エリアスの影
最近、教会から届く書簡を束ねて眺めていると、
ある名前だけが、妙に目につくようになっていました。
「……また、この方ですのね」
思わず小さく溜息が漏れます。
朝の執務室。
窓から差し込む光の中、机の上には山になった報告書と通達書。
そのうち、教会本部から届いたものを一枚ずつめくっていくと——
末尾に並ぶ署名が、少しずつ同じ文字で埋まり始めているのです。
――教会異端審問官長 エリアス。
さらりとした筆跡なのに、
どこか余白にまで重みを残す、きっちりとした署名でした。
「どれどれ……」
私は上から順に、文面を読み返していきました。
『秩序維持の観点から、貴領における奇跡行使の記録の
詳細な提出を求める』
『教義に沿わない形での奇跡の使用が確認された場合、
適切な措置を検討する必要がある』
『今後、奇跡の行使に関わる全ての判断は、
教会本部の指針を最優先とすることが望ましい』
言葉は丁寧です。
露骨な命令文ではありません。
けれど、行間を指でなぞればなぞるほど、
ひとつひとつの文が、
逃げ道をきれいに塞ぐように並べられていることが分かりました。
(この方にとって、私は“ひとりの人間”ではないのでしょうね)
私の胸の内で、
静かな考えが浮かびます。
(奇跡という名の“変数”であり、
秩序を乱すかもしれない“リスク”として、
ただ数値のように見ておられる)
署名の墨の黒さが、
妙に冷たく見えました。
◆ ◆ ◆
「神父様、この“エリアス”という方は——
そんなに有名な方ですの?」
午前の祈りが終わったあと、
私は教会の控え室で神父に問いかけました。
白髪混じりの、真面目で少し気弱な神父は、
私の問いに、目に見えて身をすくませます。
「め、め、名は……存じております。ええ、とても」
「そんなに慌てなくてもよろしいですわ。
私、今すぐこの場で異端審問を始めたりはいたしませんから」
冗談のつもりで言うと、
神父は「そ、それは当然でございますが……」と苦笑しました。
「エリアス様は、本部にて“異端審問官長”を務めておられる方です。
教義と秩序を何よりも重んじ、
教会の決まりに反する行いがあれば、身分を問わず糾弾なさるとか」
「身分を問わず、ですの?」
「はい……。
かつては、とある大司教の汚職を暴き、
教会の法廷に引きずり出したという話も伝わっております。
その件で、熱心な信徒たちからは“真の義の人”と称えられ、
同時に、多くの聖職者からは畏れられている、と」
(身内の腐敗を捨て置かない、という点だけ見れば——
たしかに“正しさ”のひとつの形なのかもしれませんわね)
私は胸の内でそう呟きました。
「とはいえ、厳格なお方であることは間違いございません。
教義からのわずかな逸脱も許さず、
“例外”という言葉を好まれない、と聞き及んでおります」
「例外を、好まない」
私自身、
精霊王という“例外”に拾われた身であることを思えば、
その一言だけで、少し喉が渇くような感覚がしました。
「……怖い方なのですね」
私がそう言うと、
神父は困り果てた顔で両手を振ります。
「こ、怖いというか、その……敬意を抱くべきお方ではあるのですが……」
「精霊王様と、どちらが怖いのでしょう?」
真剣な気持ちで尋ねると、
神父は言葉を失い、しばし沈黙します。
「……比べる対象がおかしい気もいたしますが、
少なくともエリアス様は、
“人の世界の秩序”を守るために動いておられる方かと」
「なるほど」
精霊王は、
人ではない何かの感情で世界を揺らそうとする存在。
エリアスという人は、
人の作った秩序で世界を締め付けようとする存在。
どちらがより“怖い”と言い切ることは、
今の私にはできませんでした。
◆ ◆ ◆
数日後。
集いの家で旅の聖職者や商人と話す機会があり、
私はさりげなくエリアスの名を出してみました。
「エリアス殿、ですって?」
年配の巡回司祭は、
すぐに顔をしかめました。
「一度目をつけられたら最後だ、というのが、
あの方に対する私どもの率直な印象でございます。
教義に背く者、教会の秩序を乱す者……
そう判断なさった相手には、
王族であろうと貴族であろうと容赦がない」
隣で杯を傾けていた商人も、
苦笑しながら口を挟みます。
「“異端”と判じられたら、
王も貴族も守りきれない——
そう言われてますね。
……もっとも、
不正だらけの修道院を丸ごと裁いたって話も聞いてますが」
「丸ごと、ですの?」
「ええ。
信徒からの寄進を私腹におさめていた一派を、
根こそぎ調査して処罰したとか。
あれで救われた者も多い、と聞きますよ」
恐れと、
わずかな敬意が混じった口調でした。
「完全な悪、というわけではないのですね」
私がそう言うと、
二人は顔を見合わせて、同時に肩をすくめました。
「正しすぎるんですよ、あの方は」
「ええ、“教会の正しさ”の範囲では、ですが」
正しすぎる――
その言葉が、妙に胸の奥に沈みました。
(教義と秩序の枠の中で、
完璧に“正しく”あろうとする人)
私は、湖の底で出会った異界の探査員や、
夢の中で嫉妬を漏らした精霊王を思い浮かべます。
(精霊王は、世界を“好きか嫌いか”で見ている節がありますけれど)
(このエリアスという人は、
世界を“正しいか間違っているか”でしか見ないのかもしれませんわね)
一方は、感情で世界を動かそうとする“異物”。
一方は、理屈で世界を縛ろうとする“秩序”。
どちらも——たぶん、自分なりの正しさで世界を守ろうとしているのでしょう。
それでも、その“守り方”の違いが、
今まさに、私のいるこの辺境を、
じわじわと締め上げようとしている。
◆ ◆ ◆
その夜。
私は執務室の机一面に、
教会からの文書を並べていました。
エリアスの署名が入ったものだけを抜き出して、
日付順に並べてみると——
そこには、はっきりとした“変化の流れ”が見えました。
最初の頃の書簡は、
まだ柔らかな言い回しが多かったのです。
『辺境における奇跡の噂を拝聞した。
その詳細を記録として残すことは、
後の時代の信徒のためにも有益であろう』
それが次第に、
“記録”から“管理”へと、
言葉を変えていきます。
『秩序維持の観点から、
貴領における奇跡行使の記録の詳細な提出を求める』
『今後、奇跡行使に際しては、
事前に教会本部へ簡易の申請を行うことが望ましい』
そして、ごく最近のものには——
明らかに、“警告”の響きが滲んでいました。
『教義に沿わない形での奇跡の使用が確認された場合、
異端審問官長として、
適切な措置の検討を行わざるを得ない』
文の端に、
「監視」「統制」「記録」といった言葉が、
ひっそりと潜んでいます。
(この人は、奇跡の“真偽”には、それほど興味がないのでしょうね)
私は、自分の膝の上で指を組みました。
(それが精霊王のものでも、
外海から伸びた“何か”の力でもかまわない。
大事なのは、それが“教会の枠の中にあるかどうか”。
そういう見方をしている)
私が誰を救ったか。
何に迷い、何を諦めたか。
その過程には、きっと興味などないのでしょう。
必要なのは、数字と結果。
どの村で、何人に、どの程度の奇跡が行使されたか。
私は紙の上では、
物語の登場人物ですらなく、
ただの“データ”に過ぎないのかもしれません。
(世界は、目に見える敵だけでなく——
目に見えない“秩序の形”でも、私を試してくるのですね)
窓の外では、
辺境の夜が静かに広がっていました。
城を飲み込むような闇の中で、
子どもたちは眠り、
兵たちは見張りに立ち、
遠くの集落では誰かが小さな灯を守っています。
机の上の紙の束は、
そこに生きる人々の息づかいを、
まるで感じさせようとしません。
(——エリアス)
私は署名の部分に指先を置きました。
(あなたは、まだ顔も知らない私を、
書面の上だけで“重要監視対象”として測ろうとしている)
(教義と秩序の枠の中から、
この辺境を眺め、
私という“変数”をどう処理するか考えている)
それが、
完全な悪意からではないことは分かります。
腐敗した聖職者を裁き、
信徒の祈りを踏みにじる行いを罰してきた人なのだとしたら、
たぶん彼もまた、“守りたいもの”があるのでしょう。
ただ——。
「どれほど高名な“秩序の番人”であっても」
私はペンを置き、
静かに呟きました。
「ここで生きている人たちの顔を見ずに、
私を数字だけで測るのなら——」
精霊王は、
私が泣くような真似をする者を許さないと言いました。
エリアスはきっと、
私が教義からはみ出すことを許さないのでしょう。
世界の内側と外側から、
それぞれ違う“正しさ”で私を見ている存在がいる。
そのどちらとも、
ただ従うだけで済むほど、
この辺境は軽くないのです。
「私は喜んで、その秤に抗ってみせますわ」
ここで暮らす人々の顔を思い浮かべながら、
私は心の中で、そう宣言しました。
湖の底から伸びた手も。
夢の中で嫉妬を語る王も。
遠い聖都で書類に目を落とす誰かの影も。
そのどれもが、
私という存在をどう扱うかを決めようとしているのだとしても——。
(最後に、私を決めるのは、私自身の選択ですもの)
精霊王の嫉妬にも、
教会の秩序にも、
世界の噂話にも。
私は簡単には飲み込まれない。
まだ会ったことのない男の名前が、
文の端からじわりとにじみ出してくる夜。
それでも私は、
この手で守りたいものを選ぶしかないのだと、
改めて強く思ったのでした。




