てて腰を戻しました。


「い、いえ、とんでもありません、公爵令嬢。私などでお役に立てるのであれば……」


「肩の力を抜いてくださいませ。ここでは、“この土地に詳しい方”としてお話を伺いたいだけですもの」


 そう言って微笑むと、神父様の表情が少し和らぎます。


 テーブルの上に条約案を広げ、私は三人の前に座りました。


「まずは、軍事の面から」


 私は軍に関する条文を指で押さえ、レオンのほうを見る。


「“緊急事態において、公国は軍を派遣し、必要と認める期間、駐留するものとする”——

 この文面について、どうお感じになりますか?」


 レオンは、しばし黙って文字を追い、それから短く答えました。


「……このままでは、“彼らが望めば”いつでも兵を常駐させられます」


「やはり、そうなりますわよね」


「“緊急事態”も“必要と認める期間”も、判断権がどちらにあるか書かれていない。

 実際の運用では、公国側がいくらでも理由をつけられる文言です」


 レオンは、淡々と続けます。


「たとえば、『隣国との情勢が不安定だ』『盗賊が増えている』——

 どれも、起こりうることではありますが……そのたびに兵を入れられていては、いずれこの辺境が“公国の前線基地”のようになりかねません」


(前線基地。……そう呼ばれる日が、本当に来てしまうかもしれませんわね)


 想像したくはない未来が、言葉とともに頭に浮かびました。


「もちろん、軍事力の支援自体は、利点でもあります」


 レオンは正直に付け加えました。


「純粋な戦力だけでいえば、こちらは心許ない状況ですから。

 ですが——“決定権”まで向こうに渡すのは、さすがに危険だと思います」


「ありがとうございます。……では、経済面は?」


 今度は、マルコに視線を向けます。

 彼は、書類の束を指先でトントンと揃えながら、苦笑しました。


「表向きだけ見りゃ、悪くねぇ話さ」


「そうなのですか?」


「ああ。ほら、ここ——」


 マルコは交易に関する条を指さしました。


「“公国は自国の高級品および工業製品を、辺境領の資源・農産物と公正な価格で交換する”」


 聞こえだけなら、理想的な文言です。


「高級品や工業品が安く手に入るなら、領民の暮らしも豊かになる。

 一見、こっちにとっちゃ得しかないように見えるけどよ」


「“一見”は、ということですわね」


 マルコは肩をすくめました。


「価格を“公正”と判断するのは、結局どっちか。

 ここにもやっぱり、何も書いてない」


「……“公正な価格”という言葉だけが、宙に浮いていますわね」


「そう。

 で、公国側が“公正だ”って言い張る値段で取引せざるを得なくなりゃ、

 じわじわと首根っこを押さえられる」


 マルコの声は、いつもの軽さを残しつつも、芯は真剣でした。


「物資の出入りを握られたら、いざという時、向こうの機嫌ひとつで首を絞められる。

 『それが嫌なら条約を守れ』ってな」


「なるほど……利点は確かにあるけれど、その裏で“値札”を握られる危険もあるのですね」


「まあ、全部跳ねつけるのも現実的じゃねぇけどな」


 マルコは、わざとらしく両手を広げてみせました。


「こっちにだって、公国から仕入れたいもんは山ほどある。

 だからこそ、どこまで向こうに握らせるかの線引きが大事ってこった」


「線引き……」


 軍事、経済と来て、私は最後の紙をそっと持ち上げました。


「そして信仰、ですわね」


 神父様が、緊張した面持ちで前に座り直しました。


「“信仰の共有”を謳う条文について、率直なお考えを伺ってもよろしいでしょうか」


「は、はい」


 神父様は、震え気味の声で条文を読み上げました。


「“両者は信仰の共有を推進するため、公国の定める教義と秩序に従い、公国より派遣された聖職者が辺境領内の宗教活動を統括するものとする”……」


 読み終えたあと、彼は深く息を吐きました。


「……これでは、この土地でずっと祈ってきた人々の生活が、

 “公国式の信心”に塗り替えられてしまうかもしれません」


「塗り替え、ですか」


「はい。

 祈りの言葉も、祭日の祝い方も、弔いの仕方も……

 公国の“正しいやり方”に合わせることを求められるでしょう」


 神父様は両手を握りしめました。


「もちろん、公国の信仰が間違っていると言うつもりはありません。

 ですが、ここにはここで、代々受け継がれてきた祈りの形があります。

 それを、“条約だから”という理由で変えろと言われるのは……」


 言葉を探すように、唇が震えます。


「……正直、耐えがたいものがあります」


「……そうですわね」


 私は、そっと頷きました。


「ここで祈ってきた人々の時間と救いは、本物です。

 それを、遠くの誰かの“正しさ”で否定させる条文を、そのまま飲むわけにはいきませんわ」


◆ ◆ ◆


 三人の意見を聞き終え、私は書類の山を見下ろしました。


 軍事、経済、信仰。

 どの視点から見ても、この条約案には“利点”と“危険”が同時に存在している。


「利点は、確かにあります」


 私は、自分にも聞かせるように言いました。


「軍の支援は、純粋な戦力として心強い。

 公国との交易ができれば、領民の暮らしも楽になるでしょう。

 信仰の共有だって、うまくいけば互いの偏見を和らげるかもしれません」


 けれど——。


「ですが、“どちらが主で、どちらが従か”を決めるのは、この細部ですわ」


 レオンが静かに頷きます。


「このまま受け入れれば、いずれこの辺境は、名目上こそ王国領のままでも、

 実態としては公国の意のままに動く土地になってしまうでしょう」


「だからと言って、全部突っぱねりゃ、向こうは向こうで体裁を捨ててくるかもしれねぇ」


 マルコが、口の端を吊り上げました。


「『手を差し伸べたのに振り払われた』『なら力づくで』ってな」


 神父様は、不安げに私を見つめています。


「公爵令嬢……いったい、どうなさるおつもりで」


 私はしばし迷い、それからはっきりと答えました。


「——拒絶ではなく、交渉を選びます」


「交渉……?」


「ええ」


 私は、机の端に置いてあった空の紙束を手元に引き寄せました。


「公国の申し出を、すべて否定するつもりはありません。

 利点も、たしかに存在しますから」


 ペンを取り、インク壺の蓋を開ける。

 黒い液体が、ゆっくりとペン先を濡らしました。


「ですが、その利点を得るために、ここで生きている人たちの暮らしと誇りを差し出すような条約であれば——

 それは“友好”ではなく、“従属”ですわ」


 紙の上に、最初の一文字を刻みながら続けます。


「ですから、こちらから“修正案”を提示いたしましょう。

 軍の駐留権は、“辺境側の正式な要請があった場合に限る”と明記する」


 別の紙に、監察官について記す。


「監察官は、一方的ではなく“相互派遣”。

 必要であれば、こちらからも公国へ監察官を送ることができるように」


 そして——一番慎重に選ぶべき、信仰の条文。


「信仰と教会の管理については、“互いの信仰と慣習を尊重し、条約に名を借りて干渉しない”——

 その旨を、きちんと文にしてお返しします」


 カリカリ、とインクの音が小さく響きました。


「かなり、強気の修正案になりますね」


 レオンが、淡く苦笑します。


「ええ。

 それでも受け入れるというのなら——」


 私は顔を上げ、三人を見回しました。


「そのとき初めて、私は公国を“友”と呼べるのだと思いますわ」


 しばしの沈黙のあと、マルコがふっと笑いました。


「いいじゃねぇか。

 “奇跡の公爵令嬢”が、“言葉”でも一丁やってやるってわけだ」


「奇跡は、そう簡単には使えませんもの」


 私は、冗談めかして肩をすくめました。


「その代わり、この舌とペンなら、いくらでも動かせますから」


 神父様が、胸の前でそっと手を組みました。


「どうか……お導きくださいますように」


 その祈りが、誰に向けられたものなのか——神なのか、私なのか。

 もしかすると、その両方なのかもしれません。


◆ ◆ ◆


 ひとり執務室に戻った頃には、昼を少し回っていました。


 窓の外では、子どもたちの笑い声がかすかに聞こえます。

 学校の庭で、字の練習を終えた子どもたちが、縄跳びか何かをしているのでしょう。


(この声の主を、紙切れひとつで縛らせるわけにはいきませんわね)


 私は深く息を吸い込み、ペンを握り直しました。


「鎖は、いつも音を立てて近づいてくるとは限りません」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟きます。


「静かで丁寧な言葉に包まれて、

 気づかないうちに手首へ巻きつこうとするのです」


 ならば。


「見えない鎖に気づいたのなら——

 あとは、それを言葉で解きほぐすだけ」


 紙の上に、インクの線がひとつひとつ積み重なっていきます。


 軍の条文を修正する言葉。

 交易の条件に、こちらの裁量を残す言葉。

 信仰を、「誰かの所有物」ではなく「ここで生きる人々のもの」と守る言葉。


 魔法陣を描くよりも、ずっと細かく、ずっと地味で、ずっと疲れる作業。

 けれど——。


(これが、今の私にできる戦い方ですわ)


 インクで黒く染まっていく指先を見つめながら、私は小さく笑いました。


「精霊王様。

 もし、どこかでご覧になっているのなら——」


 心の中で、誰にともなく告げます。


「私は今日、“歌”ではなく“言葉”で世界に触れてみせますわ」


 やわらかく、しかし決して外れないように巻きつこうとする鎖に対して。

 こちらから伸ばすのは、ほんの小さな、紙とインクの刃。


 それでも——誰かの首筋に食い込む鎖を、一本でも緩められるのなら。


 私は何度でも、この手を汚す覚悟がある。


 そう心に刻みながら、私は次の一文を書き始めました。


 ——この修正案を携え、

 近いうちに、私は再び公国の使節と対面することになる。


 そのとき、どれだけの鎖を断ち切れるのか。

 それはまだ分かりません。


 けれど少なくとも——。


(鎖に気づかないふりだけは、もうしませんわ)


 そう決めた朝の光は、いつもより少しだけ眩しく感じられました。


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