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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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レオンの手

 その夜、辺境は祝宴の音に包まれていました。


 遠くの酒場からは、酒瓶を打ち鳴らす乾いた音と、

 がなり立てるような歌声が、風に乗って聞こえてきます。

 どこかの広場では、子どもたちがまだ眠りたくないと駄々をこねているのでしょう。

 笑い声と、泣き笑いの声と、安堵のため息。


 ——誰も死ななかった夜。


 その事実が、人々の喉と胸の中で何度も転がされ、

 歌になり、酒になり、笑顔になっていました。


 けれど、邸の一室に閉じこもる私の机の上には、

 歌声の代わりに、血と泥の匂いがまだ残っています。


 負傷者リスト。

 家屋の損壊状況。

 仮設の寝床の数。

 明日からの配給予定表。


 書類の上を、私の手が震えながら滑っていました。


「……」


 ペン先が紙をなぞるたびに、

 細い黒い線が、かすかに蛇行します。


「……あら」


 「重傷者」という文字の三画目あたりで、

 ペン先が紙を引っかき、インクがぽたりと垂れました。


 じわ、と黒い染みが広がっていくのを、

 ぼんやり眺めてしまいます。


(いけませんわね)


 苦笑しようとしても、頬の筋肉がうまく動きません。


 指先に力を込めようとすると、

 自分の指ではないような、頼りない感覚だけが返ってきました。

 冷たい。

 血が通っていないみたいに。


「……後で、写し直さなければ」


 ひどくぐにゃぐにゃになった文字の並ぶ書類を見て、

 そんなことを思ってしまうあたり、

 我ながらつくづくどうかしていると思います。


 皆が外で笑っているのに、

 私はこうして、震えた手で帳簿と向き合っている。


 皆が「生きている」ことを確かめ合っているのに、

 私は「もし死んでいたら増えていたはずの数字」を、

 頭の片隅で計算してしまっている。


 ペンを置きました。

 深く息を吸って、吐いて、それでも胸の奥の締めつけは弱まりません。


(……少し、歩きましょうか)


 椅子から立ち上がるとき、

 膝の裏が、わずかに笑いました。


◆ ◆ ◆


 廊下には、柔らかな灯りが一定の間隔で灯っていました。


 窓から差し込む月明かりと、壁の燭台の光が混ざり合い、

 石の床の上に薄い影をいくつも重ねます。


 遠くで兵たちの笑い声がしたかと思えば、

 すぐに静寂がその隙間を埋めていく。


 靴音が、自分のものとは思えないほど大きく響きました。


 歩いているつもりなのに、

 一歩ごとに身体がわずかに揺れる。

 足首から先の感覚が、どこか遠い。


 廊下の中ほどまで来たところで、

 ふと、視界の端がかすみました。


(あら)


 軽いめまい。

 歩幅がうまく合わず、

 壁までの距離を見誤ります。


 とっさに片手を突き出し、

 冷たい石の壁に掌を押し当てました。


 石の感触が、驚くほど現実味を帯びて伝わってきます。

 冷たさ。固さ。そのはずなのに——

 私の手のほうが、よほど冷えているようでした。


 膝から力が抜けていく感覚に、

 抵抗する気力が追いつきませんでした。


 ずるずると、背中が壁を滑り落ちていきます。

 裾を気にする余裕もなく、

 結局、そのまま床に腰をおろすような格好になっていました。


「……今になって怖くなるだなんて」


 小さく息を吐きます。


「ずいぶん格好の悪い、公爵令嬢ですわね」


 戦っている間は、怖がる暇なんてありませんでした。


 叫び声。

 炎。

 折れた槍、飛び散る血。

 倒れる人、伸ばされる手。


 そのたびに、考える前に身体が動いていました。

 「次」「次」と、

 倒れている人の元へ、ただ走るしかなかったからです。


 だからこそ——今になって。


 誰も死ななかったと知って、

 皆が笑って、泣いて、抱き合って。


 その安堵がようやく胸に届いてしまった今になって、

 遅れてやってくる恐怖の重さに、膝が耐えきれなくなったのだと分かっていました。


 それでも、情けないものは情けないのです。


 誰もいない廊下で、

 ひとりきりで震えている自分を自覚してしまえばなおさら。


 息を吸うたびに、肺の奥がぎゅっと縮むようでした。

 指先どころか、腕全体が細かく震えて、

 胸の前で抱きしめても、その震えは止まりません。


(今だけ、誰にも見られませんように)


 そんな都合の良い祈りを、

 心の中でこっそりと唱えた、そのときでした。


 ——足音。


 規則正しく、しかし私の耳には妙に大きく響きます。


 反射的に顔を上げると、

 暗がりの向こうから、見慣れた背の高い影が近づいてくるのが見えました。


「……リヴィア様?」


 レオンの声でした。


 灯りの届く場所に足を踏み入れた彼が、

 床に座り込んでいる私を見て、一瞬だけ目を見開きます。


 すぐに表情を整えたものの、

 わずかに走った驚きは、私にははっきり見えました。


「……夜の見回り、ですの?」


 声を出そうとして、

 自分の喉から出た音が、情けないほど掠れているのに気づきました。


 「大丈夫です」と言いたかったのに、

 その言葉はうまく形にならず、舌の上で崩れてしまいます。


「兵たちの様子を見て回っていました」


 レオンはそれだけ答えると、

 迷いなくこちらへ歩み寄ってきました。


「お手を——」


 そう言いかけて、彼は眉をひそめます。


 私が胸の前で固く抱きしめていた両手の震えが、

 灯りの下ではっきりと見えてしまったのでしょう。


 手袋越しにも分かるほどの、小刻みな震え。


 レオンは、何も言いませんでした。


 ただ、しゃがみこんで私の隣に腰を下ろすと、

 自分の手袋を外し、

 そっと、私の手を取ったのです。


「あ……」


 冷え切っていた指先が、

 温かい何かに包まれました。


 彼の手は、戦場を駆け回ってきたはずなのに、

 不思議と火照り過ぎてはおらず、

 ただ、じんわりとした熱を宿しています。


 その温かさが、

 薄い布越しに、じくじくと染み込んでくるようでした。


「酷く、冷えています」


 囁くような声。


「戦闘中は、気づきませんでしたわ」


 自分の声もまた、

 囁きのように細くなっていました。


 レオンは、私の手を両手で包むようにして、

 軽く摩るように親指を動かします。


 その単純な動きが、

 あまりにも丁寧で、

 胸の奥がじわりと熱くなりました。


 しばらくのあいだ、

 私たちは何も話しませんでした。


 廊下には、

 風の音と、遠くの笑い声と、

 二人分の静かな呼吸だけが、混じり合っています。


 やがて、レオンがぽつりと口を開きました。


「怖かったのですね」


 責めるでも、哀れむでもない声音でした。


 ただ事実を確認するような、

 それでいて、そっと寄り添うような響き。


 胸の奥に取り繕っていた何かが、

 そこでふいにほどけてしまいます。


「……ええ」


 言葉は、それだけでした。


「ええ、とても」


 声に出してしまうのが怖くて、

 けれど、言葉にしなければ届かない気がして。


 だから私は、

 自分の弱さを、

 そのまま音にしてしまいました。


 レオンは、それ以上何も言いませんでした。


 「大丈夫です」とも、「強いですね」とも、

 「もう心配いりません」とも、言いませんでした。


 ただ、手を離さず、

 少しだけ指先に力をこめる。


 その沈黙が、

 どんな慰めの言葉よりも、

 今の私には優しく響きました。


(誰も死ななかった夜に、

  私だけが震えているのだと思っていました)


 胸の中で、そっと呟きます。


(でも——)


 この人は、笑わずに、責めずに、

 その震えごと受け止めてくれている。


 誰も死ななかった夜に、

 ようやく追いついてきた恐怖を、

 「弱い」と切り捨てるのではなく——

 そこにいる私ごと、包んでくれる手が、

 すぐ隣にあったのです。


 どれくらい、そうして座っていたでしょうか。


 指先から、少しずつ感覚が戻ってくるのが分かりました。

 震えは完全には収まらないものの、

 さっきまでのような、骨の芯からくる冷えは薄らいでいます。


「……レオン」


 小さく名前を呼ぶと、

 「はい」と、変わらぬ声が返ってきました。


「ありがとうございます」


 視線を合わせるのが、

 少しだけ恥ずかしくて。


 私は前を向いたまま、

 言葉だけをそっと差し出しました。


 レオンはわずかに目を細め、

 握っている手に、もう一度だけ力をこめます。


「当然のことをしただけです」


「いいえ。

  当然のことを、当然のようにしていただけるのは……贅沢なことですわ」


 そう言ったら、

 自分でも少し、おかしな言い回しだと思って、

 ふ、と小さく笑ってしまいました。


 その笑いが、ようやく自分のものとして胸に響きます。


「……あの」


 震えがかなり落ち着いてきたことを確かめてから、

 私は思いきって口を開きました。


「もう少しだけ、このままでいても……よろしいでしょうか」


 自分で言ってから、

 耳まで熱くなっていくのが分かりました。


 言葉の選び方も、声の高さも、

 どれもが自分らしくなく思えて、

 逃げ出したくなるほど気恥ずかしい。


 けれど、手は離さないでいてほしくて。


 沈黙が、ほんの一瞬だけ落ちました。


「もちろんです」


 レオンの返事は、驚くほどあっさりしていました。


「私の巡回は、少し遅れても構いません」


「そんな……」


「今夜くらいは、皆、歩き回らなくても眠れるでしょう」


 相変わらずの口調で、

 当たり前のようにそう言ってくれるから。


 私は、胸の真ん中に溜まっていた石のようなものが、

 少しずつ小さくなっていくのを感じました。


 廊下の窓の外では、

 月が雲間から顔を覗かせています。

 さっきまで聞こえていた歌声も、

 だいぶ数を減らしてきました。


 夜が、ようやく本来の静けさを取り戻していく。


 私は、その静けさの中で、

 レオンの手の温かさに身を預けました。


 震えが完全に止まるまで——

 もう少しだけ、

 誰にも見られないところで、格好の悪いままでいられるように。


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