告白未遂
《灰牙》との戦いから、いくばくかの時が過ぎました。
焦げた家々の壁には、新しい板が打ちつけられ、
折れた柵の代わりに、まだ木の匂いの残る杭が並んでいます。
集いの家にはまた人が集まり、
学校の小さな黒板には、拙い文字がぎゅうぎゅうと並び始めていました。
兵たちの訓練も、
「いつ襲撃が来てもおかしくない」張り詰めたものから、
少しずつ「日常の鍛錬」へと色を変えつつあります。
大嵐のあとの、かすかな凪。
そう呼ぶのが相応しい空気でした。
◆ ◆ ◆
「それでね、わたし、おおきくなったらパン屋さんとけっこんするの!」
「ぼくは騎士! かっこいいから!」
学校の片隅で、子どもたちの声が弾んでいました。
授業の合間。
「自分の将来を言葉にしてみましょう」という、
若い騎士先生の無邪気な提案が、そのまま小さな夢の品評会になっているようです。
「パンが食べたいだけじゃないの?」
「いいの! 毎日あったかいパンがあるの、しあわせでしょ!」
黒板の前には、「将来の夢」と書かれた拙い文字。
その下に、「パン」「騎士」「商人」「お花屋さん」などと、
ぎこちない字で書き連ねられた板書が並んでいます。
私は教室の後ろのほうで、
ノートやチョークの残りを確認しながら、そのやり取りを何とはなしに聞いていました。
(いいものですわね)
小さく笑いながら、
「パン屋さんと結婚」が本当に叶うかどうかはともかく、
こうして自分の未来を口にできる余裕があることが、
何よりの贅沢に思えました。
「じゃあ、つぎ——」
若い騎士先生の視線が、ついとこちらへ向きました。
「リヴィア様は?」
「……はい?」
思わず顔を上げてしまいます。
「リヴィアさまの、しょうらいの夢!」
先ほどパン屋と結婚宣言をしていた女の子が、
目をきらきらさせてこちらを見ています。
「リヴィアさまは、だれとけっこんするの?」
「……っ」
持っていたノート束を、危うく落としかけました。
あわてて抱え直したものの、
腕の中で紙束が不自然に跳ねてしまい、
周囲の子どもたちが一斉に笑い出します。
「こら、急にそんなことを——」
騎士先生が慌てて制そうとしましたが、
子どもたちは容赦がありません。
「だって、リヴィアさまきれいだもん!」
「ぜったい、だれかとけっこんするでしょ!」
「レオンさんとだったらいいなー!」
「「あーーーー!」」
教室中から、妙な歓声が上がりました。
レオンの名前が出た瞬間、
空気が一段高く弾むのが分かります。
「だっていつもいっしょにいるし!」
「リヴィアさまをまもってるし!」
「ゆうべも、レオンさん、リヴィアさまのところに——」
「そ、それ以上は、お話しにならなくて結構ですわ!」
思わず声が裏返りました。
……どうやら、廊下で座り込んでいた私のところへ、
レオンが駆けつけてきたことは、
ほんのりとどこかから漏れ出していたようです。
(子どもは、本当に容赦がありませんわ)
頬が熱いのを誤魔化すように、
私は咳払いをひとつして、
できるだけ穏やかな口調を取り繕いました。
「わ、私の将来については……そうですわね。
まずは、この辺境がちゃんと平和になってから、ゆっくり考えることにいたしますわ」
「えー!」
「でも、レオンさんかなー!」
「しーっ、こら、静かに!」
騎士先生の慌てる声と子どもたちの笑い声が入り混じる中、
私はノートの山を抱えたまま、
そっと教室の外へ退散しました。
◆ ◆ ◆
廊下に出て、
窓から差し込む光を浴びた途端、
先ほどの言葉が改めて胸の中で響き始めます。
——リヴィアさまは、だれと結婚するの?
——レオンさんとだったらいいなー。
「……」
おかげで、心臓の鼓動まで早くなってしまったではありませんか。
(結婚、ですか)
今まで、考えていなかったわけではありません。
公爵家の娘として、領主として。
いずれ、政略も含めた婚姻の話が浮上するであろうことは、
とうに理解していました。
けれどこの数年、
私の頭の中のほとんどは、
領地のこと、奇跡の使い方、教会との関係、
ゲリラと盗賊と、そして——世界の外側のことに、占められていたのです。
自分自身の幸せ。
自分の人生。
そんな言葉は、どこか遠い場所に置きっぱなしにしていたような気がします。
(……いつか必ず、この人に)
廊下の突き当たりの窓から見える中庭に、
レオンの姿が見えました。
兵たちと、復興に駆り出されている村人たちの間を歩きながら、
誰かと二言三言、言葉を交わしている。
背筋を伸ばし、
真面目すぎるほど真面目な表情をしながら、
けれど相手が困っているときには、
さりげなく言葉を選んで笑いを混ぜるその姿が、
この辺境での私の「当たり前」になっていました。
何度も助けられたこと。
誰も死ななかった夜に、震える手を握ってくれたこと。
私が「怖かった」と言ったとき、
それを笑わず、「当然です」と受け止めてくれたこと。
それらが、胸の中で一列に並びます。
(いつか必ず、この人に、気持ちを伝えなければ)
このまま曖昧なままでは——
彼を、ずっと「役目」の中に閉じ込めてしまうかもしれない。
私の傍で戦うということは、
これからも危険に晒すことでもあります。
それでも共に歩んでほしいと願うなら、
せめて、その願いを言葉にする責任がある。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに形を取った気がしました。
◆ ◆ ◆
「リヴィア様、窓の外をご覧になって、何か——」
「ええ、少し。……それよりルーク、今夜の予定はどうなっておりますか?」
執務室に戻ると、書類の山を整理していたルークが、
不思議そうに首をかしげました。
「今夜ですか? 特筆すべき予定は——
復興関連の書簡が数通、明日の朝までの確認で問題ないものばかりです」
「でしたら、ひとつだけ……個人的な用件を入れても、よろしいかしら」
自分で言っておきながら、
「個人的」と口にした瞬間に頬が熱くなります。
ルークは一瞬だけ瞬きをしてから、
すぐにいつもの事務的な表情に戻りました。
「差し支えなければ、お聞きしても?」
「レオンを……いえ、レオン殿を、
今夜、塔の上にお呼びしたいのです。
少し、話したいことがありまして」
「塔の上、でございますか」
ルークの視線が、ほんのわずかに柔らかくなったような気がしました。
「かしこまりました。
それとなく伝えておきましょう。
——“個人的に少しお話があるそうです”と」
「…………っ」
言葉通りではありますが、
あまりにも核心を突いた言い方をされて、
思わず書類で顔を隠したくなりました。
「ル、ルーク。あまり変な含みを持たせないでくださいませね?」
「もちろんです。私は常に、最も正確で簡潔な伝達を心がけておりますので」
それが一番厄介だということを、
このときの私はまだ学びきっておりませんでした。
◆ ◆ ◆
日が傾き、
空が金色から橙、そして紫へと色を変えていく頃。
邸の片隅にある古い塔の階段を、
私は一段ずつ、慎重に上っていました。
(呼び出しておいて何をしているのです、私)
階段の途中で立ち止まり、
心の中で自分を叱ります。
塔の上は、辺境の町と、遠くの森と畑を一望できる場所です。
戦の前には見張り台として使われ、
平時には風を感じるための、ささやかな憩いの場にもなっていました。
夕焼けに染まる風景を眺めるには、
これ以上ない場所です。
……告白の舞台としても、きっと。
(何を言うのかは、決めているはずですわ)
いつものように、
彼への感謝を伝えればいい。
それに、少しだけ。
「公爵令嬢」ではなく、「ひとりの女」としての私の気持ちを、
付け足せばいいだけの話。
頭では分かっているのに、
足取りは妙におぼつかないまま、
ようやく塔の最上階へとたどり着きました。
扉を押し開けると、
夕風が頬を撫でます。
空は、燃えるような橙と、
夜の始まりを告げる藍色のあいだで揺れていました。
まだ誰もいません。
胸を押さえながら、
私は塔の縁の低い壁に近づきました。
遠くを見るふりをしながら、
実際には心の中の混乱を整えるのに必死です。
(今ならまだ、「やっぱり用件はありませんでした」と言えますわよ)
そんな卑怯な声が、
頭の隅で囁きました。
けれど、階段を上ってくる足音が聞こえた瞬間、
その逃げ道は、あっさりと塞がれます。
規則正しく、落ち着いた足音。
耳に馴染んだリズム。
扉が軋み、小さく開きました。
「リヴィア様」
「……レオン」
夕陽を背負って立つ彼の姿は、
いつもより少しだけ柔らかく見えました。
「お呼びと聞きまして。
お体の具合に、何か——」
「いいえ。体調は問題ありません。
ただ、少し……お話ししたいことがあって」
自分で呼び出しておいて、
ここまでぎこちない出だしになるとは思いませんでした。
レオンは首を傾げながらも、
私の近くまで歩み寄り、壁に手を置きます。
視線の先には、沈みかける太陽と、
その光を受ける村の屋根々々。
「復興は、順調です」
レオンが先に口を開きました。
「修繕の終わった家も増えましたし、
兵たちも、ようやく“平時の感覚”を取り戻しつつあります。
あの夜のことを笑い話にできる日も、そう遠くはないでしょう」
「……そうですわね」
風が、二人の間を抜けていきます。
「学校のほうは?」
「子どもたちは元気そのものですわ。
……少々、元気が良すぎるところもありますけれど」
先ほどの「無邪気爆弾」を思い出し、
思わず頬が熱くなりました。
「?」
レオンが怪訝そうにこちらを見ます。
「何か、ありましたか」
「い、いえ。少し……失礼な質問をされまして」
「失礼な質問?」
「その……将来、私が誰と結婚するのか、などと」
「…………」
レオンの表情が、一瞬固まりました。
沈黙。
夕風だけが、衣擦れの音をさらっていきます。
「子どもは本当に、容赦がありませんわね」
苦笑混じりにそう言うと、
レオンはわずかに視線を落とし、
それから、いつもの真面目な顔つきに戻りました。
「……そういうことを考える年頃なのかもしれません」
「ええ。そうなのだと思います」
私もまた、「そういうこと」を、
ようやく真面目に考え始めた年頃なのかもしれません。
胸の鼓動が、少しずつ強くなっていくのが分かりました。
今なら言える。
この流れなら、きっと——。
「レオン」
自分の声が、
いつもより少しだけ低く、
かすかに震えているのを自覚します。
「はい」
彼は真っ直ぐにこちらを見ました。
夕焼けの光が、
彼の瞳に薄く映り込んでいます。
「その……あなたがいてくださったから、
私はここまで来られました」
「私は、なすべきことをしているだけです」
いつもの返答。
けれど、今はそれが少しだけ、
胸に痛く響きました。
「いいえ。
あなたが“いてくださる”ことそのものが、
私にとっては、とても大きな——」
言葉が、喉のあたりで絡まります。
(言ってしまえばいいのです)
この先、また大きな戦いが来るかもしれません。
教会との対立も、
他国からの視線も、
世界の外側から覗いてくる“何か”も。
そのたびに、レオンは私の隣に立ってくれるのでしょう。
だからこそ——。
「もし、私がただの女として、あなたに——」
そこまで言いかけた瞬間、
頭のどこかで、別の声が囁きました。
——今、これを口にしたら。
彼に背負わせるものが、
またひとつ増えてしまうのではないか。
公爵令嬢としての私。
領主としての私。
奇跡を行使する者としての私。
それだけでも、十分すぎるほど彼を縛っているのに。
そこへ「ひとりの女」としての私まで、
彼の肩に預けてしまったら。
まだ戦いは終わっていないのに。
まだ守らなければならないものが山ほど残っているのに。
——それは、あまりにも卑怯なのではないか、と。
喉元まで来ていた言葉に、
内側からそっと鍵がかかります。
口を開いたまま、声だけが消えていく。
胸の奥がきゅっと痛む感覚に、
思わず指先に力を込めました。
レオンが、静かにこちらを見つめています。
続きを待つように、
せかさず、遮らず。
だからこそ、
なおさら。
「……いえ」
私は、息をひとつ飲み込んでから、
別の言葉を選びました。
「いえ、今は、とにかく領地を守ることが先ですわね」
自分で口にしながら、
その言葉がどれほど都合の良い逃げ道になっているか、
痛いほど分かっていました。
それでも、選んでしまったのです。
レオンは、一瞬だけ目を伏せました。
その横顔が、
ほんのわずかに寂しそうに見えたのは——
私の気のせいでしょうか。
「……ええ」
それでも彼は、いつも通りの声音で答えます。
「今はまだ、危険が去ったとは言えません。
守るべきものを守りきるまでは、
私も“騎士”であり続ける必要があります」
「そうですわね」
風が、髪を揺らします。
夕陽は、もうほとんど地平線の向こうへ沈みかけていました。
空の端に残った光だけが、
惜しむように塔の縁を照らしています。
(言葉は喉元まで来ていて、
あとは外へ押し出すだけなのに)
胸の中で、静かに思いました。
(私の中の“領主としての私”が、
その扉にそっと鍵をかけてしまったのです)
それが正しいのか、間違っているのかは分かりません。
ただ、今の私には——
彼に、「私」という重荷をこれ以上背負わせない選択を、
選ぶことしかできませんでした。
それでも。
その選択をした自分を、
責めることだけは、どうしてもできません。
戦場で誰も死なせなかった夜と同じように。
あのとき私が全力で走ったことを、
たとえ世界のバランスを狂わせていたとしても、
「間違いだった」と言い切れないように。
今の私は、
この未遂の告白を、
「臆病だった」とだけ切り捨てることができませんでした。
「レオン」
「はい」
「これからも——
しばらくのあいだは、どうか隣で、
“騎士”としていてくださいます?」
ほんの少しだけ、
言葉に甘さを混ぜてしまったのが、自分でも分かりました。
レオンは、一拍だけ間を置いてから、
静かに頷きます。
「はい。
リヴィア様がここに立たれる限り、
私は何度でも、その隣に立ちます」
それが、
今の私たちにとっての精一杯なのだと思いました。
塔の上に、夜風が吹き抜けてきます。
遠くで、村の灯りがひとつ、またひとつとともり始めていました。
言えなかった言葉たちが、
喉の奥で丸くなって、
胸の中に沈んでいきます。
いつか、また——
この塔の上で。
その丸い塊を、
そっと外の世界へ差し出せる日が来るのでしょうか。
今はまだ、その答えを持たないまま。
私は、隣に立つレオンと同じ景色を見つめながら、
静かに夜の訪れを待ちました。




