世界の噂話
その男が辺境に姿を見せたのは、
ちょうど《灰牙》との戦い跡地に新しい畑の畝が伸びはじめ、
集いの家にも、ようやく日常の笑い声が戻ってきた頃のことでした。
「面白い奴を拾ってきたぞ、嬢ちゃん」
満面の笑みと共に、マルコが連れてきたその人物は——
細身の体に場違いなほど大きな荷物を背負った、
胡散臭い……いえ、独特の風情をたたえた旅人でした。
「各地を回って噂話を売って歩いてる“語り部”さ。
歌も物語も、ついでに酒の肴もひとまとめで仕入れられる便利屋だな」
マルコが肩をすくめると、
旅人はぺこりと、いささか大げさに頭を下げました。
「これはこれは、公爵家の……おや、ここでは“辺境の嬢ちゃん”と呼ぶべきですかな?」
茶色とも金色ともつかない髪をひとつに束ね、
どこのものとも判別しがたいアクセントで言葉を紡ぐその男は、
背中にはきちんとした革のケースに入れた弦楽器——
リュートに似た何かを背負っていました。
「語り部のヴァルノと申します。
宿代の代わりに世界の噂話を一晩、というのが私の商売でして」
自分で胡散臭さを増しながら名乗るとは、
なかなか器用な方です。
「噂話、ですか」
「ええ、噂話。できれば、酒の入った場で聞いていただきたい類の」
ちらりとマルコと視線を交わし、
二人で同時にニヤリと笑うのはやめていただきたいものですわ。
「今夜、集いの家で“世界の噂話の夜会”ってのをやろうと思ってな。
嬢ちゃんもこっそり聞きに来いよ。自分のことも出てくるかもしれねえし」
「……私の、こと?」
思わず聞き返すと、ヴァルノと名乗った男は、
意味ありげに片目をつぶって見せました。
「今の世で“噂話の種”と言えば、戦と飢えと——
それから、奇跡の公爵令嬢の話ですからな」
私の胴のあたりで、
心臓が小さく跳ねました。
◆ ◆ ◆
その夜。
集いの家には、いつになく人が集まっていました。
長椅子の上には、兵や村人が肩を並べ、
子どもたちは床に直接座り込み。
奥のほうの席では、マルコがちゃっかり酒樽を抱え込んでいます。
「リヴィア様、そちらの席でよろしいですか?」
「ええ。あまり前に出ると、かえって話がしづらいでしょうから」
私は変装まではしませんでしたが、
一応、端のほうの席に腰掛けました。
公爵令嬢がどこにいようと、
この規模の集いで私の所在が隠れるはずもありませんが——
せめて、語り部から全員を見渡しやすい位置にはいないほうがよいでしょう。
やがて、部屋の明かりが少し落とされ、
ヴァルノが中央に歩み出ます。
背負っていた楽器を構えると、
軽く弦を鳴らしながら、顔いっぱいに笑みを浮かべました。
「さてさて、今宵お集まりの皆さま。
遠い国からこの辺境まで足を運んだ甲斐があったというもの。
世界の隅から隅まで拾い集めた“噂話”を、
今からここで、少しばかりこぼしてみましょう」
ぽろん、と柔らかな音が響きます。
「まずは——皆さま、こういう名を耳にしたことは?」
ヴァルノはわざとらしく周囲を見回し、
少し声を落としました。
「“辺境に降りた、小さな聖女”」
どっと笑いが起こりました。
「ああ、それなら聞いたことあるぞ」
「北の国の商人が言ってたやつだ!」
「白い服を着て、手を振ると畑が一晩で実るって話の——」
「——どなたのことでしょうね?」
私はお茶を口に含んだまま、
できる限り無表情を保とうと努めました。
向かいの席で侍女の一人が、
肩を震わせているのが視界の端で見えます。
笑うなら、あとにしてくださいませ。
「おや、既にご存じでしたかな。
この辺境に、そんな方がいらっしゃるとか、いらっしゃらないとか」
ヴァルノは軽く肩をすくめると、
指折り数えるような仕草をしました。
「他にもございますぞ。
“白衣の守護者”」
「おお……」
どこからともなく、感嘆とも冷やかしともつかない声が漏れました。
「怪我人と病人を前にすると、
夜が明けるまで手を止めない、
白い衣の娘がいると。
その手には血の匂いではなく、薬草の匂いが染み込んでいるのだとか」
……それは、少々むず痒い表現ですわね。
たしかに白い服を汚しながら治癒を続けることはありますが、
そんな詩的な肩書きで呼ばれるような生き方をしているつもりはありません。
「でもな、俺の国じゃこうも言われてるぜ」
集いの家の奥から、
顔なじみの兵がひょいと手を挙げました。
「“人を飲み込む城の主”ってよ」
「出た!」
「それな!」
子どもたちまで一斉に盛り上がるのはやめてください。
「ほう、“人を飲み込む城の主”。
それはぜひ、詳しくうかがいたい」
ヴァルノが乗り気になり、
兵士は得意げに胸を張ります。
「ここからずっと南の宿場町だ。
そこに来た旅人が言ってたんだよ。
“北の辺境に、人を飲む城がある。
悪意を持って城に足を踏み入れた者は、
足元の床が口を開けて飲み込む”ってな」
「……」
私は思わず、足元の床板を見下ろしました。
——心当たりがまったくないわけでは、ありません。
(精霊王様。あれは……)
あの夜、扉の前で消えた刺客の姿が脳裏をよぎり、
慎重に、お茶をもう一口飲みました。
「そして、その城の主は——
“優しい顔で人を救うくせに、怒らせると世界ごと呑み込みかねない”
“二つの顔を持つ娘”だとか」
「こわ……」
「でも、悪いことしなきゃ食べられないんでしょ?」
「じゃあだいじょうぶ!」
子どもたちの会話が、
あまりにも気楽で、救われるような、少し複雑な気持ちになります。
「まだありますぞ、まだまだ。
東の国では——“歌えば国がひとつ消える女”」
「ぶっ——」
危うく、本当にお茶を噴き出すところでした。
「ちょっと待ってくださいませ。
どこをどう捻ると、そのような物騒な肩書きになりますの?」
ついに耐えきれず、
声を上げてしまいました。
ヴァルノは嬉々としてこちらを振り向きます。
「おや、ご本人からの抗議でしょうか?」
「ご本人ではありませんわ。ただの辺境の領主です」
視線が、
集いの家のあちこちで私へ集まります。
いまさら取り繕っても手遅れですね。
「東の国の噂では、
一つの国の聖女候補を追い出された元婚約者の公爵令嬢が、
いまや歌ひとつで国を滅ぼしかねないほどの力を持っているのだとか」
「だいぶ脚色が過ぎていませんこと?」
「噂というものは、
真実三割、誇張三割、願望と恐怖が四割。
そういうものです」
まったく悪びれずに言い切られてしまいました。
「ちなみに、南の教都周辺では、
“神と取引した娘”“神の愛人”などと呼ぶ向きもあるとか」
「あの連中め……」
思わず本音が漏れそうになり、
慌てて咳払いでごまかしました。
その隣で、マルコが腹を抱えて笑っています。
「“神の愛人”ねえ。
精霊王様に聞かせたら、どんな顔するか見てみてえもんだ」
「やめてください」
本気でやめていただきたい。
視界の端では、
レオンが苦い顔をしながらも、
どこか複雑そうに目を伏せていました。
「“歌えば国がひとつ消える女”……」
ぼそりと彼が呟いたのが聞こえます。
「案外、あながち間違いとも言えないのかもしれませんね」
「レオン?」
「いえ。失礼しました」
そんなことを真顔で言わないでいただきたいのですが。
集いの家は、
笑いとざわめきと、
ほんのわずかな畏れで満ちていました。
「辺境に降りた小さな聖女」
「白衣の守護者」
「人を飲み込む城の主」
「歌えば国がひとつ消える女」
「神と取引した娘」——。
どれも、私が自分で名乗った覚えのない名ばかりです。
なのに、それらはどこかで、
私という存在と切り離せないものとして語られてしまっている。
それが、居心地悪くもあり、
少しだけ、くすぐったくもありました。
◆ ◆ ◆
夜会が終わり、人々が三々五々散っていったあと。
集いの家には、私とマルコ、そしてヴァルノだけが残りました。
片付けを手伝っていた侍女たちも、
「後は任せていい」とマルコに追い出されています。
——何を企んでいるのか、丸わかりですわね。
「いやあ、いい反応でした。
“歌えば国がひとつ消える女”であそこまで動揺していただけるとは」
「普通は動揺すると思いますわよ」
私は空になったカップを指先でなぞりながら、
ため息をひとつこぼしました。
「ですが——」
「ですが?」
「“辺境に降りた小さな聖女”よりは、
まだ幾分ましな気もいたしますわね」
思わず本音が出てしまい、
マルコが机を叩いて笑い出しました。
「だってよ、ヴァルノ。
お嬢様、物騒な二つ名のほうを選んだぜ」
「そういう意味ではありません!」
……たしかに、
“聖女”と呼ばれるほうが、
私としては居心地が悪いのです。
私は、聖女などではありませんから。
ヴァルノはそんな私たちのやり取りを見て、
口元に小さな笑みを浮かべました。
「噂ってのは、
恐れと願望の足し算でできてるんですよ、お嬢さん」
「恐れと……願望」
「ええ。
あんたを崇めたい奴と、
あんたを怖がりたい奴。
そのどっちもが、勝手に物語を作るんです」
彼は、背負っていた楽器の弦を指で弾きながら続けました。
「“辺境に降りた小さな聖女”って呼ぶのは、
自分たちの世界に、都合のいい救い手がいてほしいと願う連中」
「“人を飲み込む城の主”と囁くのは、
自分たちの良心が咎めているから、
あんたの力に“罰”の顔を見ている連中」
「“歌えば国がひとつ消える女”なんて物騒な名をつけるのは——
世界をひっくり返してくれる誰かが、
本当にどこかにいてほしいと、
半分は夢見ている奴ら、ってとこですかね」
私は、しばし言葉もなく彼の横顔を見つめました。
「私は、そんな大層な存在ではありませんわ」
ようやく、それだけを口にします。
「ただ、目の前で倒れている人がいれば、
手を伸ばさずにはいられないだけです」
「そう言える奴に限って、
本当に危ないことをやってたりするんですよ」
ヴァルノは軽口のように言って、
私とマルコの表情を交互に眺めました。
「お嬢さんは、自分のことをよく分かっていない」
「それは——」
反論しかけて、
口をつぐみました。
たしかに私は、
自分が世界の“当たり前”をどれほど壊しているのか、
きちんと測れているとは言えません。
誰も死ななかった夜。
刺客を飲み込んだ石の床。
湖の底から伸びてきた“外側”の手。
どれも、世界の物語の外縁を、
わずかに書き換えてしまった出来事です。
それがどんな意味を持つのかを、
私はまだ理解しきれていない。
「ただ、ひとつ言えるのはですね」
ヴァルノは、
楽器を片づけながら続けました。
「アンタという人間がどうであれ、
“物語としてのアンタ”は勝手に歩いていくってことです」
「物語としての……私」
「そう。
俺が酒場で歌うとき、
俺が語るのはアンタ本人じゃない。
“奇跡の公爵令嬢”っていう、物語上のキャラクターだ」
それは、少し酷いようでいて、
ある意味、とても正直な言い方でした。
「物語になったアンタは、
誰かに希望を与えるかもしれないし、
別の誰かには恐怖の対象になるかもしれない」
「だが——」
ヴァルノはくるりとこちらに向き直り、
真面目な目つきで言いました。
「そのどっちに傾けるかくらいなら、
アンタ自身がちょっとだけ、
舵を切れるかもしれない」
「舵、ですか」
「“辺境に降りた小さな聖女”が、
民を見捨てて逃げ出したら——
物語は一気に“裏切りの悪女”になる」
「“人を飲み込む城の主”が、
気に入らないやつを片っ端から床に呑ませたら、
ただの怪物だ」
「でも、“歌えば国がひとつ消える女”が、
ぎりぎりのところで誰も殺さずに守り切った夜があるとしたら——」
ヴァルノは、意味ありげに片眉を上げました。
「その物語は、
きっと誰かにとって、
“世界は捨てたもんじゃない”って証拠になる」
「……」
「アンタが何を選ぶのかで、
世界がアンタをどう語るかが、少しだけ変わる。
それだけは、間違いないですよ」
私は、カップの中に残った最後の一滴を飲み干しました。
喉を通る温度を感じながら、
静かに息を吐きます。
(私という人間がどうであれ、“物語としての私”は世界を歩いている)
それは、怖くもあり、
少しだけ心強くもある真実でした。
私が眠っているあいだにも、
誰かの酒場で、
誰かの道端で、
「リヴィア」という名を持たない何かが歌われ、語られている。
それが完全に嘘であれば、
放っておけたかもしれません。
けれど、その噂の端々には、
「救われた」と感じた誰かの願望も、
「怖い」と震えた誰かの恐れも、
きっと混ざっているのでしょう。
(ならばせめて、その物語が——)
胸の中で、静かに言葉を組み立てます。
(誰かを絶望ではなく、希望へ向かわせるように。
自分の選ぶ行動だけは、間違えたくありませんわね)
私の在り方ひとつで、
噂がどちらの色に傾くかが、
少しだけ変わるのだとしたら。
“物語としての私”に追いつける自分でありたい。
そう思いました。
「——さて、と」
ヴァルノが荷物を担ぎ直しました。
「明日の朝には、また別の町へ向かわねば。
この辺境の話も、そのうち別の酒場で売り物にさせてもらいますよ」
「ほどほどになさってくださいませね。
あまり過激な尾ひれをつけられると、
こちらの胃が持ちませんから」
「過激なほうが、銅貨の入りはいいんですがねえ」
そう言いつつも、
ヴァルノの笑みはどこか悪意が薄いものでした。
「……ヴァルノ殿」
「なんでしょう」
「“白衣の守護者”とやらはともかく、
“歌えば国がひとつ消える女”という呼び名は——
できれば、もう少し控えめな表現に変えていただけません?」
「おや? 案外嫌いじゃない顔をしておられたように見えましたが」
「しておりません!」
思わず声を荒げてしまい、
マルコがまた腹を抱えて笑い出しました。
「でもよ、お嬢ちゃん。
“辺境に降りた小さな聖女”よりかは、
そっちのほうが性には合ってんじゃねえか?」
「……どちらかひとつ選べと言われたら、
確かに、まだ後者のほうがましですが」
「ほらみろ」
「そういう問題ではありません!」
自分でも、どこまで本気で怒っているのか分からなくなりながら、
私はため息をつきました。
ヴァルノは、出口へ向かいながら振り返ります。
「では、“白衣の守護者”と“人を飲み込む城の主”と、
“歌えば国がひとつ消える女”。
そのうち、どの呼び名が本当に似合うのか——」
彼は、いたずらっぽく目を細めました。
「これから先のアンタが、決めるんでしょうな」
返す言葉を探しているうちに、
扉は静かに閉じられました。
◆ ◆ ◆
集いの家を出ると、夜風が頬を撫でました。
見上げた空には、
星がいくつも瞬いています。
(私という人間より先に、“物語としての私”が世界を歩いている)
その事実は、
やはり少し怖くて——
でも、少しだけ心強くもありました。
噂が先に歩いてくれるからこそ、
無闇に近づいてこない敵もいるでしょう。
噂が先に歩いてしまうせいで、
私を“化け物”だと決めつける者もいるはずです。
それでも。
(噂がどれだけ先を走ろうとも、
せめて、その噂に追いつこうとする私でありたい)
「白衣の守護者」と呼ばれたなら、
その名を語る誰かが恥じないように——。
「人を飲み込む城の主」と囁かれたなら、
少なくとも“悪意ある者から守るための牙”であり続けるように——。
「歌えば国がひとつ消える女」だと歌われたとしても、
その歌の中で、誰かが生き延びて笑っていられるように——。
世界の噂話に負けないように、
今日も、目の前の一日を選び続けるしかありませんわね。
私はそう思いながら、
星空の下、邸へと続く道をゆっくりと歩き出しました。




