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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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境界線の夜

その報せは、いつものように山と積まれた書類の合間から、ひょいと顔を出しました。


「……国境の村、またですのね」


 伝令が置いていった報告書の一枚を、私は指先でなぞる。


『家畜を越境して追いかけたことによる小競り合い』


『漁業権の行き違いによる“誤射”』


『いずれも大事には至らず。上層部の判断としては、当面静観』


 淡々とした文面。

 最後の一行には、別の筆跡でこう書き足されていた。


『若い兵の腕試しとしては、よい機会であろう』


「……“大事には至らず”、ですって?」


 思わず、声に出てしまう。


 誰の目線で決められた「大事ではない」なのでしょう。

 矢が一本飛べば、それだけで誰かが傷を負う。

 槍が一度滑れば、そのまま命がこぼれ落ちることだってあるのに。


 一人でも死ねば、その家族にとっては、それだけで十分に“大事”だというのに。


 机の向こうから、控えめなノックが聞こえた。


「リヴィア様」


「レオン?」


 入室を許すと、いつもの鎧姿の彼が、静かな顔で部屋に入ってきた。

 そこには、わずかに険しさ——そして、迷いが混じっている。


「国境の件、詳しい報告が入りました」


「さきほどの書類だけでは、足りませんのね」


 私は報告書を持ち上げ、彼に示す。

 レオンは一瞥してから、短く頷きました。


「名目上は、誤射や家畜の盗難ということになっていますが……実際には、双方の若い兵が挑発し合い、にらみ合いが続いているとのことです」


「上の貴族方は?」


「“若い兵には多少の実戦経験が必要だ”と。

 “どうせ小競り合いで終わる”と考えておられるようです」


「……そう」


 胸の奥で、何かが小さく軋みました。


 慣れた手つきで、誰かの恐怖を切り捨てる言葉。

 「どうせ」「多少」「腕試し」。


 それで片づけられる人たちは、

 きっと一人も国境の土の上には立っていないのでしょうね。


「レオン。あなたは、どう思いますか?」


 私が尋ねると、彼は少しだけ視線を落とし、それから真っ直ぐに私を見ました。


「危険です。……ですが、放置すれば、もっと危険になる」


「……ええ」


「行くべきかどうかをお尋ねなのなら——」


「いいえ」


 私は小さく首を振りました。


「私は、行かなければならないと思っていますわ。

 ここで見て見ぬふりをするくらいなら、最初から領主など引き受けるべきではありませんもの」


 その言葉に、レオンは苦笑とも溜息ともつかない表情を浮かべる。


「……そうおっしゃると思っていました。

 兵の選定と準備に、すぐ入ります」


「お願いします。ただ一つ——」


 私は書類の山から視線を離し、窓の外の灰色の空を見上げた。


「この戦いが、誰かの“功績づくり”のための遊びではないことだけは、はっきりさせたいのです。

 どちらの旗の下に立つ人であっても、目の前にいる人は、私にとって“守るべき人”ですから」


◆ ◆ ◆


 国境の村へ向かう道は、いつもより長く感じました。


 夕暮れに染まりかけた空の下、馬の蹄の音が一定のリズムで響く。

 私は、少しでも緊張を紛らわせようと、愛馬のたてがみにそっと手を伸ばしました。


「……できれば、話し合いで済みますように」


 誰にともなく、小さくお願いする。

 精霊王か、湖の底の“誰か”か、あるいはただの風か。

 聞いている相手が誰であってもかまわなかった。


 やがて、遠くに焚き火の明かりが、いくつも揺れているのが見えてきた。

 薄暗くなりかけた国境の村。

 家々の灯りは抑えられ、窓は固く閉ざされている。


 その少し外側——境界線のあたりに、二つの“色”が向かい合っていました。


 一方には、私の国の紋章を掲げた旗。

 もう一方には、隣国の紋章が描かれた旗。


 両軍の間には、わずかな空白。

 けれど、その細い隙間を埋めようとするように、怒号と挑発の声が飛び交っていた。


「かかって来いよ、腰抜け!」


「そっちこそ、先に矢を放してみろ!」


 若い兵たちの声は、恐怖と興奮で少し上ずっている。

 その背後に立つ貴族たちは、どこか“他人事”の顔でやり取りを眺めていた。


「到着しました」


 レオンが短く告げる。


「リヴィア様、ここから先は——」


「行きます」


 私は馬から降り、裾を持ち上げて一歩を踏み出しました。


 土の感触が、じかに足裏に伝わってくる。

 焚き火の煙と、汗と鉄の匂い。

 張り詰めた空気が、肌にまとわりついた。


 両軍の間、誰も踏み込んでいない細い線へと向かうと、

 近くにいた自国の兵が慌てて声を上げた。


「リ、リヴィア様!? ここは危険です!」


「だからこそ、ここに立つ必要があるのですわ」


 私は振り返り、兵に微笑みかける。


「私の後ろに下がっていてください。

 今夜くらい、少しだけ“危険な場所”を代わって差し上げます」


 そう言って、さらに数歩——。


 一触即発の空気は、本当に、一瞬で“発火”しました。


 隣国側の若い兵が、怒りに顔を赤くしながら矢をつがえたのが見えた。

 こちら側でも、誰かが短く息を呑む。


「やめろ! まだ命令は——!」


 制止の声が飛ぶより早く、

 弦が鳴る鋭い音が夜気を裂いた。


 ——その矢が、どちらの胸に届くのか。

 どの家の灯を永遠に消すことになるのか。

 その答えを決めたくなくて、私は前に出たのです。


「——どうか、この夜だけでも」


 息を吸い、短く詠唱を紡ぐ。

 胸の奥で精霊の気配が、私の意志に呼応して揺らいだ。


「光よ、境を知りなさい。

 刃と怒りのあいだに、ひとときの壁を——」


 目の前に、透明な膜が張り詰める感覚。


 放たれた矢は、確かにこちらへ飛んできました。

 けれど、私の目の前に立ち上がった見えない壁に触れた瞬間——

 ぱきん、と静かな音を立てて、光の粒になって消える。


「なっ——!?」


「矢が……消えた……?」


 ざわめきが広がる。

 こちら側の兵も、向こう側の兵も、同じ驚きの声を漏らしていた。


 続けざまに、焦った誰かが槍を突き出す。

 それもまた、結界の前で力を失い、

 石打ちのように鈍い音を立てて地面に転がった。


 焚き火のはぜる音だけが、妙にはっきりと耳に残る。


 私は、両軍のほうへ顔を向けました。


「ここで、血を流させるつもりはありません」


 夜気の中でも届くよう、声に力を込める。


「この村に住む人々は、

 どちらか一方の“敵”ではありません。

 あなた方と同じように、明日も生きて帰りを待たれている人たちです」


 向こう側の兵の中から、誰かが吐き捨てるように言った。


「お前に、何が分かる!」


「国境を守るのが俺たちの仕事だ! 今さら止めるな!」


「ええ、そうでしょう」


 私は頷く。


「あなた方が“守ろうとしているもの”を、私が軽んじるつもりはありません。

 国のため、仲間のため、家族のため。

 それぞれの旗の下で、誇りを持って立っておられるのでしょう」


 その上で——と、言葉を続けた。


「けれど、その誇りのために、

 この村に住む人々の命を、ただの“誤射”として片づけるおつもりなら——」


 胸の奥から、静かに熱がこみ上げてくる。


「私は、あなた方の“敵”になります」


 ざわめきが、波のように広がった。


「今のは、どういう……」


「敵、だと……?」


 自国側の貴族の一人が、苛立ちを隠さず声を上げる。


「公爵令嬢殿、それはつまり——

 自国の軍に弓引くと宣言なさるおつもりか?」


「いいえ」


 私は首を横に振る。


「私は、この境界線で“国”に弓引くつもりはありません。

 ただ、“人”に味方したいだけです」


 自分でも驚くほど、言葉は滑らかに出てきた。


「どちらの国の民であっても、

 目の前で命を落としそうな人がいれば、私は手を伸ばします。

 それが貴族の命であろうと、兵の命であろうと、

 名もなき村人の命であろうと、です」


 沈黙。

 誰も、すぐには言葉を返せない。


 そのときだった。


 私から少し離れたところで、

 一人の若い兵が、ぽつりと呟くように口を開いた。


「……俺たちは、本当は……」


 私も、周囲も、その声に耳を傾ける。


「本当は、死にたくてここに立ってるわけじゃない。

 誰かを殺したくて槍を握ってるわけでもない」


 隣にいた仲間らしき兵が、「おい」と小さく制止する。

 けれどその兵は、止まらなかった。


「ただ命令だから、立ってるだけだ。

 “若い兵の腕試し”だなんて……そんな言葉で、死にたくない」


 その言葉は、

 こちら側にも、向こう側にも、

 ゆっくりと沈んでいった。


 焚き火が鳴る音。

 誰かの唾を飲み込む音。


 私は、その兵のほうへ静かに頷いて見せた。


「……そう、ですわよね」


 胸の奥の結界は、まだ張り詰めたまま。

 矢や槍を受け止め続けるため、

 意識を集中させていなくてはならない。


 それでも。


「私は、この境界線で“国”ではなく“人”を守りたいのです。

 それが、どちらの旗の下に立つ人であっても」


 隣国側の貴族が、苛立ちをあらわに吐き捨てた。


「こんな茶番に付き合う必要はない。我らは——」


 しかし、その背後で、

 別の年配の軍人らしき男が、低く唸るように言葉を挟む。


「……今夜は、退こう」


「なに?」


「ここで血を流しても、得られるものは少ない。

 “奇跡の公爵令嬢”の結界を無理に破ってまで、

 名を上げる価値があるとは思えん」


 自国側でも、似たやり取りが起きていた。


「しかし殿下、このまま引けば……」


「それでいい。

 “奇跡に阻まれて退いた”と言えば、体裁は整う」


 人々の声が、

 少しずつ“戦い”から“撤退の理由”へと変わっていくのを感じる。


 しばらくののち——。


「全軍、後退!」


「本陣へ戻れ!」


 号令が、双方からほぼ同時に響いた。


 矢はおろされ、槍は引かれる。

 焚き火の灯りが、徐々に遠ざかっていく。


 私は、結界を張り続けていた手から力を抜きました。

 ぱん、と何かが弾けるような感覚と共に、

 見えない壁は静かに消えていく。


「……はぁ」


 安堵と疲労の入り混じった息が漏れた。


 足元が、少しふらつく。

 けれど、今度こそ——。


「大丈夫、ですわ。今度こそ、倒れませんから」


 自分にそう言い聞かせた瞬間、

 視界の端がぐらりと揺れた。


「リヴィア様!」


 すぐそばにいたレオンが、素早く私の腕を支える。

 その手が、驚くほど熱い。


「……少し、力を使いすぎましたわね」


「少し、で済ませないでください」


 呆れと心配の混じった声。

 けれど、その声が耳に届くこと自体が、

 今夜守れたもののひとつであるように思えました。


◆ ◆ ◆


 村へ戻る道すがら、

 遠くで兵たちの足音が小さくなっていくのを聞きながら、

 私はゆっくりと息を整えました。


「たった一夜、たった一度、戦いを止めただけ」


 胸の内で、静かに言葉が生まれる。


「それでも、その一度に救われた命があるのなら——」


 今夜、矢に貫かれずに済んだ胸。

 槍に貫かれずに済んだ喉。

 そのひとつひとつに、名前も顔もある。


 その後ろには、帰りを待つ誰かがいて。

 泣かずに済んだ誰かが、必ずいる。


「私は、何度でもこの境界線に立ちたいと思いましたわ」


 国の境界線。

 正しさの境界線。

 恐怖と希望の境界線。


 そのどこであっても、

 目の前で命がこぼれ落ちそうなら、

 私はきっと、また歩み出してしまうのでしょう。


 それが、どれほど愚かで、

 どれほど誰かの“秩序”を乱すことであったとしても。


 夜の国境の空は、

 いつもより少しだけ、静かに見えました。


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