精霊王の嫉妬
第十一話「精霊王の嫉妬」
その夜、私は、
久しぶりに「一人で立っている」夢を見ました。
◆ ◆ ◆
「……はあ」
集会が終わったあとも、
その余韻はなかなか胸から離れてくれませんでした。
机の上には積み上がった書類。
明日の学校の確認事項。
マルコからの報告書。
王都から回ってきた、教会本部宛ての返書の控え。
どれも、必要なもの。
どれも、私にしか目を通せないもの。
けれど、今の私には――
どれ一つとして、文字として頭の中に入っていきませんでした。
「今日はもうよろしいでしょう」
レオンが静かにそう言って、
書類をそっと閉じました。
「続きは明日も逃げません」
「……そうですわね」
本当に逃げてくれるなら、
少しは楽なのですけれど。
そんな弱音を飲み込んで、
私は椅子から立ち上がりました。
自室に戻り、
侍女に髪をほどいてもらいながら、
ぼんやりと天井を見上げます。
「今日は、よくお休みになれますよ」
「そう思えるなら、どれほど良いかしら」
軽い冗談のつもりで口にした言葉が、
思ったよりも掠れて聞こえました。
侍女が心配そうな目を向けてきたので、
私は慌てて笑みを作ります。
「冗談ですわ。少し疲れているだけですから」
「お茶をお持ちしましょうか?」
「いいえ、大丈夫。
横になれば、すぐに眠れると思います」
――本当は、寝つけないかもしれない。
そう思っていたのに。
柔らかな寝間着に袖を通し、
ベッドに身を沈めた瞬間、
私はほとんど、世界の重さごと落ちていきました。
◆ ◆ ◆
次に目を開けたとき、
そこは、私の寝室ではありませんでした。
白い――と表現していいのかどうかすら迷う、
不思議な空間。
床とも、天井ともつかない余白が、
遠くまで、淡い光をたたえて続いています。
あるいは、
霧のような光が満ちた、
静まり返った古い森の中、と言ったほうが近いでしょうか。
足もとは確かに何かを踏んでいるはずなのに、
靴の感触はありません。
寝間着姿のまま、
私はぽつんと立っていました。
「……あら」
夢だ、と理解するまでに、
そう時間はかかりませんでした。
そして同時に、
ここが「ただの夢」ではないことも。
空気が、ふっと張り詰めます。
温度も、風もないのに。
視界の端が、ゆっくりと色づいてゆきました。
「また少し、痩せたな」
どこからともなく響いた声に、
肩がびくりと震えました。
振り返るよりも先に、
彼の気配が、すぐ近くに降り立つのを感じます。
「……お久しゅうございます、精霊王様」
気づけば私は、
いつもの癖でスカートの裾をつまみ、
礼をしようとしていました。
――スカートも何も、
今の私は寝間着姿ですのに。
「ここはお前の寝間着の続きだ」
苦笑にも似た声音が、
私のその仕草を制しました。
「そんな形ばかりの礼は要らぬ」
顔を上げると、
そこには、あの日と同じ――けれど、
どこか少しずつ違って見える姿が立っていました。
男とも女ともつかない、
均整のとれた美しい輪郭。
髪とも光とも判別できないものが、
肩から背へと流れ落ちています。
何より、目。
深い湖の底とも、
夜空にぽっかりと開いた穴とも言えない、
人の色をしていない瞳が、
まっすぐに私だけを見ていました。
「……お加減はいかがですか?」
こんな夢の中で、
なにを聞いているのでしょうね、私は。
自分で自分に呆れながらも、
問いかけずにはいられませんでした。
「変わらぬ。変わらないからこそ、こうしてまた見る」
精霊王は、
どこか拗ねたように目を細めました。
「お前のほうはどうだ」
「私、ですか?」
「痩せたと言ったばかりだ」
「それは、その……色々と、ありまして」
「知っている」
その一言に、
心臓が一度、大きく跳ねました。
「人間どもが、お前に祈りを積み重ねている」
「教会とやらは、
お前の力を帳簿に綴じ込もうとしている」
「隣の国は、お前を値踏みしている」
淡々と並べられる事実に、
背中に冷たいものが伝います。
「そして、お前は」
精霊王の視線が、
私の両手に落ちました。
「今日もまた、誰かのために指を擦り切らせる」
その声音には、
怒りとも、呆れともつかない感情が滲んでいました。
「……怒って、おいでですの?」
「当然だろう」
彼は、ため息を吐くように言いました。
「我が選んだ器が、
勝手に痩せ細っていくのだ」
「人間ごときの祈りや、
恨みや、噂や、
くだらぬ帳簿の数字などのために」
白い空間の空気が、
わずかにざわめきます。
「お前は、なぜそこまで人間に肩入れする」
静かな問いかけでした。
「人は恩を忘れ、力を求め、
最後にはお前をも利用する」
「それでも――」
精霊王は、
ほんの少し身をかがめて、
私の目線に合わせるように顔を近づけました。
「それでも、まだ守るか」
その瞳には、
純粋な「問い」がありました。
私を責める色でも、
試すような悪意でもなく。
ただ、理解できないものを、
理解しようとする者の目。
だから私は、
息を吸い、
ゆっくりと答えました。
「ええ」
迷いのない声で。
「たとえそうだとしても、守りたい人がいるのです」
「私を利用しようとする人もいるでしょう」
「恩を忘れてしまう人も、
きっと、いるでしょう」
「それでも――」
脳裏に浮かびます。
教室で、自分の名前を書いて見せてくれた子ども。
焦げた畑の土の上で、泣きながら芽を撫でていた農民。
集いの家の片隅で、「ここは息がしやすい」と笑った人。
「あなたが嫌いな人間の中にも、
きっと好きになれる者がいると、
私は信じたいのです」
精霊王の目が、
わずかに細くなりました。
「……相変わらず、頑固なことだ」
低い声が、
苦笑のように震えます。
「我が世界を嫌おうと、
何を憎もうと、
お前はそれを否定しない」
彼は視線を少し逸らし、
空虚な空間のどこかを見つめました。
「人間が嫌いだと言えば、
そうですか、と頷く」
「教会がくだらぬと言えば、
きっとそうなのでしょうね、と笑う」
「隣国が浅ましいと吐き捨てれば、
そういうところもあるでしょう、と認める」
「それでいて――」
再び、私を見つめます。
「お前だけは、
世界を“嫌いになろうとしない”」
その声音には、
言葉にしがたい苛立ちと、
それ以上の何かが混じっていました。
「あなたが世界を嫌ってもかまいません」
私は、そっと言いました。
「その代わり――」
胸に手を当てます。
「私が、少しだけこの世界を好きでいても、
許してくださいます?」
精霊王の瞳が、
驚いたように揺れました。
「……お前は、本当に」
言葉を切り、
彼は苦しげに笑います。
「我だけを見ていればよいものを」
「その瞳を、やすやすと他者に向けるな」
嫉妬。
それが、
彼の声音に混じったものの正体でした。
「我が与えた力で、
我の知らぬ人間を守り、
我の嫌う場所に足を踏み入れる」
「お前は、我のもののはずだ」
その言葉に、
胸の奥が、ひやりと冷たく震えます。
「……申し訳ありません」
つい、そう口にしてしまいました。
精霊王は、眉をひそめます。
「何故、謝る」
「あなたが、怒っておいでだから」
「怒っている」
彼は、静かに認めました。
「苛立っているし、嫉んでもいる」
「我のものが、
人間などという刹那の生き物のために、
痩せていくことに」
そこでふっと、
彼の表情が揺らぎました。
「だが――」
ほんの一瞬だけ、
目の奥に柔らかな光が灯ります。
「それでも、お前が守りたいというのなら」
精霊王は、
息を吐くように言いました。
「好きにすればよい」
耳を疑いました。
「……よろしいのですの?」
「よろしいも何も、
どうせお前は、我が何を言おうと、
自分の決めたことを曲げはしない」
それは、
諦めとも、信頼ともつかない響きでした。
「ならば、
その固い首を無理にねじ曲げるより、
折れぬように支えておくほうがまだましだ」
精霊王は一歩近づき、
そっと、私の頬に指先を伸ばしました。
触れられた場所が、
熱いのか冷たいのか分からない感覚に包まれます。
「――その代わり」
低く、深い声が、
私の耳元を掠めました。
「お前が泣くような真似をする者は、許さぬ」
背筋が、ぞくりと震えます。
「お前を食い物にし、
お前の守りたいものを“札”に変えようとする者がいれば」
白い空間のどこかで、
風もないのに樹がきしむような音がしました。
「我が裁く」
「世界の理ごと、捻じ曲げてでも、潰す」
それは、
優しい言葉の形をした、宣戦布告でした。
「……それは、その」
思わず、言葉が上ずります。
「少し、物騒すぎやしませんかしら」
「お前を泣かせるほうが、よほど物騒だ」
精霊王は短く答えました。
「お前が泣くとき、
世界のどこかがひとつ、ひずむ」
「そのひずみが、
我にはどうにも、目障りで仕方がない」
だから、と彼は続けます。
「泣きたいときは、
我の目の届かぬところで泣け」
「そして――」
指先が、そっと私の瞼に触れました。
「出来るだけ、泣くな」
胸の奥が、きゅう、と痛みました。
私は、この人が。
この存在が。
世界を嫌いながら、
どれほど不器用な優しさを抱えているのかを、
ほんの少しだけ知ってしまっています。
「努力しますわ」
出来るだけ、冗談めかして答えました。
「けれど、私も人間ですから」
「きっとまた、泣いてしまいます」
「知っている」
精霊王は、
少しだけ肩を落としました。
「だからこうして、先に言っておく」
「お前を泣かせる者は、許さぬ」
同じ言葉を、
二度、繰り返します。
そこにはもう、
嫉妬と苛立ちだけではない何か――
強すぎる執着と、
それを自覚してしまった者の苦味が滲んでいました。
「……ありがとうございます」
どんな顔をしているのか、
自分でも分かりませんでした。
「あなたはやはり、人間嫌いで、
どうしようもなく優しくて」
そして――
心の中でそっと付け加えます。
(少し、怖い方ですわね)
その瞬間、
精霊王の姿が、ふっとかき消えました。
白い空間が遠ざかり、
足もとから、柔らかな感触が戻ってきます。
◆ ◆ ◆
「……あ」
目を開けると、
そこは見慣れた天蓋付きのベッドの上でした。
カーテンの隙間から、
かすかな朝の光が差し込んでいます。
頬に触れた指先が、
濡れていました。
「……泣いていましたのね、私」
苦笑が漏れます。
枕をぎゅっと抱きしめ、
天井を見上げました。
「もう少しだけ、味方でいてくださいませね」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、
静かな朝の空気に吸い込まれていきました。
窓の外からは、
いつも通りの城下の音が聞こえてきます。
パン屋の立てる音。
井戸端で交わされる声。
遠くのほうで、子どもが笑う声。
世界は、
相変わらず騒がしく、
相変わらず愛おしい。
「あなたが世界を嫌ってもかまいません」
夢の中で言えた言葉を、
もう一度、胸の中でなぞります。
「その代わり――
私が少しだけこの世界を好きでいても、
許してくださいます?」
精霊王が、
この問いにどう答えるのか。
次に夢を見るときまで、
楽しみにしている――と認めるのは、
少しだけ、悔しいのですけれど。
私はゆっくりと身体を起こし、
涙の跡をごしごしと拭いました。
「さて。泣いている暇は、そう多くありませんわね」
今日もまた、
城下のどこかで誰かが私を待っている。
精霊王の嫉妬混じりの加護と、
彼が世界に向ける嫌悪感と。
それらすべてを抱えたまま、
私は今日も、
この世界のほうを向いて歩いていくのだと思います。




