表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
72/72

精霊王の嫉妬

第十一話「精霊王の嫉妬」


 その夜、私は、

 久しぶりに「一人で立っている」夢を見ました。


◆ ◆ ◆


「……はあ」


 集会が終わったあとも、

 その余韻はなかなか胸から離れてくれませんでした。


 机の上には積み上がった書類。

 明日の学校の確認事項。

 マルコからの報告書。

 王都から回ってきた、教会本部宛ての返書の控え。


 どれも、必要なもの。

 どれも、私にしか目を通せないもの。


 けれど、今の私には――

 どれ一つとして、文字として頭の中に入っていきませんでした。


「今日はもうよろしいでしょう」


 レオンが静かにそう言って、

 書類をそっと閉じました。


「続きは明日も逃げません」


「……そうですわね」


 本当に逃げてくれるなら、

 少しは楽なのですけれど。


 そんな弱音を飲み込んで、

 私は椅子から立ち上がりました。


 自室に戻り、

 侍女に髪をほどいてもらいながら、

 ぼんやりと天井を見上げます。


「今日は、よくお休みになれますよ」


「そう思えるなら、どれほど良いかしら」


 軽い冗談のつもりで口にした言葉が、

 思ったよりも掠れて聞こえました。


 侍女が心配そうな目を向けてきたので、

 私は慌てて笑みを作ります。


「冗談ですわ。少し疲れているだけですから」


「お茶をお持ちしましょうか?」


「いいえ、大丈夫。

  横になれば、すぐに眠れると思います」


 ――本当は、寝つけないかもしれない。

 そう思っていたのに。


 柔らかな寝間着に袖を通し、

 ベッドに身を沈めた瞬間、

 私はほとんど、世界の重さごと落ちていきました。


◆ ◆ ◆


 次に目を開けたとき、

 そこは、私の寝室ではありませんでした。


 白い――と表現していいのかどうかすら迷う、

 不思議な空間。


 床とも、天井ともつかない余白が、

 遠くまで、淡い光をたたえて続いています。


 あるいは、

 霧のような光が満ちた、

 静まり返った古い森の中、と言ったほうが近いでしょうか。


 足もとは確かに何かを踏んでいるはずなのに、

 靴の感触はありません。


 寝間着姿のまま、

 私はぽつんと立っていました。


「……あら」


 夢だ、と理解するまでに、

 そう時間はかかりませんでした。


 そして同時に、

 ここが「ただの夢」ではないことも。


 空気が、ふっと張り詰めます。


 温度も、風もないのに。

 視界の端が、ゆっくりと色づいてゆきました。


「また少し、痩せたな」


 どこからともなく響いた声に、

 肩がびくりと震えました。


 振り返るよりも先に、

 彼の気配が、すぐ近くに降り立つのを感じます。


「……お久しゅうございます、精霊王様」


 気づけば私は、

 いつもの癖でスカートの裾をつまみ、

 礼をしようとしていました。


 ――スカートも何も、

 今の私は寝間着姿ですのに。


「ここはお前の寝間着の続きだ」


 苦笑にも似た声音が、

 私のその仕草を制しました。


「そんな形ばかりの礼は要らぬ」


 顔を上げると、

 そこには、あの日と同じ――けれど、

 どこか少しずつ違って見える姿が立っていました。


 男とも女ともつかない、

 均整のとれた美しい輪郭。


 髪とも光とも判別できないものが、

 肩から背へと流れ落ちています。


 何より、目。


 深い湖の底とも、

 夜空にぽっかりと開いた穴とも言えない、

 人の色をしていない瞳が、

 まっすぐに私だけを見ていました。


「……お加減はいかがですか?」


 こんな夢の中で、

 なにを聞いているのでしょうね、私は。


 自分で自分に呆れながらも、

 問いかけずにはいられませんでした。


「変わらぬ。変わらないからこそ、こうしてまた見る」


 精霊王は、

 どこか拗ねたように目を細めました。


「お前のほうはどうだ」


「私、ですか?」


「痩せたと言ったばかりだ」


「それは、その……色々と、ありまして」


「知っている」


 その一言に、

 心臓が一度、大きく跳ねました。


「人間どもが、お前に祈りを積み重ねている」


「教会とやらは、

  お前の力を帳簿に綴じ込もうとしている」


「隣の国は、お前を値踏みしている」


 淡々と並べられる事実に、

 背中に冷たいものが伝います。


「そして、お前は」


 精霊王の視線が、

 私の両手に落ちました。


「今日もまた、誰かのために指を擦り切らせる」


 その声音には、

 怒りとも、呆れともつかない感情が滲んでいました。


「……怒って、おいでですの?」


「当然だろう」


 彼は、ため息を吐くように言いました。


「我が選んだ器が、

  勝手に痩せ細っていくのだ」


「人間ごときの祈りや、

  恨みや、噂や、

  くだらぬ帳簿の数字などのために」


 白い空間の空気が、

 わずかにざわめきます。


「お前は、なぜそこまで人間に肩入れする」


 静かな問いかけでした。


「人は恩を忘れ、力を求め、

  最後にはお前をも利用する」


「それでも――」


 精霊王は、

 ほんの少し身をかがめて、

 私の目線に合わせるように顔を近づけました。


「それでも、まだ守るか」


 その瞳には、

 純粋な「問い」がありました。


 私を責める色でも、

 試すような悪意でもなく。


 ただ、理解できないものを、

 理解しようとする者の目。


 だから私は、

 息を吸い、

 ゆっくりと答えました。


「ええ」


 迷いのない声で。


「たとえそうだとしても、守りたい人がいるのです」


「私を利用しようとする人もいるでしょう」


「恩を忘れてしまう人も、

  きっと、いるでしょう」


「それでも――」


 脳裏に浮かびます。


 教室で、自分の名前を書いて見せてくれた子ども。

 焦げた畑の土の上で、泣きながら芽を撫でていた農民。

 集いの家の片隅で、「ここは息がしやすい」と笑った人。


「あなたが嫌いな人間の中にも、

  きっと好きになれる者がいると、

  私は信じたいのです」


 精霊王の目が、

 わずかに細くなりました。


「……相変わらず、頑固なことだ」


 低い声が、

 苦笑のように震えます。


「我が世界を嫌おうと、

  何を憎もうと、

  お前はそれを否定しない」


 彼は視線を少し逸らし、

 空虚な空間のどこかを見つめました。


「人間が嫌いだと言えば、

  そうですか、と頷く」


「教会がくだらぬと言えば、

  きっとそうなのでしょうね、と笑う」


「隣国が浅ましいと吐き捨てれば、

  そういうところもあるでしょう、と認める」


「それでいて――」


 再び、私を見つめます。


「お前だけは、

  世界を“嫌いになろうとしない”」


 その声音には、

 言葉にしがたい苛立ちと、

 それ以上の何かが混じっていました。


「あなたが世界を嫌ってもかまいません」


 私は、そっと言いました。


「その代わり――」


 胸に手を当てます。


「私が、少しだけこの世界を好きでいても、

  許してくださいます?」


 精霊王の瞳が、

 驚いたように揺れました。


「……お前は、本当に」


 言葉を切り、

 彼は苦しげに笑います。


「我だけを見ていればよいものを」


「その瞳を、やすやすと他者に向けるな」


 嫉妬。


 それが、

 彼の声音に混じったものの正体でした。


「我が与えた力で、

  我の知らぬ人間を守り、

  我の嫌う場所に足を踏み入れる」


「お前は、我のもののはずだ」


 その言葉に、

 胸の奥が、ひやりと冷たく震えます。


「……申し訳ありません」


 つい、そう口にしてしまいました。


 精霊王は、眉をひそめます。


「何故、謝る」


「あなたが、怒っておいでだから」


「怒っている」


 彼は、静かに認めました。


「苛立っているし、嫉んでもいる」


「我のものが、

  人間などという刹那の生き物のために、

  痩せていくことに」


 そこでふっと、

 彼の表情が揺らぎました。


「だが――」


 ほんの一瞬だけ、

 目の奥に柔らかな光が灯ります。


「それでも、お前が守りたいというのなら」


 精霊王は、

 息を吐くように言いました。


「好きにすればよい」


 耳を疑いました。


「……よろしいのですの?」


「よろしいも何も、

  どうせお前は、我が何を言おうと、

  自分の決めたことを曲げはしない」


 それは、

 諦めとも、信頼ともつかない響きでした。


「ならば、

  その固い首を無理にねじ曲げるより、

  折れぬように支えておくほうがまだましだ」


 精霊王は一歩近づき、

 そっと、私の頬に指先を伸ばしました。


 触れられた場所が、

 熱いのか冷たいのか分からない感覚に包まれます。


「――その代わり」


 低く、深い声が、

 私の耳元を掠めました。


「お前が泣くような真似をする者は、許さぬ」


 背筋が、ぞくりと震えます。


「お前を食い物にし、

  お前の守りたいものを“札”に変えようとする者がいれば」


 白い空間のどこかで、

 風もないのに樹がきしむような音がしました。


「我が裁く」


「世界の理ごと、捻じ曲げてでも、潰す」


 それは、

 優しい言葉の形をした、宣戦布告でした。


「……それは、その」


 思わず、言葉が上ずります。


「少し、物騒すぎやしませんかしら」


「お前を泣かせるほうが、よほど物騒だ」


 精霊王は短く答えました。


「お前が泣くとき、

  世界のどこかがひとつ、ひずむ」


「そのひずみが、

  我にはどうにも、目障りで仕方がない」


 だから、と彼は続けます。


「泣きたいときは、

  我の目の届かぬところで泣け」


「そして――」


 指先が、そっと私の瞼に触れました。


「出来るだけ、泣くな」


 胸の奥が、きゅう、と痛みました。


 私は、この人が。

 この存在が。


 世界を嫌いながら、

 どれほど不器用な優しさを抱えているのかを、

 ほんの少しだけ知ってしまっています。


「努力しますわ」


 出来るだけ、冗談めかして答えました。


「けれど、私も人間ですから」


「きっとまた、泣いてしまいます」


「知っている」


 精霊王は、

 少しだけ肩を落としました。


「だからこうして、先に言っておく」


「お前を泣かせる者は、許さぬ」


 同じ言葉を、

 二度、繰り返します。


 そこにはもう、

 嫉妬と苛立ちだけではない何か――

 強すぎる執着と、

 それを自覚してしまった者の苦味が滲んでいました。


「……ありがとうございます」


 どんな顔をしているのか、

 自分でも分かりませんでした。


「あなたはやはり、人間嫌いで、

  どうしようもなく優しくて」


 そして――

 心の中でそっと付け加えます。


(少し、怖い方ですわね)


 その瞬間、

 精霊王の姿が、ふっとかき消えました。


 白い空間が遠ざかり、

 足もとから、柔らかな感触が戻ってきます。


◆ ◆ ◆


「……あ」


 目を開けると、

 そこは見慣れた天蓋付きのベッドの上でした。


 カーテンの隙間から、

 かすかな朝の光が差し込んでいます。


 頬に触れた指先が、

 濡れていました。


「……泣いていましたのね、私」


 苦笑が漏れます。


 枕をぎゅっと抱きしめ、

 天井を見上げました。


「もう少しだけ、味方でいてくださいませね」


 誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、

 静かな朝の空気に吸い込まれていきました。


 窓の外からは、

 いつも通りの城下の音が聞こえてきます。


 パン屋の立てる音。

 井戸端で交わされる声。

 遠くのほうで、子どもが笑う声。


 世界は、

 相変わらず騒がしく、

 相変わらず愛おしい。


「あなたが世界を嫌ってもかまいません」


 夢の中で言えた言葉を、

 もう一度、胸の中でなぞります。


「その代わり――

  私が少しだけこの世界を好きでいても、

  許してくださいます?」


 精霊王が、

 この問いにどう答えるのか。


 次に夢を見るときまで、

 楽しみにしている――と認めるのは、

 少しだけ、悔しいのですけれど。


 私はゆっくりと身体を起こし、

 涙の跡をごしごしと拭いました。


「さて。泣いている暇は、そう多くありませんわね」


 今日もまた、

 城下のどこかで誰かが私を待っている。


 精霊王の嫉妬混じりの加護と、

 彼が世界に向ける嫌悪感と。


 それらすべてを抱えたまま、

 私は今日も、

 この世界のほうを向いて歩いていくのだと思います。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ