嵐の前の静けさ
その日々は、少しだけ、夢のようでした。
朝、カーテンを開けると、まだ冷たい空気が頬を撫でていきます。
窓から見下ろす中庭の向こう、畑の方角からは、土を踏みしめる音と、人の笑い声。
芽吹いたばかりの若い緑が、うっすらと畝を染めていました。
あの荒地だった土地に、こうして「次の季節」が並んでいる。
それだけで胸が温かくなってしまうのですから、単純だと笑われてしまうかもしれませんわね。
「……今日も、よく育ってくれていますわ」
思わずそんな独り言が漏れ、窓辺で小さく微笑みました。
◆ ◆ ◆
午前中は、子どもたちの学校へ顔を出しました。
教会の一角を改装した教室には、小さな机と椅子がぎゅうぎゅうと並び、そのあいだを、まだ書き慣れない文字たちが行進しています。
「リヴィアさま、見て! ぼく、自分の名前ぜんぶ書けた!」
ノートを掲げて駆け寄ってきた少年の紙には、ところどころひっくり返った文字も混ざっていましたが——それでも確かに、彼自身の名前になっていました。
「まあ、素晴らしいですわ。……ここは、もう少しだけ大きく書いてみましょうか」
私は膝を折り、少年の隣でペンを握りました。
黒板の前では、若い騎士が少し照れくさそうに算術を教えています。
最初はあれほど緊張していたのに、今では子どもたちにからかわれて苦笑を返せるくらいには、板につきました。
「リヴィア先生、これ、あげる!」
休み時間になると、今度は女の子が小さな包みを差し出してきました。
「まあ、何かしら?」
「おまもり! おかあさんといっしょに縫ったの。
リヴィアさまが、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと寝られますようにって」
広げてみると、不揃いな糸で縫われた、少しいびつな小袋でした。
けれど、その真ん中には、拙いながらも丁寧に刺された私の頭文字。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなるのを感じました。
「……ありがとうございます。大切にしますわ」
本当に、宝物を受け取った気持ちでしたので、
私はそのお守りを、そっと胸元に抱きしめました。
◆ ◆ ◆
午後は集いの家で、領民たちの相談に耳を傾けます。
「次の市では、この干し肉をもっと売りたいんですがね、値札の書き方が……」
「旦那が、字が読めるようになってから、前より口ごたえするんだ。嬉しいような困るような……」
笑いながら打ち明けられる小さな悩みたち。
かつては「生きるか死ぬか」でしかなかったこの土地に、
こうして“どうでもいいことに頭を悩ませる余裕”が生まれている——
それが、何よりの変化だと思えました。
日が傾きはじめたころ、邸に戻る廊下で、レオンとすれ違いました。
「お帰りなさいませ、リヴィア様。今日の学校の様子は、いかがでしたか」
「皆、驚くほどの熱心さですわ。……教える側の騎士たちが、子どもたちの勢いに負けているくらいには」
「それは頼もしいことです」
レオンは、いつもより少しだけ柔らかい表情で笑いました。
その手には、小さな紙袋が提げられています。
「それは?」
「市場で、兵の一人が買ってきた菓子を、少し分けてもらいました。
甘すぎると評判でして……よろしければ、おひとつ、いかがですか」
差し出されたのは、小さな焼き菓子でした。
丸いものをふたつ、レオンは器用に半分に割ります。
「では、こちらを——」
と渡された欠片が、明らかに私のほうが大きかったので、
私は思わず、それをこっそりレオン側に寄せようとしてしまいました。
「……リヴィア様?」
「な、何でもありませんわ。たまたま、少し転がっただけですの」
自分でも苦しい言い訳です。
レオンは、困ったように目を細めて、それでも何も言わず、元の大きさのまま受け取ってくれました。
「最近は、穏やかな日が続きますね」
廊下の窓から差し込む光を見ながら、彼がぽつりと呟く。
「ええ。あなたが眉間に皺を寄せておられない日が増えました」
「それは……心外な評価ですね」
そう言いながらも、レオンの口元には、わずかな笑みが浮かんでいました。
焼き菓子の甘さが、ゆっくりと舌に広がる。
そのささやかな時間が、どうしようもなく愛おしく思えました。
(もし、このまま——)
ふと、そんな言葉が、胸の内側に灯ります。
(もし、このまま嵐が来なければ。
もし、このまま皆が歳を重ねていけたなら。
私もいつか、戦いではない形で、この人の隣に立つ未来を——)
そこで、私は自分の思考をそっとたたみました。
あまりにも甘い「もしも」は、
手のひらで転がしているあいだは楽しくても、
握りしめてしまえば、すぐに壊れてしまうガラス細工のようですから。
◆ ◆ ◆
——その頃、ずっと遠くの場所では。
私の知らない誰かたちが、
私の知らないテーブルの上で、
私の名前を書かれた地図を囲んでいました。
「ここが、辺境か」
重ねられた地図の上、指先がとん、と一点を示す。
アルマディア公国。
王国の南に位置する、交易と軍事の両方で勢力を伸ばしている国。
深い緑色の軍服を纏った男たちが、静かに視線を交わしていた。
「教会の報告では、“奇跡の公爵令嬢”と呼ばれているらしいな」
「王国も教会も、彼女の扱いに苦慮しているそうです。
従わせるには強すぎ、排除するには惜しい。……まことに、厄介な存在だ」
机の上には、王国の地図だけではない。
教会の影響圏や、交易路、鉱山の位置まで記された資料が広がっている。
「奇跡の使い手、か」
年嵩の貴族が、興味深そうに目を細めた。
「我が公国にとっても、無関係とはいかぬ。
教会の秩序に従わぬ奇跡使いが、国境近くにいるとなれば——」
「放置しておけば、いずれ火種になるでしょう。
であるなら、こちらから先に手を打つべきかと」
若い将校が、淡々と答える。
「手、とは?」
「婚姻による取り込み。
あるいは、経済的な依存関係を作り、王国から切り離す」
別の声が、あえて抑揚なく続ける。
「それが叶わぬのであれば——」
「排除、か」
短く、鋭い言葉。
会議室の空気が、わずかに冷たくなった。
「どのような形にせよ、
“放置”だけはありえない、ということですな」
「ええ。辺境は、今や単なる辺境ではない。
彼女の存在ひとつで、周辺の秩序は変わりえます」
窓の外では、穏やかな陽光が石畳を照らしている。
しかし、その室内にいる者たちの目には、
そこに描かれた地図しか映っていなかった。
その地図の上で、辺境はただの一つの色と線でしかない。
そこに生きる人々の笑顔も、歌声も、
子どもたちの拙い刺繍も、誰一人として知らぬまま。
◆ ◆ ◆
「今日も、よく働きましたわね」
夕暮れ、邸のバルコニーに出て、
私はひとり、オレンジ色に染まる空を見上げました。
畑からは、作業を終えた人々の話し声。
集いの家からは、楽器の音と笑い声。
どれも、少し前のこの土地では考えられなかった音ばかりです。
胸元には、子どもたちからもらった小さなお守り。
机の引き出しの中には、下手な刺繍入りのハンカチ。
どれもこれもが、「守りたかった日常」の形でした。
(これが、私が選び、戦ってきた結果なのだと——)
ようやく、胸を張って言える気がしました。
その一方で、
どこかで、胸の奥がそっと囁きます。
(こんな日々が、ずっと続けばいい——)
そう願ってしまった瞬間から、
物語は次の章へ転がり始めていたのかもしれません。
嵐の前の静けさ、という言葉があります。
あのときの私は、
この穏やかな時間が、まさにその静けさなのだとは、
まだ少しも気づいていませんでした。
ただ、暮れゆく空に手を伸ばし、
今日も無事に終わった一日に、そっと感謝を捧げるだけ。
——そのすぐ向こうで、
まだ見ぬ嵐が、静かに形を整えつつあることも知らないままに。




