境界線の夜
その報せは、いつものように山と積まれた書類の合間から、ひょいと顔を出しました。
「……国境の村、またですのね」
伝令が置いていった報告書の一枚を、私は指先でなぞる。
『家畜を越境して追いかけたことによる小競り合い』
『漁業権の行き違いによる“誤射”』
『いずれも大事には至らず。上層部の判断としては、当面静観』
淡々とした文面。
最後の一行には、別の筆跡でこう書き足されていた。
『若い兵の腕試しとしては、よい機会であろう』
「……“大事には至らず”、ですって?」
思わず、声に出てしまう。
誰の目線で決められた「大事ではない」なのでしょう。
矢が一本飛べば、それだけで誰かが傷を負う。
槍が一度滑れば、そのまま命がこぼれ落ちることだってあるのに。
一人でも死ねば、その家族にとっては、それだけで十分に“大事”だというのに。
机の向こうから、控えめなノックが聞こえた。
「リヴィア様」
「レオン?」
入室を許すと、いつもの鎧姿の彼が、静かな顔で部屋に入ってきた。
そこには、わずかに険しさ——そして、迷いが混じっている。
「国境の件、詳しい報告が入りました」
「さきほどの書類だけでは、足りませんのね」
私は報告書を持ち上げ、彼に示す。
レオンは一瞥してから、短く頷きました。
「名目上は、誤射や家畜の盗難ということになっていますが……実際には、双方の若い兵が挑発し合い、にらみ合いが続いているとのことです」
「上の貴族方は?」
「“若い兵には多少の実戦経験が必要だ”と。
“どうせ小競り合いで終わる”と考えておられるようです」
「……そう」
胸の奥で、何かが小さく軋みました。
慣れた手つきで、誰かの恐怖を切り捨てる言葉。
「どうせ」「多少」「腕試し」。
それで片づけられる人たちは、
きっと一人も国境の土の上には立っていないのでしょうね。
「レオン。あなたは、どう思いますか?」
私が尋ねると、彼は少しだけ視線を落とし、それから真っ直ぐに私を見ました。
「危険です。……ですが、放置すれば、もっと危険になる」
「……ええ」
「行くべきかどうかをお尋ねなのなら——」
「いいえ」
私は小さく首を振りました。
「私は、行かなければならないと思っていますわ。
ここで見て見ぬふりをするくらいなら、最初から領主など引き受けるべきではありませんもの」
その言葉に、レオンは苦笑とも溜息ともつかない表情を浮かべる。
「……そうおっしゃると思っていました。
兵の選定と準備に、すぐ入ります」
「お願いします。ただ一つ——」
私は書類の山から視線を離し、窓の外の灰色の空を見上げた。
「この戦いが、誰かの“功績づくり”のための遊びではないことだけは、はっきりさせたいのです。
どちらの旗の下に立つ人であっても、目の前にいる人は、私にとって“守るべき人”ですから」
◆ ◆ ◆
国境の村へ向かう道は、いつもより長く感じました。
夕暮れに染まりかけた空の下、馬の蹄の音が一定のリズムで響く。
私は、少しでも緊張を紛らわせようと、愛馬のたてがみにそっと手を伸ばしました。
「……できれば、話し合いで済みますように」
誰にともなく、小さくお願いする。
精霊王か、湖の底の“誰か”か、あるいはただの風か。
聞いている相手が誰であってもかまわなかった。
やがて、遠くに焚き火の明かりが、いくつも揺れているのが見えてきた。
薄暗くなりかけた国境の村。
家々の灯りは抑えられ、窓は固く閉ざされている。
その少し外側——境界線のあたりに、二つの“色”が向かい合っていました。
一方には、私の国の紋章を掲げた旗。
もう一方には、隣国の紋章が描かれた旗。
両軍の間には、わずかな空白。
けれど、その細い隙間を埋めようとするように、怒号と挑発の声が飛び交っていた。
「かかって来いよ、腰抜け!」
「そっちこそ、先に矢を放してみろ!」
若い兵たちの声は、恐怖と興奮で少し上ずっている。
その背後に立つ貴族たちは、どこか“他人事”の顔でやり取りを眺めていた。
「到着しました」
レオンが短く告げる。
「リヴィア様、ここから先は——」
「行きます」
私は馬から降り、裾を持ち上げて一歩を踏み出しました。
土の感触が、じかに足裏に伝わってくる。
焚き火の煙と、汗と鉄の匂い。
張り詰めた空気が、肌にまとわりついた。
両軍の間、誰も踏み込んでいない細い線へと向かうと、
近くにいた自国の兵が慌てて声を上げた。
「リ、リヴィア様!? ここは危険です!」
「だからこそ、ここに立つ必要があるのですわ」
私は振り返り、兵に微笑みかける。
「私の後ろに下がっていてください。
今夜くらい、少しだけ“危険な場所”を代わって差し上げます」
そう言って、さらに数歩——。
一触即発の空気は、本当に、一瞬で“発火”しました。
隣国側の若い兵が、怒りに顔を赤くしながら矢をつがえたのが見えた。
こちら側でも、誰かが短く息を呑む。
「やめろ! まだ命令は——!」
制止の声が飛ぶより早く、
弦が鳴る鋭い音が夜気を裂いた。
——その矢が、どちらの胸に届くのか。
どの家の灯を永遠に消すことになるのか。
その答えを決めたくなくて、私は前に出たのです。
「——どうか、この夜だけでも」
息を吸い、短く詠唱を紡ぐ。
胸の奥で精霊の気配が、私の意志に呼応して揺らいだ。
「光よ、境を知りなさい。
刃と怒りのあいだに、ひとときの壁を——」
目の前に、透明な膜が張り詰める感覚。
放たれた矢は、確かにこちらへ飛んできました。
けれど、私の目の前に立ち上がった見えない壁に触れた瞬間——
ぱきん、と静かな音を立てて、光の粒になって消える。
「なっ——!?」
「矢が……消えた……?」
ざわめきが広がる。
こちら側の兵も、向こう側の兵も、同じ驚きの声を漏らしていた。
続けざまに、焦った誰かが槍を突き出す。
それもまた、結界の前で力を失い、
石打ちのように鈍い音を立てて地面に転がった。
焚き火のはぜる音だけが、妙にはっきりと耳に残る。
私は、両軍のほうへ顔を向けました。
「ここで、血を流させるつもりはありません」
夜気の中でも届くよう、声に力を込める。
「この村に住む人々は、
どちらか一方の“敵”ではありません。
あなた方と同じように、明日も生きて帰りを待たれている人たちです」
向こう側の兵の中から、誰かが吐き捨てるように言った。
「お前に、何が分かる!」
「国境を守るのが俺たちの仕事だ! 今さら止めるな!」
「ええ、そうでしょう」
私は頷く。
「あなた方が“守ろうとしているもの”を、私が軽んじるつもりはありません。
国のため、仲間のため、家族のため。
それぞれの旗の下で、誇りを持って立っておられるのでしょう」
その上で——と、言葉を続けた。
「けれど、その誇りのために、
この村に住む人々の命を、ただの“誤射”として片づけるおつもりなら——」
胸の奥から、静かに熱がこみ上げてくる。
「私は、あなた方の“敵”になります」
ざわめきが、波のように広がった。
「今のは、どういう……」
「敵、だと……?」
自国側の貴族の一人が、苛立ちを隠さず声を上げる。
「公爵令嬢殿、それはつまり——
自国の軍に弓引くと宣言なさるおつもりか?」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「私は、この境界線で“国”に弓引くつもりはありません。
ただ、“人”に味方したいだけです」
自分でも驚くほど、言葉は滑らかに出てきた。
「どちらの国の民であっても、
目の前で命を落としそうな人がいれば、私は手を伸ばします。
それが貴族の命であろうと、兵の命であろうと、
名もなき村人の命であろうと、です」
沈黙。
誰も、すぐには言葉を返せない。
そのときだった。
私から少し離れたところで、
一人の若い兵が、ぽつりと呟くように口を開いた。
「……俺たちは、本当は……」
私も、周囲も、その声に耳を傾ける。
「本当は、死にたくてここに立ってるわけじゃない。
誰かを殺したくて槍を握ってるわけでもない」
隣にいた仲間らしき兵が、「おい」と小さく制止する。
けれどその兵は、止まらなかった。
「ただ命令だから、立ってるだけだ。
“若い兵の腕試し”だなんて……そんな言葉で、死にたくない」
その言葉は、
こちら側にも、向こう側にも、
ゆっくりと沈んでいった。
焚き火が鳴る音。
誰かの唾を飲み込む音。
私は、その兵のほうへ静かに頷いて見せた。
「……そう、ですわよね」
胸の奥の結界は、まだ張り詰めたまま。
矢や槍を受け止め続けるため、
意識を集中させていなくてはならない。
それでも。
「私は、この境界線で“国”ではなく“人”を守りたいのです。
それが、どちらの旗の下に立つ人であっても」
隣国側の貴族が、苛立ちをあらわに吐き捨てた。
「こんな茶番に付き合う必要はない。我らは——」
しかし、その背後で、
別の年配の軍人らしき男が、低く唸るように言葉を挟む。
「……今夜は、退こう」
「なに?」
「ここで血を流しても、得られるものは少ない。
“奇跡の公爵令嬢”の結界を無理に破ってまで、
名を上げる価値があるとは思えん」
自国側でも、似たやり取りが起きていた。
「しかし殿下、このまま引けば……」
「それでいい。
“奇跡に阻まれて退いた”と言えば、体裁は整う」
人々の声が、
少しずつ“戦い”から“撤退の理由”へと変わっていくのを感じる。
しばらくののち——。
「全軍、後退!」
「本陣へ戻れ!」
号令が、双方からほぼ同時に響いた。
矢はおろされ、槍は引かれる。
焚き火の灯りが、徐々に遠ざかっていく。
私は、結界を張り続けていた手から力を抜きました。
ぱん、と何かが弾けるような感覚と共に、
見えない壁は静かに消えていく。
「……はぁ」
安堵と疲労の入り混じった息が漏れた。
足元が、少しふらつく。
けれど、今度こそ——。
「大丈夫、ですわ。今度こそ、倒れませんから」
自分にそう言い聞かせた瞬間、
視界の端がぐらりと揺れた。
「リヴィア様!」
すぐそばにいたレオンが、素早く私の腕を支える。
その手が、驚くほど熱い。
「……少し、力を使いすぎましたわね」
「少し、で済ませないでください」
呆れと心配の混じった声。
けれど、その声が耳に届くこと自体が、
今夜守れたもののひとつであるように思えました。
◆ ◆ ◆
村へ戻る道すがら、
遠くで兵たちの足音が小さくなっていくのを聞きながら、
私はゆっくりと息を整えました。
「たった一夜、たった一度、戦いを止めただけ」
胸の内で、静かに言葉が生まれる。
「それでも、その一度に救われた命があるのなら——」
今夜、矢に貫かれずに済んだ胸。
槍に貫かれずに済んだ喉。
そのひとつひとつに、名前も顔もある。
その後ろには、帰りを待つ誰かがいて。
泣かずに済んだ誰かが、必ずいる。
「私は、何度でもこの境界線に立ちたいと思いましたわ」
国の境界線。
正しさの境界線。
恐怖と希望の境界線。
そのどこであっても、
目の前で命がこぼれ落ちそうなら、
私はきっと、また歩み出してしまうのでしょう。
それが、どれほど愚かで、
どれほど誰かの“秩序”を乱すことであったとしても。
夜の国境の空は、
いつもより少しだけ、静かに見えました。




