カタリナとの邂逅
その書簡が届いたのは、
いつも通りの朝の執務に追われていた、静かな時間帯のことでした。
「リヴィア様。差出人不明の書簡が、一通」
ルークが銀盆に乗せて持ってきた封筒は、
王都の公文書よりもずっと簡素で、しかし妙に手慣れた封の仕方をしていました。
安い紙。けれど、無駄のない折り目。
封蝋も紋章ではなく、無地の赤。
(……赤、ですのね)
私の胸の中で、小さな仮説が浮かんで、ゆっくりと形を取っていきます。
「どこから届いたものか、分かります?」
「途中で何度も手を渡っているようです。
最初の差出人を辿るのは、ほぼ不可能かと」
ルークは、申し訳なさそうに首を横に振りました。
私は頷き、そっと封を切ります。
中の紙には、丁寧とも乱雑とも言えない、
しかし一筆一筆に迷いのない文字が並んでいました。
『辺境の公爵令嬢殿へ。
あなたの行いが本物かどうか、この目で確かめたい者がいる。』
『民の前で取り繕う必要のない場所で会おう。
城でも教会でもなく、森の奥で。』
『来るも来ないも、あなたの自由だ。
ただし——来ないのなら、こちらにも“こちらのやり方”がある。』
署名はありません。
けれど、
文の端々に滲む癖と、飾り気のなさと、
わざと丁寧な言葉遣いを選んでいるのが透けて見えるところに——
(……あなた、ですのね。カタリナ)
私は、そっと息を吐きました。
◆ ◆ ◆
「罠の可能性が高すぎます」
書簡を読み終えた私に、
レオンの言葉は、ほとんど反射のように飛んできました。
「森の奥、場所は向こう指定。
護衛を連れていくにしても、伏兵を仕掛けられやすい地形です」
「もちろん、承知しておりますわ」
「ならば——」
「それでも、行きたいのです」
私が遮ると、
レオンはぴたりと言葉を止めました。
その沈黙が、かえって苦しいものです。
「このまま、一方的に“テロリスト”と決めつけてしまうのは簡単ですわ」
私は手紙を畳み、机の上に置きました。
「あの赤い旗を掲げた人々が、何を憎み、何から逃げて、
どこに行き場所を作ろうとしているのか——
誰からも直接、聞かないまま」
それは、私にとって、
“救えなかった人々”をもう一度見捨てることにも似ている気がしたのです。
「本当に守るべき相手を間違えたくありません」
「……」
「もちろん、城を空にする気はありませんわ。
護衛は最小限、あなたにも来ていただきます。
正面から乗り込むほど無謀ではないつもりですの」
レオンは長い沈黙のあと、
深く息を吐きました。
「本心を申し上げれば、今すぐこの書簡を暖炉にくべたいところです」
「それは、少しもったいないですわ。
燃やしてしまうには、なかなかに興味深い挑戦状ですもの」
「挑戦状と受け取ってしまわれる時点で、十分に危険です」
呆れたような、
けれどどこか諦め半分の声音。
「分かりました。
……お連れいたします。その代わり、条件をひとつ」
「何かしら?」
「森の中では、必ず私の視界から外れないでください。
それが守れないなら、この話はここで終わりにします」
真剣な灰色の瞳が、
まっすぐこちらを射抜いてきます。
「……善処いたしますわ」
「善処ではなく、厳守をお願いします」
「努力はいたします」
そこで、彼は観念したように目を伏せました。
護衛の人数を決め、出発時間を決める。
淡々とした打ち合わせの最中——
私は、なぜだか何度も手袋の位置を直している自分に気づきました。
「リヴィア様。
手袋は、十分きれいに見えます」
「……そう見えます?」
「はい」
レオンの言葉に、
なんとなく顔が熱くなるのを感じて、
私は慌てて視線を逸らしました。
(緊張しているのは、私のほうなのですね)
◆ ◆ ◆
指定された森は、
城からそう遠くない、
しかし人の手があまり入っていない一帯でした。
木々は高く、
枝が空を覆い隠すように広がっている。
足元は柔らかい土と落ち葉。
小鳥の声さえ、どこか遠くに聞こえます。
「ここまでは異常なし」
前を行く騎士が合図を送ってきました。
護衛は、レオンを含めて四人。
私を中心に、ゆるく円を描くように配置されています。
その輪の内側で——
私は、手袋の縫い目をまたいじっている自分に、
小さく苦笑しました。
「落ち着いておられますか」
「ええ。
……落ち着いております、たぶん」
「たぶん、ですか」
レオンがわずかに口の端を上げます。
「森の中で転ばないよう、足元にもお気をつけください」
「それは、刺客よりも身近な敵ですわね」
そんな他愛ないやり取りをしていると、
前を歩いていた騎士が、ふいに手を上げました。
「止まれ!」
私たちは一斉に足を止めます。
木々の間。
少し開けた場所の中央に、
ひとりの影が立っていました。
赤い布切れを肩に巻き、
粗末だが実用的な革鎧。
腰には剣、背には弓。
長い髪は、無造作に束ねられていて——
しかし、その立ち姿には奇妙な品の良さがありました。
元貴族か、元兵士か。
あるいはその両方か。
私がそんなことを考えていると、
彼女はゆっくりとこちらに歩み寄り、
私を真正面から見据えました。
「……思ったよりも、“普通の娘”だな」
森の空気を切り裂くような、低く、よく通る声。
その第一声だけで、
この人が、自分の正義を一切恥じない人間なのだと分かりました。
「ご挨拶、ありがとうございます」
私は、ドレスの裾を指先でつまみ、軽く礼をしました。
「辺境公爵家当主、リヴィア・フォン・——」
「名乗りはいらない」
カタリナは、それを遮ります。
「貴族の名前には、ろくな思い出がない」
「そうですの」
「ただ——」
彼女の視線が、私の手元に落ちました。
「貴族にしては、綺麗な指だ」
皮肉とも、本心とも取れる声音。
私は一瞬、返す言葉に詰まりました。
(綺麗な指、ですか……。
剣だこもなく、鍬を握った跡もない。
そう言われてしまえば、その通りで)
ぐっと喉の奥で沸き上がるものを飲み込んで、
私は、ゆっくり息を吐きます。
「あなたが——《赤い風》の頭領、カタリナですのね」
「そう呼びたければ呼べばいい」
カタリナは肩をすくめました。
「こっちからすれば、あんたも“奇跡の公爵令嬢”とやらだ。
名を呼ぶたび、虫唾が走る」
「それは手厳しい評価ですこと」
「貴族にしては、頑張っている、とは思っている」
さらりと続いた言葉に、
私は目を瞬きました。
「……それは、褒めてくださっているのかしら」
「貴族に褒め言葉なんて、もったいない」
カタリナは、わずかに口元を歪めました。
「ただ——
あんたの名前は、焼けた村で一度くらいは出る。
“あの公爵令嬢のおかげで助かった”って声も、
“どうせいつか見捨てられる”って声も、両方な」
「ええ。そうでしょうね」
私は、その現実から目を逸らすつもりはありませんでした。
◆ ◆ ◆
「で?」
短い沈黙のあと、
カタリナが、ぐっと一歩こちらに近づきました。
「わざわざ罠かもしれない場所に来るなんて、
どういう風の吹き回しだ? 貴族様」
「あなたが“罠かもしれない”とわざわざ書いてきたからですわ」
「そんな文面、どこにも書いてない」
「“来ないのなら、こちらにもこちらのやり方がある”——
十分な挑発ですわ」
彼女の眉が、わずかに上がりました。
「本物かどうか、この目で確かめたいとおっしゃったのでしょう?
でしたら、こうして顔を出すのが礼儀かと思いまして」
「礼儀ね」
カタリナは、鼻で笑います。
「いいさ。
じゃあ、見せてもらおうか。
あんたの、その“貴族の正義”とやらを」
――それからしばらくの間、
森の中には、言葉と息遣いだけが響く時間が続きました。
「貴族は、構造的に民を搾取する側に立つ」
カタリナの声は、鋭い刃物のようでした。
「生まれたときから、そう決まっている。
税を取り、領地を食い物にし、
“守ってやっている”と恩を売る」
「否定は、いたしませんわ」
私は静かに頷きました。
「多くの貴族は、そうしてきたのでしょう。
今もそうしている者が大勢いるのも、知っています」
「なら話は早い」
カタリナは、木の幹に片手をつきました。
「私は、そういう構造そのものを壊したい。
貴族も領主も、全部。
あんたの椅子も、例外じゃない」
「壊したあとに、何を据えるおつもりかしら?」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
ぴしゃり、と。
その一言は、
自分の弱さを突かれたように胸に刺さります。
けれど——。
「制度の中でしか守れない命もあります」
私は、一歩も引かずに言い返しました。
「今この瞬間にも、
私の名前を出して税を減免される人がいて、
集いの家で今日をやり過ごしている人がいます」
「それは全部、“あんたがいる間だけ”の話だ」
カタリナの瞳が、鋭く光りました。
「貴族は代替わりする。
あんたが死ぬか、どこかに嫁ぐか、失脚すれば——
次の奴が、また好き勝手するだけだ」
「だからこそ、
今生きている私が、できるだけ“ましな”形に近づけておきたいのです」
それは、言い訳なのか。
それとも、本心なのか。
自分でも時々分からなくなる言葉を、
私は、それでも口にします。
「私が今すぐすべてを壊せば、
救われる前に死ぬ人が増えるだけですわ」
「“今生きている人”だけ助けて、
その先を考えるのは誰の役目だ?」
「それを考えてくださる方が現れるなら、
私は喜んで席を譲ります」
「綺麗事だな」
カタリナは、肩を揺らしました。
「そうかもしれませんわ」
自嘲気味に笑うと、
彼女の目が、一瞬だけ細くなりました。
「……あんた」
「はい?」
「本当に、貴族か?」
「残念ながら」
肩をすくめてみせると、
カタリナの口元に、わずかな苦笑が浮かびます。
「だったらやっぱり、あんたも“同罪”だ」
その一言が、
森の空気をまた少し、冷たくしました。
「制度を温存する限り、
あんたがどれだけ善人でも、結果は同じだ」
「私が、制度そのものを守りたいと思っていると?」
「違うのか?」
「守れる命を、守りたいのです」
少しだけ、声が強くなってしまいました。
「この領地で生きる人たちを、
飢えと戦と、理不尽な搾取から。
それが“貴族”という椅子を使ったほうが早いなら、
私はその椅子を使います」
「その椅子ごと、ひっくり返そうとしているのが、私だ」
カタリナは、静かに告げました。
「貴族という椅子がある限り、
そこに座りたい奴は絶えない。
“あんたみたいな例外”を前に出して、
他の連中が隠れる。
私はそれが嫌なんだ」
「私が例外であることは、
否定できませんわね」
「自覚があるなら話が早い」
カタリナは、くるりと背を向け、
少し歩いてから振り返りました。
「——あんたの言いたいことは分かった」
その声には、
先ほどまでの刺々しさとは少し違う響きが混じっていました。
「だが、私はあんたのやり方を認めない」
「でしょうね」
「私は壊す。
あんたは好きに直せばいい」
唐突で、乱暴で、
けれど妙に筋の通った言い回し。
それが、彼女らしいのだと、
なぜだかすんなり受け入れてしまう自分がいました。
「あなたの怒りと、
あなたが守ろうとしている人々の存在は、理解しました」
私もまた、背筋を伸ばして言います。
「けれど——そのやり方で、
あなた自身が壊れてしまわないことを祈りますわ」
カタリナの瞳が、わずかに揺れました。
それは怒りか、侮蔑か。
あるいは、もっと別の何かなのか。
「祈りなんて、もうとうに捨てた」
彼女は吐き捨てるように言い、
くるりと背を向けました。
こちらも同じように背を向ける。
互いに、一歩、二歩と距離を取って——
本当はどちらも、
振り返りかけた足を、
ぎりぎりのところで踏みとどまらせているのだと、
なぜか分かってしまう。
そんな、奇妙な瞬間でした。
◆ ◆ ◆
森を出て、
視界が開けたところでようやく、
私は深く息を吐きました。
「お怪我は」
「ありませんわ。
転びもしませんでした」
「それは何よりです」
レオンの安堵の笑みを見て、
私も少しだけ肩の力を抜きます。
馬に乗り、
森を背にしたあとも——
カタリナの背中が、どうにも頭から離れませんでした。
(彼女はきっと、私が憎むべき“敵”なのでしょう)
貴族制度そのものを壊すと言い切り、
私の椅子をも例外にしないと言い放つ人。
そのやり方は、
この領地を守ろうとする私にとって、
あまりにも危険で、
あまりにも受け入れがたいものです。
(それでも——)
森の中で見た、
彼女の立ち姿と、
まっすぐに向けられた憎しみと。
その奥にちらりと覗いた、
壊された何かを抱きしめ続けているような、
痛々しいほどの誠実さを。
私は、忘れられそうにありませんでした。
『私が壊す。あんたは、それを直そうとすればいい』
(彼女の背中を、
誰かが“正義”と呼ぶ未来も、
どこかで想像してしまうのです)
正義と正義がぶつかるとき、
どちらかが“悪”として語られる。
もしこの物語を、
誰かがどこかで歌にするのなら——。
(彼女と私のどちらが“悪役”にされるのかしら)
そんなことを、
ふと考えてしまう自分が、
少しだけおかしく、
そして少しだけ、心細く思えました。




