八月十六日 落日
亜神は、右手に抱き着いた佐々木から力ずくで逃れようとした。
だが突き飛ばそうとしても、彼女を振りほどくことができなかった。
彼女に触れられている間は力が抑制されるのか、雷も撃てないらしい。
高上と稀香は落雷の危機からとりあえず脱していた。
周囲の幽霊たちも佐々木への襲撃を次々に試みる。
しかし依然として言霊からの攻撃はまったく彼女に効いていない。
逆に返り討ちにあい、触れただけで次々と浄化されたように消えていく。
だが亜神は、佐々木にずっと捕まっているにもかかわらず一向に消滅しない。
他の幽霊たちとは怪異としての格が違うといったところか。
「これだけ直に触っても祓えないなんて、どうにも強情な言霊ですねえ」
「……大丈夫なのか? ここに来て討伐できないなんて言わないでくれよ」
地面に倒れたままそう問いかける高上に向かって、佐々木は余裕の表情で笑いかける。
「問題ないですよお。いろいろと打つ手はありますけど……ここは『おまじない』で一気に決着を付けますかねえ」
「……おまじない?」
「ヒロマオリさんに教わった、ハワイのおまじないです。いわゆる呪詛返しなんですけど。言霊相手には案外こういう単純なのが一番効くんですよお」
そういうと佐々木は、亜神の耳元にそっと顔を寄せ、小さく囁いた。
「Ho'i no 'ai i kou kahu(元いた場所に帰れ)」
「――ッ!!?」
それは一瞬だった。
亜神の全身から黒い稲妻が周囲に弾けた。
同時に、その体が粉々に崩れ落ちていく。
周囲のフアカイ・ポーの群れも同じようにその幽体が雲散霧消していく。
おまじないとやらの効果は、明らかにてきめんだった。
亜神は一切の断末魔さえ残せないまま、余韻なく塵となって風に散って消えた。
入れ替わるように急に訪れる静寂。
それはあまりにもあっけない終幕だった。
「……え? 終わったん? 今ので? アタシ、助かったの?」
「そうですよお。約束通り全てを終わらせたからね、稀香ちゃん」
震えながらなんとか起き上がった稀香に、佐々木がそう宣言する。
安堵に包まれた稀香は、全身の力が抜けたように再び派手に地に伏した。
もう二度と命を狙われることのない喜びに浸りながら。
かくして。
半年以上も続いた連続落雷死事件は、こうして決着を迎えたのだ。
「……まさか本当に倒してしまうとは。凄いな、君は」
「いやあ。所長さんが粘ってくれなかったら間に合わなかったかもしれませんからねえ。チームの勝利ですよお」
「ああ、そうかもしれないな。でも君がいなかったら――」
そう口にしかけて。
突如高上は、強烈な虚脱感に襲われた。
激しい睡魔がそこに加わり、意識が朦朧としてくる。
疲労のせいか、はたまた亜神になにかされたのか。
道路に仰向けに倒れた高上を、立ったままの佐々木が見下ろす。
「はじまったみたいですね」
「……なにが?」
「亜神を倒したことで、元凶の言霊がこの世から消滅しました。正確には、元からこの世界に『なかったことになる』んです。今からはじまるのは、時空の修正です。亜神が発生する前までの地点に世界が巻き戻るんですよ」
世界の巻き戻り。
かつて親分から聞いていた通りだった。
亜神が存在しない世界では、明伊敷高校の生徒たちが落雷死することはない。
討伐依頼も消滅するので、霊能力者たちが死ぬこともない。
亜神がいなければ失われなかった命たちが、すべて戻ってくる。
すべてのマイナスが帳消しになった、本来あるべき世界。
朦朧とする意識の中で、ほっと安堵の息を吐く高上。
その結末のためにここまで佐々木に協力してきたのだ。
目的は十分に果たされた。
「今とても眠たいでしょう? 次に起きるころには、多分今年の一月くらいまで世界が巻き戻っていますよ。そうなったら所長さんたちは今回のことなんてなにも覚えていないと思いますけど、まあどうかお元気で」
そう言って佐々木は小さく手を振ってみせた。
そっけない別れの挨拶。
だが高上には、まだ聞きたいことが残っていた。
「……なあ、佐々木さん」
「なんですか? もうあんまり時間ないですけど」
「……シキミさんは、どうなるんだ?」
世界の巻き戻りによって、亜神がもたらした多くの死がなかったことになる。
だが、亜神が発生する前の命はどうなるのか。
答えは明白だったが、高上は聞かずにはいられなかった。
そして佐々木の答えもまた、想定通りのものだ。
「シキミさんの死は、亜神のせいではないですからねえ。だからまあ、生き返ったりはしませんよ。あの子は修学旅行で死にました。その事実は、新しい世界でも変わることはありません」
「……そっか。そりゃそうだよなあ。でも、それってなんだか……」
全てが大団円で終わろうとしている。
だが、名瀬シキミだけは救われていないように高上は感じていた。
巻き戻った世界では、亜神が存在しない。
シキミを崖から転落させた稀香も、その取り巻きも、怪異に命を狙われることはない。
しでかしたことは隠蔽され、それをことさら調査して告発する者もおらず、ゆえに世間に知れ渡ることもない。
彼ら彼女らはなにごともなくそれぞれの人生を楽しむのだろう。
はたしてそれで本当に良かったのだろうか。
もちろん高上としては、面識すらないシキミが恨みを晴らすことよりも、同業の霊能力者たちが生き返ることのほうがはるかに重要だ。
しかしどうにもすっきりとしないように思われてならない。
とくに、あの性格最悪の稀香がなんの報いもなく平和な生活を取り戻すという点が、正直なところ納得がいかない。
そんな高上の心を見透かしたのか、佐々木は温和な笑みを浮かべる。
「いろいろと思うところはあるかもしれませんけど、なるようにしかなりませんからねえ。これでよかったんですよ。きっと」
その言葉に言い返そうか迷ったが、どうやら時間切れのようだった。
いよいよ言葉すら発せないほどに高上の意識は遠のいていた。
心地よい暖かさと、地面が崩れ去るような浮遊感に体中が包まれる。
意識の中が白く染まっていく。
世界が書き換わっている、という奇妙な実感がそこにはある。
意識の片隅で、佐々木が立ち去る気配がした。
そういえば今回の件で、一言もお礼を言えていなかったっけか。
薄れゆく意識の中、高上が最後に思い浮かべたのはそんなことだった。




