身軽でいたい男の事情
「音のする方へ」より。鷹野の話です。
男は三十からとはまあよく言われる文句だけれど、人によっては微妙に負け惜しみくさくなるのも常だ。自分はどうかなと思いつつメンソールを一本。
やっとこさ嫁に行った腐れ縁の同期。二次会は旦那の職場であって、皆賑やかにやっている。自分は外で熱冷まし。
"やっと"という言い方に間違いはない。うだうだしている期間が長すぎて、泣き付かれてうざったくなり背中を蹴り飛ばしてやった去年末。旦那の方に探りを入れたところ、真実年内ギリギリのところで返事を引き出したらしい。基本的に草食系な旦那は、ここぞという時には追い込んで相手が逃げられないようにと手が打てる男だったようで――大晦日に何やってんだ、ホントに。
宴はまだ半ばだが、いい式だったなと自分の気分はすっかり落ち着いていた。役目は一次会で果たした。矢橋の泣き笑い顔は不細工で、でもそれが引き出せた時の会話は忘れ難いものに思える。
「鷹野君ーどしたの」
「ん? 佐々木、もう帰るのか?」
奈美は家庭持ちなので一次会で引き上げるのかと思っていたが、二次会も最後までいると旦那に子どもを任せてきたという。理解ある旦那で何よりだ。
「珍しいじゃない?」
「何が」
「鷹野君がぼっちってゆーのが」
傷心? と訊かれた。まさか、と笑い飛ばす。
「やっと落ち着いたーって感じだな。あいつも一途だから大変だった」
矢橋が森矢の事を整理できるまで本当に長かった。森矢の事が彼の遺志に沿った【後生大事にしていける思い出】になったのは喜ばしい。
生きている人間は否が応でも先に進まなければならないわけで、ならば前向きであってほしいとは皆が思っていたはずだ。奈美も矢橋を気に懸けていた筆頭。
「だねぇ…りょーちゃんもやっと自分の好きな人見つけてやってく気になってくれたし、ホントよかった」
「佐々木も泣いてたなそういや。嬉し泣きしてたのか? あれ」
「りょーちゃんがお嫁に行っちゃうー! って、寂しいのもあるよ?」
「自分のが先に泣かせといて?」
「そうだけどさ…りょーちゃんの気持ちがわかった」
奈美の式の時、矢橋もべそをかいていたのを思い出した。女同士の友情が時々よくわかんねえ、と自分は思う。
「残すは鷹野君だね」
どうなの、と切り込まれて苦笑い。どうもこうも、そんな予定はない。
「結婚なんてなったら全国のファンが泣くし?」
「あははは、そっちが理由? 清算しなきゃなんない相手が多すぎるからだと思ってた」
「失礼な。付き合うも別れるも誠意を持って対応してんだから、んなわけねぇじゃん」
「いつか刺されるんじゃないかって皆笑ってたねーそういえば」
「笑うとこかそこっ」
今までの女性遍歴を聞いていれば、どんだけだよと笑い話になりそうなのは容易に想像がつくけれど。
「結婚ってそんなにいいか?」
「難しい事訊くねぇ…」
奈美は苦笑して、でも私はしたかったししてよかったと思ってるよと継いだ。
「よっぽどの事がなきゃ一生一緒に暮らすわけだろ。他人だった奴とさ。良さとか、よくわかんねぇんだよなあ」
「鷹野君はあれだね。自分からマジ惚れした事ないからっていうのもあるんじゃない? こいつ絶対離したくねー、とかなさそう」
「ドライ過ぎって?」
「っていうか、男と女の色々見てきてるわけでしょ? それまでのパターンとか、あれこれ無意識に考えちゃうからかなぁっていうのは、私は思うけど…」
「おー、さすが同期」
伊達に四年も同じ場所で同じ空間を作ってきた仲じゃないらしい。確かに、考える。女性がどこでどう言えば喜ぶだとかそんな事がすっと分かってしまうのが良くもあり悪くもある。
感情に任せて突っ走るなんて事、恋愛ではなかった。そして三十を過ぎた今、十代二十代の恋愛のノリのままではいられない世間体や常識というものがついてくるわけで――
「……向いてねーなぁ」
気楽にふらりふらりとしていたいなという気持ちの方が大きい。ある日ふっと何処かに行きたくなって、手前の勝手ですっと出られるような身軽さが好きだ。周りには決めたら一直線なタイプの人間が多いので、見ているだけでお腹一杯ですとも思う。
「その内ころっといく時が来るんじゃない? そういうタイプの人の方が、これってなった時大変だよきっと」
「言うねえ、」
奈美はおっとりしているタイプの女性だがずばりと言う時は言う。そしてそれがなかなかあなどれない。
「まー、ご祝儀出すばっかりっていうのもなあ。割に合わねえや」
「その時はたんまり回収しなきゃだね」
鷹野君が結婚する時はりょーちゃんすっごく泣くんじゃないかなとくすくす笑うのに、それはそれで悪い気はしないなと笑い返す。しかしこの場の冗談だ。
あれは泣くまい。正確に言えば自分が見ている前では泣かないだろう。泣き顔を見たのは二回だけだ。
「鷹野君。さみしい?」
奈美のこういう切り込み方は嫌いじゃない。率直な問いかけだが、何がどうこうという具体的な回答をしなくても構わないという風なのだ。はぐらかす余地がある。
苦笑を滲ませて紫煙を吐き出して、しばし沈黙。
「……さみしいよ。あんだけ手かかった奴ら、いねぇもん」
時々、ちょっとだけな、と付け足すと奈美はぽんぽんと頭を撫でながら「泣いてもいいよ? 今だけ居てあげるし」と笑った。
「優しいねえ、さすが人妻はちげーわ」
「そこは"母親"って言ってほしいな。鷹野君が人妻とか言うと妖しい響き!」
「そりゃ失敬」
「私でもどきっとしちゃうんだもん。若い子だったらのぼせるよ」
「ははっ、まだまだいけるって事かな。この顔も」
「色気出して、張り切って嫁探ししてね? 私も同期の子には幸せになってほしいんだから」
そう言われて、ああ自分が他に思うように自分も他から思われているんだよなと気付かされた気がした。
* * * *
「悪いね鷹野君。引っ張り出して」
「いいえー、俺こーゆーこじんまりした仕事も好きっすから」
カフェでミニコンサートというのは最近コーヒーチェーン店でもよく見かけるイベントだ。場所は川崎のいるカフェ兼バーである。オーナーが音楽好きな事もあってそういうイベントの日を設けているそうで、今回は自分にお鉢が回ってきた。(宮田という彼が自分の事をかなり詳しく知っていたのが驚き。コアな音楽ファンだきっと。)
矢橋とやるのかと思ったらそうではなく――
「妹さん、ピアノ巧いんすか?」
「まあ、ずっとやってるからね。それなりにって感じなんだけど」
君から見たら素人には変わりないんじゃないかなと川崎は苦笑している。今回合わせるのは川崎の妹とだ。
彼の人となりからして、妹も猫可愛がりしているのかと思ったがそうでもないらしい。いい歳した兄妹らしい適度な距離感。宮田の口から妹の名前が出てきた時も「アレ使うの?」と彼にしては珍しい言い様だった。アレってあんた。そんな調子だったのでどんなのが来るのかと密かに不安だったりする。
今日は軽いリハにと店が休みの時に予定を調整してきた。川崎に招待されているので、この後は親睦会的な意味も含め宮田と例の妹と三人で新婚家庭に邪魔をするわけだ。矢橋は今頃部屋を片付けたり料理に追われているかもしれない。料理の腕は旦那が上だから困るとぼやいていたが……さて、お手並み拝見。
「……遅いな」
スマートフォンで時間を見、川崎は呟いた。眼鏡の奥で細められた目は少し苛立っている風にも見える。
「まあまあ。のんびり待ちましょうよ」
「だめだめ。プライベートとはいえ相手があるんだから時間は守らないと。…相変わらずなんだなぁ、あいつ」
「川崎さん、妹さんとはあんまり…なんすか?」
「ん?…どうかな。僕も家出てからそんなに会ってなかったから。よくわからないっていうのが本音かな」
今回アポを取ったのは宮田だそうで、こんな風に会うのは式以来だという。
「久々のご対面でどきどきってやつですかね」
「ははっ。そんな楽しい気分じゃないんだけどね、僕は」
「…意外と手厳しくないっすか? 妹さんなのに」
自分が抱く兄妹像とは若干ずれがある。
「うーん……誰にでも優しくできるタイプじゃないらしいからね。僕。妹だけど、途中で扱い方がわからなくなったからほっといたというか――…女の子は色々難しい」
困ったように笑う声だった。年の差は五つ四つだろうにこの【心底参ってます】調なのがまた。
「へー……こう言ったらあれですけど、よく結婚とかする気になりましたね」
「凌さん?」
「はあ。めんどくさい女でしょ? 夫婦生活とかちゃんとやってます? あいつ」
「ははははっ! 心配どころが君らしいなあ」
「新婚なのにいちゃいちゃしないとかあり得ねーっしょ」
同じ男としては、目の前にある据え膳にああだこうだとはぐらかされたり逃げ回られたらどれだけ辛いかはわかるつもりだ。川崎も人並みに欲はあるはずで、【決まってからはものすごいスピード婚】とはいえ待ちがあったならがっつきたい頃だろう。(相手があんなでも、だ。)
「ご心配なく。結構好きにさせていただいてます。奥さんかわいいから頑張らないとなーって思うぐらいかな」
「うわ、惚気られた!! レアだけど!」
わはは、と笑っていた矢先、慌ただしく裏のドアが開いた。
「お兄ちゃん、遅くなってごめんなさい!」
飛び込んできた女性は小柄で、息を切らせながらこちらにがばりと頭を下げた。右肩に掛けたトートバッグは標準サイズだが彼女の体格からすると重たそうに見える。一緒に笑っていた川崎の表情が呆れた風に変わった。
「僕だけならまだしもお前ね…彼もいるんだから。早めに出るとかいう意識はした?」
そしてこの冷ややかな声である。いきなりそういきますかとぎょっとした。
「ホントにごめんなさい! お待たせして申し訳ないです!」
「や、俺は別にいーっすから」
「それじゃ駄目だよ。皆そうやって謝れば許される相手だと思ってる頭が駄目。そこが許し難い。直らないなぁもう…反省してる?」
「ううっ……スミマセン…」
川崎の辛辣な事。確かに優しくはない。扱いがわからないなりに、優しい言葉を掛けてやるだとかいうことはないのか?
間に入らないと彼女が泣きそうだ。わかりやすくしゅんと項垂れているのが、また。
「まあ川崎さん、その辺で。話進めませんか?」
「ああそうだよね。リオ。挨拶は」
「あっ。川崎 莉緒です、初めまして。この度はお世話になります!」
がばりと頭が下がりまた戻る。忙しいというか、動作が大きいというか――川崎とは性格も顔も似ていないようにみえる。
「鷹野 恵亮です。こちらこそよろしく。えーと……まあ楽にして? な、」
「いえ! 鷹野さん、有名人さんですし! 初っ端からやらかしてホントにもう――ヒールやっちゃって、電車、間に合わなくて…」
「マジで。そりゃ災難…転んだとかなかったの? 靴、何とかなった?」
「は、はい……」
「ん。女子はスピードより安全第一。ああ、後、気持ちが堅いと音も堅くなるぜ? 楽に楽に」
にこりと笑ってみせるが莉緒は申し訳なさそうに目を落としただけだった。顔が赤いのは走ってきたせいだけかどうなのか。小動物系だなこの子、と観察しつつ早速だが打ち合わせをと促した。
話はテキパキ進んで、曲を絞り込むのも早かった。ギターとピアノの組み合わせはアレンジも十分きく。莉緒は最初の印象とは違って頭の回転も早く言葉の選び方も丁寧だった。これで兄にツッコまれるとたじたじなのは一体。
「鷹野君、コーヒー新しいの淹れようか」
「あっ、すんません。いただきます」
川崎の淹れるコーヒーは美味い。カウンターの中に入って「リオはどうする?」と訊いてきた。
「また冷たい方がいいかな。ジュースもあるけど」
さっき莉緒に出されたのはアイスカフェオレだった。川崎は何も訊かずにいたので妹の嗜好は一応把握しているらしい。二杯目は味を変えるかどうかという気遣いからだろう。
「や、いや、う…――冷たいのでお願いします…何でも、いいから」
そう、と川崎はこちらを見ないまま冷蔵庫を開いて。莉緒の目はその背中をじっと見つめている。最初に躓いて萎縮しているのかもしれないが、眉尻が下がったままの横顔はどこか寂しげというか切なげというか――二人の遣り取りは今までもこんな風だったのかなと想像すると、彼女がしょげてしまうのもわからなくない。
川崎の違う一面を初めて見て少し驚かされた。妹に甘くない兄。嫁にはでれでれのくせになぁと思わずくすりと笑ってしまった。ギャップが激しくて。
「リオちゃん、お兄さん好きなんだなー」
向けられた言葉に驚いたようで、ぱっと莉緒の顔が上がった。や、その、ともごもご言っているので少し突っ込んでみたくなった。
「好きだから張り切っちゃって空振り的な。別にいいんじゃねぇの、兄妹なんだし無理はしなくて」
「……普通にしてても空振りまくりなんです、私…」
「緊張してポカやらかすタイプ?」
「……はい」
「ははは、なら、本番までに川崎さん慣れしねーとだ? 曲よりそっちのが大事かもな」
「む、無理……!」
莉緒は顔が真っ赤なまま狼狽している。
実の兄にどんだけお熱なのか。見ていて微笑ましいぐらいだ。
「せっかくならお兄さんに褒められたいっしょ? ならやるしかねーよ。俺がリードするから心配なしなし」
からっと笑ってみせながら励ます。莉緒はしばし黙って、お願いしますと呟いた。
「…鷹野さん、エスパーなんですか」
「は? まー人見る目はあるけど。皆わかるんじゃね? リオちゃんわかりやすいから」
「呆れられるんですーお兄ちゃんは昔からああだから私、バカな子にしか見えないっ…」
「誰もバカな子とか思ってないんだけどね」
言いながら川崎はテーブルに新しいグラスを置く。莉緒にはリンゴジュースらしい。
「ひゃあぁっ! ごめんなさい!」
「いや。別に……」
川崎が「ね、わかったでしょ?」という風に苦笑を浮かべてみせた。いやいやあなたの口にも一因がありますよと言いたくて仕方がない。
扱い方がわからないというのは、莉緒がじきにこうなるからだという事か。なるほどなと自分も苦笑いして返すが、やはり、言いたい。
「リオちゃん怯えすぎじゃね?」
「だ、だってっ…怯えては、ないよ?」
「そーかなー? 川崎さんも。矢橋ん時と違いすぎっすよ。営業モードになってます顔も、声も」
「えっ。…そうかな」
おいおいこの兄妹。しっかりしてくれ。
「二人ともね、顔ちゃんと見て喋りましょうよ? 今までどうだったかとか知りませんけど、初めて見てる俺でもそれやってねーのわかりますもん」
指摘すると、二人はしばし黙って見合っていた。
「いちゃいちゃしろとは言いませんから、柔らかい雰囲気でいきましょう。つーか俺が言ってどーすんだって感じですけど……まあ、ね? お節介ながら」
ずけずけ余所の家庭事情に踏み込んでやる事も場合によってはある。チャラ男らしく軽い感じで。一応相手は選んでそうしているつもりだ。
「ま、その件はお互いじっくりやってくとして――リオちゃん。ちゃっちゃとやって新婚さん家に突撃しようぜ。砂糖吐かされるかもしんないけど」
「はっはいっ!」
「こらこら。そんな四六時中べたべたしてるわけじゃないよ」
「やー自覚無いだけでって事があるかもしんないじゃないっすか。楽しみだなぁ新婚さん弄るの!」
俺そーゆーのすっげー好き、とにやにや。
「君が言うと笑っちゃうのが不思議だなぁ、」
「独り身のやっかみ半分っすよ」
けろりと笑っておいておしまい。冗談にするかどうかは相手の心意気次第である。
川崎は「因果応報ってやつかなあ」とぼやいたので彼ももしかしたら独身時代誰かを冷やかし囃し立てた経験があるのかもしれない。
雑談を挟みつつ練習していると宮田がやって来た。「うまくいってる?」と誰とはなしに尋ねたので、ええまあ、と頷いておいた。こらからどこまで詰めて磨きをかけるかにもよるけれど、概ね順調なのは確かだ。
「リオちゃん、鷹野君とやっていけそう?」
「えっ……た、多分……」
「多分って! あれ、すっげー出来てなかった? さっき」
莉緒の反応が何とも言えない風だったので思わず身を乗り出してしまった。初めて合わせる割に「もうこれでもいいんじゃね?」とすら感じていたのは何だったのか。
莉緒は宮田のとこちらの顔とを見やって、いえ、あの、とあたふたしている。小さな体を更に縮こませるのを宥めるように宮田がぽんと肩を叩いた。
「ははは、まあこの間のはあんまり深くは考えないで?」
「は、はいっ……すみません…」
この間って何だ。何か言ったのかこの人、と怪訝に目を細める。まあいい。川崎から聞く限り宮田は何を考えているかよく分からない天才肌な人らしいのでここで訊いてもはぐらかされそうだ。
「さーてお待ちかね。新婚さん家庭訪問だね。川崎君案内よろしく」
「はいはい。じゃあ片付けてね。車持ってくるから」
「はーい」
楽器や譜面を仕舞い、除けておいたテーブルや椅子を元の位置に戻す。さてさて新妻となった矢橋――今更呼び方が変わるなんて寒気がするので下の名前ではなく旧姓呼びのままで、と本人がうるさい――はどんな顔で迎え入れてくれるのやら。
* * * *
五人も集まれば話題にも困らず、皆がよく食べよく飲んだ。サラダやメインの料理をそれぞれ大皿から取るスタイルで、意外にもちらし寿司が絶品だった。いつの間に上手くなったんだと訊くと料理教室に通わせてもらったからだと矢橋は言う。一人暮らしで自炊もしてきたけれど、やはりきちんと習うのは大事だと思い知ったとも。実の親に諭されれば「いらん!」と突っぱねていただろうが、旦那の親からの薦めではそうはいかなかったようだ。
「すげーなあ。ちゃんと主婦やってんだ?」
「何やそれ?! 当たり前やろっ」
「やーだってなあ……忘れもしないあの味噌汁――」
「味噌汁?」
「川崎さんはフツーの味噌汁だったんすね。よかったよかった」
「ちょ、あんたなあ…そんなもんはよ忘れんかいっ!」
「無理だろ~あれは俺史上最高に不味かったもん」
当時、彼女は出汁入り味噌という物が出回っている事を知らなかったらしい。あれはただの塩辛い汁としか言いようがない。宴会の翌日、起き抜けにそれを出されたらたまったものではないだろう。あの時【日本は蛇口を捻れば水に不自由しない国で本当によかった】と痛感したものだ。自分を含めクラブの何人かがその犠牲になった。
「他にも色々あるよなぁオマエには。料理だけじゃなくて」
「言わんでえぇねーーーん!」
ぶんぶん拳を振りながら喚く。ネタに困らない人生で何よりじゃないか。
人妻になろうが矢橋は矢橋だ。扱いは以前と変わらない。こちらがにたにたしながら軽口を叩くと彼女がむきになって眉を釣り上げるのはずっと昔から同じ。川崎は【つんとした風な綺麗な女】な矢橋が好きになったわけじゃないそうなので、感情が素直に口にも手にも出る所は存分に見せてやればいい。
「二人の見てると何か楽しいよね」
「ん? 妬いてるのかな、川崎君?」
宮田もまた川崎をつつくのが好きらしい。わざとらしく訊きながらにっと笑う。
「そういうんじゃないよ。最初からずっと微笑ましく見させてもらってるんだから」
「ふうん…訂正しよう。君のそれは【羨ましい】っていうんだよきっと」
「いちいち分析しないでくれるかな」
「あ、怒った」
「怒ってない」
「矢橋、オマエ旦那さん遊ばれてんのに助けてやれよ」
「ええーっ、宮田さんには勝てへんてあたし」
「凌さんもまたそんな……――ああいや、うん、いいんだ。彼はもう、こうなんだって思ってていい」
「何かいい風には聞こえないんだけどなぁ?」
「宮田さんはお兄ちゃんあたふたさせる天才ですよね、前から。すごいなあ…」
何気なく投下された莉緒の一言に、宮田も含め全員が一瞬ぽかんとした。後、大笑い。本人は「えっ、えっ?」ときょとんとしている。
「リオちゃっ…尊敬するとこっ? そこ、」
「確かに、由貴さん普段はあたふたせんなー妹さんが言わはるんやしホンマやわ。宮田さんはすごいやり手や」
「あたふたしてほしいの、凌さん」
「だーって……なあ? 年上の余裕っちゅーかほら。リオちゃんかてお兄さんのアホなとこ見てみたいやんなあ?」
「ふふ、ですね。偶には」
「リオ、お前もそんな――」
「奥さんにも妹さんにも了解は得られたわけだし、これからも末永く遊ばれてよ川崎君」
「何【いい事やってる】感じになってるのさ。何、末永くって!」
まったく、と珍しく川崎が嫌そうな顔をする。宮田に分がある流れでは何ともフォローのしようがない。一緒に笑っているのが正解だろう。
「夫婦揃って遊ばれ体質ってやつかもな」
莉緒にこそりと呟くと、彼女も可笑しそうに笑って「かも、」と言う。
「楽しそうでいいなあ、」
「ん?……何で。他人行儀だなーリオちゃんもどんどん入ればいいんだって。身内なんだし遠慮するだけ勿体ない」
「え、でもそんな…」
「矢橋、末っ子で上が兄貴ばっかだから女キョーダイに憧れてんだって昔から言ってて。ガンガン遊んでやってもむしろ喜ぶからさ、リオちゃんがよけりゃ誘ってやってよ。そしたらその内川崎さんにも慣れてくるかもしんねーじゃん」
「お、お買い物とか、誘ってもいいのかな?」
「誘っとけ誘っとけ。ここからスキップしながら来るぜあいつ」
目に浮かぶわー、とビールをごくり。莉緒も想像してみたらしくくすりと笑った。「今度、お誘いしてみます」と小さく拳を握って意気込む様は何とも愛らしい。実際、矢橋も莉緒と仲良くなりたいと思っているだろうから背中を押してやるのは間違っていないはず。微笑ましいではないか。うん。俺いい事やった。
歓談は絶えることがなかったけれど、時間的にそろそろお暇しようかという流れになった。
「鷹野、ちょお、」
手招きされたので呼ばれるままついて行くと、皆からは見えないキッチンの片隅で止まった。怪訝に思っていると、ぐっと襟元を掴んで下に向けて引っ張られる。おい顔近いぞそんで何で睨んでるんだこいつ。
「あんだよ」
「あんた、リオちゃんに何かしたら張っ倒すでっ」
「ああ? 何もしてねえだろ」
「あんたの手の早さをよぉよぉ知っとるからやっ」
何だってそんな牽制をされなければならないのだ。義理の妹がかわいいのは構わないのだけれど、何故こんな言い方をされる?
「オマエがそんな心配するとか、何?」
「あんたわかっとん? もし、もしや。万が一にもリオちゃん貰たら、あたしとあんた 親 戚 や で」
ぞっとする、と小声ながらしっかり主張してきた矢橋の顔からは血の気が引いている。……確かにそうなる。
「確率は低いんじゃねーの」
「あんたのこっちゃし、わからんやんか!」
「オマ、……人を節操なしみたく言うなボケ。今の時点でそんな事言われても【はあ~?】って感じなんだけど」
心配しすぎだろう、とげんなりしてしまった。しかし矢橋は変わらずぎっと眉を釣り上げたままで「人生何がどう転ぶかわからんっちゅーのを知っとるからやなあ……」と苦る。ああそうですねあんたは楽器が恋人だったのにあっという間に囲われて貰われていったんでした。
「俺がよくてもあっちはそんなんじゃねーって。真面目そうだし、遊び人とかヤだってタイプだろ多分」
「せやけどなあ……ここだけの話、あんたリオちゃんの好みっぽくてホンマに心配やねんてっ……!」
いつどこでそんな話をしていたのかは知らないが、だからといって牽制される謂れはあるのか。矢橋は至って真面目に――嫌がっている。失礼過ぎて腹立たしい。
「とにかくな、あんたと一生付き合わんならんとかかなんねんて…!」
友人としてならよくて親戚としては御免だという線引きがイマイチ理解できない。顔を合わせ頻度としてはどっこいどっこいな気がするのだが。
「とにかく、頼むでっ」
「あーはいはい、一応聞いとく」
ホンマにやで! と念押ししてくるのにひらひら片手を振っておいて、お邪魔しましたと三人で外に出る。川崎が車を出そうかと言ってくれたが、これ以上新婚夫婦の邪魔をするのも申し訳ないからと宮田がにんまり笑いながら断ってくれた。ここから駅までなら酔い醒ましに丁度いい距離だろう。
「やー楽しかったっすね」
「鷹野君結構飲んでたけど平気なの?」
「宮田さんもでしょ、」
イケる口なのは初めて知った。見た目だけでは分からないことなので意外と言えば意外だ。
「好きだからバーもやりたいってなったんだよねえ……お酒大好き」
「色んなの飲みたい派ですか?」
「うん。何でもおいしいし飲みたいタイプっていうか……川崎君がね、強いのをちょこっとっていう人だから二人で飲む時ややこしいんだ」
酒代の分を割増で払うと言うのに、川崎が割り勘でいいと言い張る辺りで揉めるそうな。そこは宮田の言い分に従えばいいのに、川崎らしいなと思う。
「リオちゃんごめんね。ほとんど素面なのに」
「えっ、いえ。すごいなあって――……私全然飲めないっていうか、すぐ赤くなっちゃうから恥ずかしくて」
「断りやすくていいじゃん。顔に出ないとガンガン注がれるし大変だぜ?」
顔には出なくて注がれて潰されて、という奴がいた。
ふと過ぎった面影が隣を歩く莉緒のものに重なった気がした。二人の顔のパーツに似ている要素は無いのに。事あるごとにいちいち出てくんなよ寂しいのか? と嗤いたくなった。
世間話なんかをしながら歩いていると駅までの道のりはあっという間だ。
「じゃ、次二人に会うのはリハでって事で。よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
宮田は寄る所があるからと改札前で別れる事になった。この時間からどこに行くのやら知れないが……帰らなくても奥さんから何も言われないのかなと不思議ではある。他人がいちいち口を挟むことでもないのでさっくり見送る。
「そんじゃ、帰ろっか」
「はい。鷹野さんはどっちに?」
「北線まで」
「あ、じゃあ電車の中でお別れですね」
最寄り駅まで送って行こうかと言いかけてやめた。こちらが【業界内では有名人】とはいえ今日初めて会った男にそこまでされるのも何だろうし、彼女の性格からして「お気持ちだけ」なんて言われそうだ。
「鷹野さんは明日もお仕事ですか?」
「だな。毎日仕事。基本年がら年中休み無しだよ俺」
えっ、と驚いた声。見開かれて更に大きくなった目がこちらを見上げてきたのを笑って受け止める。
「あはは、楽器触ってんのが仕事だからさ俺。いつでもギターさえありゃ――って話。自由業ってそんなもんだよ」
「ああ、そっか。びっくりした……そうですよね、腕一本で、ですもんね」
「そうそう。手堅くねー商売なの俺。……リオちゃんはお休み?」
「はい。普通の会社員なので……」
「ピアノは趣味なんだ?」
「そうですね。続けてはいますけど、これで食べてけるなんてとても……小さい時はピアニストになりたいって思ってたんですけど、現実やっぱり厳しくて」
よくある話。そんな調子で苦笑を浮かべる横顔はどこか寂しそうで。夢が叶わなくとも好きな気持ちは持ち続けられるからと莉緒は言った。
「家にもピアノあるし、弾ける環境があるだけ幸せです、私。今回だって鷹野さんみたいなプロの人と弾けるって、ビックリして電話落としちゃって。宮田さんにすっごい笑われちゃったんですよ、前」
「プロっつっても末端の末端で申し訳ない」
「何言ってるんですか、もう」
冗談ばっかり、と可笑しそうに笑う。
「鷹野さんテレビで先生やってたじゃないですか? 友達でそれ観て鷹野さん知ってる子もいたんですよ! すごくないですか」
「一緒に出てた俳優目当てで見てたんじゃね?」
「か、かもしれないですけど……! イケメン二人でギターとかカッコ良すぎたって。ミニコンサートも行くよって言ってくれてました」
「そうなの?【生で見たらフツーのおっさんじゃん!】ってガッカリさせねーよーにしねえとだなー」
まだまだ全然、そんな年を食った気分ではないが。しかし現実、他人から見れば自分も【おっさん】と呼ばれても仕方がない年ではある。男は三十からなんて言葉に甘ったれていてはあっという間だ。(特に、腹。先輩連中を見ていると「油断、マジ怖ぇ」と思う。)
電車の扉の向こうは点々と灯りが見える以外真っ暗だ。住宅街はもうおやすみの時間ではあるのでいつもと同じ景色といえばそうなる。ガラス窓に映る自分はどこか気怠げだった。ほどほどの酒が入り、それが抜けてきた時の軽い倦怠感。
「鷹野さん、あの、お願いがあるんですけど」
「……うん?」
ぼうっとしていたせいで返事が遅れた。
莉緒はまたこちらを見上げていて、あの、と口籠る。もうじき自分が降りる駅だ。
「もしできたら、練習させてもらえませんか。ミニコンサートまでにもうちょっと」
「うん?」
「鷹野さんも宮田さんも大丈夫って仰ってましたけど、まだ不安で――なので…お忙しいとは思うんですけど」
「そ? じゃあリオちゃんの都合いい日また連絡してくれる? その中で俺も空いてる日に……つってもピアノないとあれだよな」
「家じゃダメですか?」
「あー……家の人がいいなら」
莉緒の表情は一気に明るくなって、大丈夫ですと大きく頷いた。プロの人が来るなんて絶対喜びます、なんて――うん、かわいい娘だ。これが今日一番の笑顔だと思う。
「じゃあ、また後日」
「はい! よろしくお願いします!」
ペコリと頭を下げ、またはにかむ。滑り出しが緊張の塊だったせいか全体的にぎこちなかったのがようやく慣れてくれたのかなと少し嬉しい。(かわいい娘はにこにこしててなんぼだろ。)
ホームに降りて、電車が出るのを見送る。ちょいと片手を挙げるとドアの傍に立っていた莉緒は窓越しにひらひらと手を振り返してくれた。
――また嬉しそうな顔しちゃってまあ、
子猫に懐かれたのと近い感覚である。見知った年下女子は大概レスポンスも大きく分かりやすい。しかも仕事の付き合いばかりなので距離感もハッキリしている。
これは、仕事の一環でいいんだよな? 自分の顔と性格上、相手に錯覚させてしまう事も多かったので莉緒の扱いも気を付けなければならないかもしれない。
自宅マンションに帰り着いた頃、携帯が着信を知らせた。案の定莉緒からで、家に着いた事と今日のお礼・明日また予定をメールする旨が書いてあった。こちらこそという文句と予定は分かった時点でいつでもというのだけ打ち返し、パクンと携帯を閉じる。
こんな事から何かが始まるなんてドラマや小説の中だけだ。あんな純朴そうな女の子をどうこうなんて気持ちは毛頭ない。自分はもっと、簡単で易い付き合いだけでいい。矢橋の心配は間違いなく杞憂に終わる。我が身が一番かわいい奴は自分の世話だけしていれば何の面倒もない。――そうやってきたのを変えられるエネルギーがあるなら、もっと別の所に使いたい。
俺だってな、お前を【お義姉さん】なんて呼びしたかねんだよ。ばあか。
(20140501)
恋だの愛だの、うるせえ。
チャラくいたい気持ちとそうはいかない微妙なお年頃です。鷹野は基本的にいい奴なんですが女性関係は派手な方。相談相手や遊びの相手には選ばれるけど―という、そういう意味では不憫な子。なので、あー自分ってそーゆー位置づけなんだよなと割切って派手なままきてます。来る者拒まず去るもの追わずがスタンス。本気の娘が来たらおっと、って避けちゃう。本気になれる相手がいなかったって、幸か不幸か。。。どうなるんだかは私も知りません←ちょ
去年から止まってて最近やっと書き上げたってそんなまさか……!!




