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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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精霊王の約束

 国境の一件から、数日が過ぎた。


 あの夜のことを記した報告書には、すでに何人もの署名と、王都への送達印が押されている。

 「小競り合いの鎮静化」「辺境領主の適切な判断」——そんな、どこか他人事の言葉で。


「……私はまた、余計なことをしてしまいましたかしら」


 最後の一枚に署名をしながら、思わず、そんな独り言が漏れた。


 窓の外では、夕陽が山の端に沈みかけている。

 境界線の村へ向かったあの夜の、揺れる焚き火と矢の軌跡が、ふと頭に蘇る。


 矢は弾かれ、槍は逸れた。

 誰も死なずに済んだことは、間違いなく「良いこと」のはずなのに——

 その帳尻を、どこか別の場所で合わせようとする“世界”の気配を、

 どこかで恐れている自分もいた。


「考えすぎですわね」


 小さく頭を振り、ペンを置く。


「今夜ぐらいは、静かな夢だと良いのですが」


 誰にともなく呟いて、私は寝室へ向かった。


◆ ◆ ◆


 いつもより少し早めにベッドへ潜り込むと、

 体は驚くほど素直に、重力に身を預けてくれた。


 柔らかな布団の重み。

 まぶたの裏側に広がる、まだらな暗闇。


 ゆっくりと、意識が沈んでいく。


 ——雨の音に似た、星のざわめき。


 闇とも光ともつかない何かが、

 上からふわりと降ってくるような感覚に包まれた。


 足元の床が遠のいて、

 代わりに、何もない場所に“足音”だけが残る。


 気がつけば、私はまた、あの世界に立っていた。


◆ ◆ ◆


 そこは、現実のどこにも存在しない「どこか」だった。


 天と地の境界が曖昧な、白く静かな空間。

 あるいは、とても古い森の、音という音を飲み込んだ最奥。


 前に訪れたときと、よく似ている。

 けれど、どこか——ほんの少しだけ、空気の“距離”が違う気がしました。


「……また、来てしまいましたのね」


 自分でも、どこに向けたのか分からない言葉を呟いたそのとき。


『——また、世界に指を突っ込んだな、お前は』


 澄んでいるのに、底の見えない水音のような声が、

 どこからともなく降りてきた。


 振り向くと、そこに彼がいた。


 精霊王。


 人に近い輪郭を持ちながら、

 目も、髪も、衣も——すべてが、現実の色から半歩ずれたような存在。


 男とも女ともつかない、美しい形。

 けれど、その“目”だけは、確かに、人のものではなかった。


「精霊王様……」


 私は、無意識にスカートの裾をつまみ、礼を取った。

 ——ここは寝間着の続きであるはずなのに、

 「礼儀」という習慣は、夢の中でも勝手に体を動かしてしまう。


『その礼は、いつ見ても滑稽だな』


 精霊王は、口元だけをわずかに歪める。

 それが、彼なりの“苦笑”なのだと、前より少しだけ分かる自分がいた。


『ここはお前の寝間着の続きだと言ったはずだ。

 裾などつまむ必要はない』


「……習い性というものは、なかなか変えられませんの」


 私がそう返すと、

 彼は、ゆらりと空間の中を歩み寄ってきた。


 足音は、しない。

 けれど、近づくごとに、周囲の空気が変わる。


 水面に投げ込まれた石の波紋のように、

 彼の存在そのものが、世界を揺らしている。


『あの夜』


 精霊王は、唐突に口を開いた。


『本来なら、いくつかの灯が消えるはずだった』


 灯——命のことだ、とすぐにわかった。


『お前はそれを、歌うように書き換えた』


 歌うように。

 それは、私が詠唱を紡いだあの瞬間のことだろう。


 国境の村で、矢を弾き、槍を逸らし、

 双方の兵たちの間に“壁”を立ち上げた瞬間。


「……ご覧になっていたのですね」


『見るなと言った覚えはない』


 あっさりと返される。


 精霊王の視線が、私の胸の奥を覗き込むように、静かに動いた。


『国と国の均衡に、指一つ触れれば、

 その波紋はどこまでも広がる』


 淡々とした声。

 怒っている、というより——

 世界の仕組みを、何百年も眺めてきた者の“説明”のようだった。


『あの夜、お前が止めた矢は、

 どこかの家の喪服を、一枚減らしたかもしれぬ代わりに』


 ふっと、彼の目が細められる。


『別の場所の戦で、誰かを奮い立たせる理由を、一つ奪ったかもしれぬ』


「……それは」


 胸が、少しだけ痛んだ。


 私が救った命の重さと、

 私の知らないどこかで支払われるかもしれない“代償”。


 考え始めたら、きっと眠れなくなってしまう問い。


「あなたは、お怒りなのですか?」


 自分でも驚くほど、まっすぐに尋ねていた。


 精霊王は、わずかに首を傾げる。


『怒ってはいない』


 そこで一度言葉を切ってから、

 口の端だけを、静かに持ち上げた。


『“面白い”とは思っている』


「……面白い?」


『世界の理は、退屈だ。

 同じことを繰り返し、同じような争いを繰り返す』


 精霊王の視線が、遠くの何かを見るように宙を彷徨う。


『その中で、お前のように、

 決められた形からはみ出して、世界に指を突っ込む存在は——

 厄介で、目が離せぬ』


 厄介、と言いながら。

 その声音には、どこか甘やかすような響きが混じっていた。


 私は、胸の奥のざわめきを飲み込みながら、息を吸う。


「私は……あの夜、守りたかったのです」


 精霊王の目が、私を見た。


「あの場所で、あのとき、

 矢に貫かれていたかもしれない胸があって。

 槍に貫かれていたかもしれない喉があって」


 一人ひとりの顔を思い出す。

 揺れる焚き火の光に照らされた、兵たちの目。

 固く閉ざされた家の中で、息を潜めていたであろう、名も知らぬ村人たち。


「あの夜、ここで止めた命が、

 将来どんな未来を選ぶのかは分かりません」


 言葉を紡ぎながら、自分の手を見下ろす。

 この手が、世界のどこかを歪めているのかもしれない、と理解しながら。


「けれど、そこで終わってしまう可能性を、

 ただ見過ごすことだけはできませんでした」


 精霊王は、しばらく何も言わなかった。


 白い空間に、沈黙が降りる。

 耳鳴りにも似た静けさの中で、

 彼の“考え”だけが、ゆっくりと回っているのが分かるような気がした。


 どれほど時間が経ったか分からない。

 やがて——。


『……よかろう』


 短い一言が、落とされた。


 それは、淡々としているのに、

 どこか、重大な何かの「扉」が開く音にも似ていた。


『お前が“守りたい”と選んだものを守るあいだ、

 我はお前に力を貸そう』


 その言葉に、息が止まる。


 今までも、彼の力は、私の詠唱や祈りに宿っていた。

 けれど、それはあくまで「借りている」という感覚に近かった。


 今、彼ははっきりと、「貸そう」と明言した。


「……それは、約束、だと受け取っても?」


 恐る恐る確認すると、

 精霊王は、ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。


 距離が近づくごとに、

 私の背筋に、冷たさと熱さが同時に走る。


『約束、契約、加護——』


 彼は、私のほとんど目の前まで来て、

 わざとらしく肩をすくめてみせた。


『人間は、好きな呼び名をつけたがる』


 その目が、私を射抜く。


『我にとっては、どれも大差ない。

 “お前が守りたいと歌うかぎり、

 我はその歌に力を貸そう”——それだけだ』


 星の破片のような言葉だった。


 眩しくて、少し怖くて、

 けれど、触れずにはいられない輝き。


「ありがとうございます」


 自然と、そんな言葉がこぼれた。


 精霊王は、ふっと目を細める。


『ただし』


 その声が、少しだけ低くなる。


『忘れるな、リヴィア』


 私の名が、

 冷たい水に指を浸したときのような感触で呼ばれる。


『世界の理を歪めれば歪めるほど、

 お前は“人”から遠ざかっていく』


 胸の奥が、ぞくりとした。


『あまりにも“救いすぎる”者は、人から恐れられる』


 彼は、淡々と続ける。


『お前は既に、“人ならざる何か”として祀り上げられつつある』


 ——「人を飲み込む城の主」

 ——「歌えば国がひとつ消える女」


 旅の語り部が語った、あの物騒な異名の数々が、

 頭の中でよみがえった。


 私の知らない場所で、

 私という“物語”だけが、勝手に歩いてゆく。


『その歌が、“人”から遠ざかる鐘の音にもなることを忘れるな』


 鐘の音。

 祝福か、警鐘か。


 私の歌——奇跡や詠唱が、

 誰かにとっては救いであり、

 誰かにとっては恐怖である、ということ。


 それを、私は、もう知っている。


「……それでも」


 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。


「それでも私は、今、手を伸ばせる命を見捨てる自分にはなりたくありません」


 精霊王の目が、こちらを見つめる。


「恐れられても、憎まれても。

 それでも“ありがとう”と笑う人がいる限り、私は歩き続けたいのです」


 自分の胸の奥から出てきた言葉は、

 思ったよりもずっと、軽やかだった。


 重さや恐怖を抱えたまま、

 それでもなお、前へ進むための、

 自分なりの「中心」のようなもの。


『……本当に』


 精霊王が、小さく息を吐いた。


『厄介で、愛おしい女だ』


 その声には、

 世界を見下ろす王としての冷たい観察と、

 どうしようもないほど個人的な執着が、同時に混ざっていた。


 彼は、ほんの少しだけ身をかがめる。

 その距離は、人間同士であれば、

 互いの呼吸が混ざるほどの近さだった。


『よかろう』


 低く、囁くような声。


『わが声を忘れるな、リヴィア』


 私の耳元で、世界の底が鳴るような音がした。


『お前が望むとき、お前が歌うとき、

 我はそこに在る』


 それは、命令でも、脅しでもなく——

 どこか、「そばにいる」と告げるような、

 不器用な甘さを含んだ宣言だった。


『ただし』


 精霊王は、最後にもう一度だけ、釘を刺す。


『その歩みが“人”から遠ざかるとき、

 お前を責めるのは、我ではなく——人間だ』


 その通りだ、と、思った。


 私を恐れるのも、憎むのも、

 祭り上げ、あるいは石を投げるのも。

 いつだって、“人”なのだ。


「……ええ」


 私は、まっすぐに頷いた。


「責められることも、憎まれることも、きっと避けられませんわ」


 自分の指先を見下ろしながら、静かに続ける。


「それでも、その手が届く範囲で、

 まだ息をしている誰かを守れるのなら——

 私は、あなたの力を借りながら進みます」


 精霊王は、しばらく私を見つめていた。


 その視線の中に、人間嫌いの厭世と、

 それでも私を見放さない奇妙な甘さが、

 複雑に入り混じっている。


『……よい』


 やがて、彼はそう呟いた。


『せいぜい、我を楽しませてみせよ』


 空間が、ふっと揺らぐ。


 白と黒の境界が溶け合い、

 彼の姿が、星の粒になって崩れていく。


『お前が守りたいと歌うかぎり、

 我はその歌に力を貸そう』


 最後に、その言葉だけが、

 鐘の余韻のように残った。


◆ ◆ ◆


 目を開けると、いつもの天井があった。


 薄い朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。

 鳥のさえずりが、遠くで聞こえた。


「……夢、でしたのね」


 枕元に手をやると、

 髪が見事にぐしゃぐしゃになっているのに気づき、

 思わず小さく溜息が漏れる。


「世界の理より先に、まずは寝癖を何とかしませんと」


 現実に引き戻すには、ちょうどいい事実でした。


 けれど——胸の奥には、

 まだ冷たいようで、どこか温かい何かが残っている。


 それは、約束の残り香のようでもあり、

 首輪の重さのようでもあり、

 同時に、背中を押す手のぬくもりにも似ていた。


「精霊王様」


 誰もいない寝室で、私はそっと名を呼ぶ。


「あなたが世界を嫌ってもかまいません。

 その代わり——」


 枕をぎゅっと抱きしめながら、

 小さな声で続けた。


「私が、少しだけこの世界を好きでいても、

 許してくださいます?」


 返事は、もちろんない。


 けれど、窓の外の風が、

 ほんの少しだけ優しくなったような気がして——


 私は、今日もまた、

 この世界で守るべきものを探しに起き上がることにした。


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