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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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嵐の前の静けさ

 その日々は、少しだけ、夢のようでした。


 朝、カーテンを開けると、まだ冷たい空気が頬を撫でていきます。

 窓から見下ろす中庭の向こう、畑の方角からは、土を踏みしめる音と、人の笑い声。


 芽吹いたばかりの若い緑が、うっすらと畝を染めていました。

 あの荒地だった土地に、こうして「次の季節」が並んでいる。

 それだけで胸が温かくなってしまうのですから、単純だと笑われてしまうかもしれませんわね。


「……今日も、よく育ってくれていますわ」


 思わずそんな独り言が漏れ、窓辺で小さく微笑みました。


◆ ◆ ◆


 午前中は、子どもたちの学校へ顔を出しました。


 教会の一角を改装した教室には、小さな机と椅子がぎゅうぎゅうと並び、そのあいだを、まだ書き慣れない文字たちが行進しています。


「リヴィアさま、見て! ぼく、自分の名前ぜんぶ書けた!」


 ノートを掲げて駆け寄ってきた少年の紙には、ところどころひっくり返った文字も混ざっていましたが——それでも確かに、彼自身の名前になっていました。


「まあ、素晴らしいですわ。……ここは、もう少しだけ大きく書いてみましょうか」


 私は膝を折り、少年の隣でペンを握りました。

 黒板の前では、若い騎士が少し照れくさそうに算術を教えています。

 最初はあれほど緊張していたのに、今では子どもたちにからかわれて苦笑を返せるくらいには、板につきました。


「リヴィア先生、これ、あげる!」


 休み時間になると、今度は女の子が小さな包みを差し出してきました。


「まあ、何かしら?」


「おまもり! おかあさんといっしょに縫ったの。

 リヴィアさまが、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと寝られますようにって」


 広げてみると、不揃いな糸で縫われた、少しいびつな小袋でした。

 けれど、その真ん中には、拙いながらも丁寧に刺された私の頭文字。


 胸の奥が、ぎゅっと熱くなるのを感じました。


「……ありがとうございます。大切にしますわ」


 本当に、宝物を受け取った気持ちでしたので、

 私はそのお守りを、そっと胸元に抱きしめました。


◆ ◆ ◆


 午後は集いの家で、領民たちの相談に耳を傾けます。


「次の市では、この干し肉をもっと売りたいんですがね、値札の書き方が……」


「旦那が、字が読めるようになってから、前より口ごたえするんだ。嬉しいような困るような……」


 笑いながら打ち明けられる小さな悩みたち。

 かつては「生きるか死ぬか」でしかなかったこの土地に、

 こうして“どうでもいいことに頭を悩ませる余裕”が生まれている——

 それが、何よりの変化だと思えました。


 日が傾きはじめたころ、邸に戻る廊下で、レオンとすれ違いました。


「お帰りなさいませ、リヴィア様。今日の学校の様子は、いかがでしたか」


「皆、驚くほどの熱心さですわ。……教える側の騎士たちが、子どもたちの勢いに負けているくらいには」


「それは頼もしいことです」


 レオンは、いつもより少しだけ柔らかい表情で笑いました。

 その手には、小さな紙袋が提げられています。


「それは?」


「市場で、兵の一人が買ってきた菓子を、少し分けてもらいました。

 甘すぎると評判でして……よろしければ、おひとつ、いかがですか」


 差し出されたのは、小さな焼き菓子でした。

 丸いものをふたつ、レオンは器用に半分に割ります。


「では、こちらを——」


 と渡された欠片が、明らかに私のほうが大きかったので、

 私は思わず、それをこっそりレオン側に寄せようとしてしまいました。


「……リヴィア様?」


「な、何でもありませんわ。たまたま、少し転がっただけですの」


 自分でも苦しい言い訳です。


 レオンは、困ったように目を細めて、それでも何も言わず、元の大きさのまま受け取ってくれました。


「最近は、穏やかな日が続きますね」


 廊下の窓から差し込む光を見ながら、彼がぽつりと呟く。


「ええ。あなたが眉間に皺を寄せておられない日が増えました」


「それは……心外な評価ですね」


 そう言いながらも、レオンの口元には、わずかな笑みが浮かんでいました。


 焼き菓子の甘さが、ゆっくりと舌に広がる。

 そのささやかな時間が、どうしようもなく愛おしく思えました。


(もし、このまま——)


 ふと、そんな言葉が、胸の内側に灯ります。


(もし、このまま嵐が来なければ。

 もし、このまま皆が歳を重ねていけたなら。

 私もいつか、戦いではない形で、この人の隣に立つ未来を——)


 そこで、私は自分の思考をそっとたたみました。


 あまりにも甘い「もしも」は、

 手のひらで転がしているあいだは楽しくても、

 握りしめてしまえば、すぐに壊れてしまうガラス細工のようですから。


◆ ◆ ◆


 ——その頃、ずっと遠くの場所では。


 私の知らない誰かたちが、

 私の知らないテーブルの上で、

 私の名前を書かれた地図を囲んでいました。


「ここが、辺境か」


 重ねられた地図の上、指先がとん、と一点を示す。


 アルマディア公国。

 王国の南に位置する、交易と軍事の両方で勢力を伸ばしている国。


 深い緑色の軍服を纏った男たちが、静かに視線を交わしていた。


「教会の報告では、“奇跡の公爵令嬢”と呼ばれているらしいな」


「王国も教会も、彼女の扱いに苦慮しているそうです。

 従わせるには強すぎ、排除するには惜しい。……まことに、厄介な存在だ」


 机の上には、王国の地図だけではない。

 教会の影響圏や、交易路、鉱山の位置まで記された資料が広がっている。


「奇跡の使い手、か」


 年嵩の貴族が、興味深そうに目を細めた。


「我が公国にとっても、無関係とはいかぬ。

 教会の秩序に従わぬ奇跡使いが、国境近くにいるとなれば——」


「放置しておけば、いずれ火種になるでしょう。

 であるなら、こちらから先に手を打つべきかと」


 若い将校が、淡々と答える。


「手、とは?」


「婚姻による取り込み。

 あるいは、経済的な依存関係を作り、王国から切り離す」


 別の声が、あえて抑揚なく続ける。


「それが叶わぬのであれば——」


「排除、か」


 短く、鋭い言葉。


 会議室の空気が、わずかに冷たくなった。


「どのような形にせよ、

 “放置”だけはありえない、ということですな」


「ええ。辺境は、今や単なる辺境ではない。

 彼女の存在ひとつで、周辺の秩序は変わりえます」


 窓の外では、穏やかな陽光が石畳を照らしている。

 しかし、その室内にいる者たちの目には、

 そこに描かれた地図しか映っていなかった。


 その地図の上で、辺境はただの一つの色と線でしかない。

 そこに生きる人々の笑顔も、歌声も、

 子どもたちの拙い刺繍も、誰一人として知らぬまま。


◆ ◆ ◆


「今日も、よく働きましたわね」


 夕暮れ、邸のバルコニーに出て、

 私はひとり、オレンジ色に染まる空を見上げました。


 畑からは、作業を終えた人々の話し声。

 集いの家からは、楽器の音と笑い声。

 どれも、少し前のこの土地では考えられなかった音ばかりです。


 胸元には、子どもたちからもらった小さなお守り。

 机の引き出しの中には、下手な刺繍入りのハンカチ。

 どれもこれもが、「守りたかった日常」の形でした。


(これが、私が選び、戦ってきた結果なのだと——)


 ようやく、胸を張って言える気がしました。


 その一方で、

 どこかで、胸の奥がそっと囁きます。


(こんな日々が、ずっと続けばいい——)


 そう願ってしまった瞬間から、

 物語は次の章へ転がり始めていたのかもしれません。


 嵐の前の静けさ、という言葉があります。


 あのときの私は、

 この穏やかな時間が、まさにその静けさなのだとは、

 まだ少しも気づいていませんでした。


 ただ、暮れゆく空に手を伸ばし、

 今日も無事に終わった一日に、そっと感謝を捧げるだけ。


 ——そのすぐ向こうで、

 まだ見ぬ嵐が、静かに形を整えつつあることも知らないままに。


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