本のなまえ
「行き着く先は皆同じ」の彼がいます。
僕は誰か。
ふ、と目を開くとそこは見知らぬ景色が広がっていた。街中ではない。ぼうっとしたまま何気なく一歩踏み出すとさくりと草を踏む音。――ここは、どこだ?
彷徨わせた視界の中には誰も見当たらない。しかし何だろう。不安は無くて、このまま自分の思うように行けばいいなという妙な確信があった。誰かの声というか、何かに呼ばれているような心地である。
履き慣れたスニーカー。ジーンズとシャツという格好も普段通り。ポケットにいつも入れている携帯は、探してみたが見当たらなかった。まあいいか、元々持っていても存在自体を忘れている方が多いのだから大したことではない。しっかりした足取りで、多分ここからそう遠くはないその場所へ向かう。
辺りの景色を見ながらのんびりと歩いていると、くん、とシャツを引かれる感覚があって反射的に顔だけ振り返った。
「……うん?」
誰もいない。それにしては引っ張られた感じははっきりとしたもので、おかしいなと小首を傾げる。腕を回して背中を擦ってみたが、触った感じだと何も付いていないようだ。……まあ、いいか。と再び前を向いて歩き出す。
時々涼やかな風が流れてきて頬や髪を撫でてゆく。自分の生活圏っぽくない空気な気がした。見る限りずっと草原が広がっている所為だろうか。そういえば一度だけ行ったことがある、夏の北の大地はこんな風だったような――いや、もしかしたらテレビで観た事がある欧州の田園風景か? とにかくこの目で地平線が観られるなんて思ってもみなかった。
休み休み。どちらかといえばインドアで、同年代の人間より体力が少なかった自覚はあるので無理はせずに歩いてきた。途中で道らしい道が出てきたのでそれを辿ってゆくと緩やかな丘の上。仰ぐと大きな建物である。古い洋館。白いレンガの壁にオレンジの屋根瓦。窓がたくさんあって、いくつか開け放たれたそこからカーテンが揺れているのが見えた。こんな大きな建物だと掃除が大変そうだなとか、そんなどうでもいい感想。
正面にこれまた大きな扉。見るからに重厚そうな黒い木の扉には細工の施された取っ手。……開けて、いいんだよねこれ? うん。ぐっと力を込めて引くと、ぎい、という音と共にその扉が開いた。
「……あの、すみません」
「はいはーい。……ああ、どうぞ。中」
声をかけながら覗き込んだ先には人がいた。両手に本を抱えた相手はにこやかに迎えてくれる。お邪魔します、と会釈しながら中に足を踏み入れた時、ぶわりと強い風が吹いた時のような圧力がきて思わず目を瞑って踏ん張った。それは一瞬のこと。
「う、わ……」
外観からはとても想像できない景色がそこにあった。壁中に、本。本。本。馬鹿みたいに高い天井のてっぺんまで埋め尽くされている。縦だけでなく横にも広いのだ。ナニコレファンタジー! とぽかんと開いた口が塞がらない。
「すご……」
仰ぎ見ながら、数歩。外からだと二階建てだったのにこれは何階建てになるのだろう。こんな膨大な数の本など見たことが無い。日本中の出版物を全部集めてもこれには敵わないんじゃないかと思う。(想像でしかないけれど。)仰ぎ見る中には何人か人の姿があった。しかし彼らはこちらの方に目もくれない。ひたすら本棚や手元の本に集中しているらしい。
「お兄さん、一人?」
いつから立っていたのか、先ほど迎え入れてくれた人の声が背後からしてびくりと体が跳ねた。愛想よく微笑まれても心臓によろしくなかったのには変わりない。
「途中で誰か、会ったかい?」
相手は男の人か女の人か曖昧な雰囲気である。輪郭は卵型の柔らかい線。長い髪は後ろでひとつ括りにされているようだ。綺麗なキャラメルブラウン。抽象的な顔立ち。体の線はゆったりとした服でよくわからないが細身だ。身長は自分とそう変わらないぐらい――これ、どっち……?
いや、誰も。と返事をしたのはそこまで考えてからだ。
「とゆー事は、ちゃんといたわけかあ」
「はあ……?」
うんうん頷いているが――はて、一体何の話だろう。誰もいなかったと答えたのにいたとは妙な謎掛けのようで。怪訝に見返すのに相手はこの話を続ける気はないらしく「お兄さん、どこの人?」なんて訊いてくる。
「A県、ですけど」
「それって日本?」
「はあ、」
「そう」
お互い日本語で喋っているのに変な事を訊くなと思った。
「……ここ、図書館なんですか」
今度はこちらから質問してみた。相手は目線を真上にやってしばし考える素振りをした。
「似たようなものかな。たっくさん本があるから、好きなのを好きなだけ読めるよ」
相手は喜々として両腕を広げてみせた。アクションが大きい人である。
「分厚いのから薄いのまで、それこそ千差万別。人生とおんなじ」
「……なるほど、」思考。「……あなたはここの職員さん?」
「似たようなものかな」
さっきもこう言われた気がするが。
「毎日大変だよ。これでもかっていうほど本が増えるし並べてかなきゃなんないしで――でもまあ、好きでやってるんだけど」
「あなた一人でやってるんですか?」
「今のところはね」
「へえ……手伝いましょうか……?」
「いやいやそんな。気持ちだけありがたく」
これは労働条件として異常なのでは、と思う程度の話である。変な人だなと思う。建物が変なら中にいる人間も変なのが道理なのだろうか。
「あのー……適当に見て回っててもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
じゃあ、と会釈してから目についた棚の前に立つ。そうして気がついた。ずらりと並ぶ本の背表紙にタイトルが無いのだ。こんなのあり? と二度見して、訊こうと思って振り返ってみるがさっきまでいた相手はどこかに行ってしまっていて――近くのテーブルで本を読んでいる人がいたので近付きながら、あの、と声を掛けてみる。
「…………」
「……あの、すみません、」
――無言。
無視されてる? と恐る恐る隣に立ってみても相手――自分より年上らしい男の人だ――はぴくりとも反応しない。ただじっと手の中の本の文字を追っている。感じ悪いな。
次に目に留まったのはお婆さんだった。本棚の前でじいっと何かを探している風で、横顔だけで判断すればさっきの男性より優しそうだ。すみません、と声をかけてみたが…………こちらも、スルー。耳が遠いのかなと少し大きめの声を出してみたが彼女はやはり反応しない。
歩き回って、次も、その次の人も、全然ダメだった。
「ええー……?」
何でだろう、と切なくなってきた。透明人間になったわけじゃないのにここまでスルーされると少し傷付くな。最初の人はちゃんと喋ってくれたのに何故。
「おにーさん、さっきから何してるの?」
声が降ってきた。……ああ、またあなたでしたか。っていうかいつの間にそんな高い場所に。
相手は本棚に備え付けられている可動式の梯子の途中にいた。本を片手に危なげなくこちらを見下ろしていて、その口元は可笑しそうに緩く孤を描いている。
「僕以外の人とは、喋れないよ?」
「はっ?!」
「そうか、お兄さんご新規さんだったね。ごめんよ言っとかなきゃだった」
曰く、ここには人がいてもお互いに話はできないらしい。言葉の問題ではなくて意識の問題で。見えてもそれは単なる影のようなものでしかない、と。つまり自分も誰かからすれば影でしかないそうな。……ナニソレファンタジー……
「読むのは好き勝手してくれていいんだけど、大事にしてね」
相手は片手に持っていた本を掲げてみせた。
「そうだ。タイトルが書いてないんですけどこれは……? 読むっていってもこれじゃさっぱり……」
「だろうね。……ところでお兄さん。あなたのお名前は?」
質問に違う質問で返すの?! と目を剥いた。でもまあ別に減るもんでもないかと溜め息を一つ。
「…………名前」
「うん、」
「………………あれ、僕、」
出てこない。
何度も目を瞬かせて、一生懸命思い出そうとするのにそれは浮かんでこなかった。何故だ。自分の物なのに何故なくなってしまったんだろう?
「だと思うよ、」
「えっ?」
彼――一人称から勝手に判断させてもらった――は何の不思議もないよという風にうんうん頷いてみせる。どうしてこんな事が起きているのか解らない。不安。名前一つ思い出せないだけで、自分がおかしくなってしまったような気になってしまう。
「大丈夫。ちゃんと思い出せるから」
「そんな事言われても……」
「名前なんて記号でしかないっていうけど、無くなると不安になるんだね? 皆、最初はそうだから心配しないでいいよお兄さん」
「……」
「さて、本の話をしようか」
彼は梯子から降りてきていて、僕の前に立った。
「ここの本はね、全部、ちゃんと名前があるんだ。全部、きちんとした」
「はあ、」
「例えばこれ。アスナル・リヴァス。隣はクレス・バリュートだったかな。……うん、合ってる。この人達はね、色々あったんだけどずっと一緒だったからこうして置いてあるんだ」
「人の名前?……伝記ですか」
「そうだね」
「……そんな伝記、聞いたことがないんですけど」
「かもしれないね」笑い。「でも、ちゃんとした本さ。始まりからおしまいまである。結構長いよこれは」
「へえ……?」
「これなら知ってるかも。ヨハン・シュトラウス」
「あの、シュトラウス?」
有名な音楽家である。
「音楽家のはこの辺りにあるんですか?」
「そういうわけじゃないよ? シュトラウスの血縁ならこの辺だ。ずうっとね。読んでみるといい。お兄さんは好きそうだ」
「最近の人達のもあるんですか?」
「どうだろうね」間。「ある人のはあるし、無いって事はまだ来てないんだよ。つまり」
「来てない、……本が?」
特集が組まれた雑誌は読んだことがあるのになと不思議に思う。
「本も、本人も、だよ」
「はい?」
「本人がいないと本は来ない。そういう場所なんだよここは」
彼はにっこり笑って、勿論外国の人のばかりじゃないよと続けた。偶々この辺りに置いてある物が横文字の名前ばかりなだけだと。
「日本人のも、ある……?」
「そういう事」
「信長とかそういう?」
「あー、いたねそんな名前の人。色んな人の本の中に出てくるものだから、彼がその時代すごくたくさんの人に影響してたのは知ってるよ」
いい意味でも悪い意味でもね、と相手は肩を竦めてみせた。
「人生を左右し過ぎると後が大変なんだけどね。それがわかるのはここに来てからだし、まあ、しょうがないか」
独りごちて彼はまたこちらに向き直った。あまり深く考えない方がいいのか、これは。
「本を探すなら僕に聞いてくれるといい。その内お兄さんにもどれが何だかわかるようになると思うけど――というか、本が呼んでくれるから大丈夫」
「わかりました。……ありがとう」
会釈して、また彼から離れる。
行くべき場所はわかっていたのに着いた途端自分が何をしに来たのかわからなくなってしまった。それに気が付いて、溜め息を一つ。名前の他にも思い出さなければならない事が増えたわけで、でも彼が【その内思い出すから大丈夫】と言ったのでその通りなのだろう。
歩き回りながら、本の中身をまだ読んでみていなかったと何気なく一冊手に取ってみた。ぱらりと開く。――生まれはドイツ。この人は菓子職人だったようだ。町の片隅の店と工房での事が書かれていて、それは何でもない日常の景色だった。
華々しい何かがあったわけでもない。ごくごく平凡な話が綴られていて、自分の子どもや友人達の祝い事の時に焼いたケーキの話は特に幸福に満ちていた。終わりは、工房の片隅。老後も工房で若い職人達を見守っていたこの人は椅子に凭れ、うつらうつらと眠るように92年の生涯を終えたという。92年。……僕の5倍ぐらい。比べてしまうのは、残してきた物が多い所為だろうか。
次はアジアの山岳地帯。馬を駆って草原で暮らす民族の女性だった。放牧の風景。たくさんの兄弟達との日常。それが戦争によってじわりじわりと変わっていった。上の兄弟が徴兵され残された幼い子ども達を守る役目を負っていた彼女は、戦火の中で失われてゆく数々のものへ慟哭した。終わりは唐突だった。彼女は銃弾で命を落としたらしい。
次々と本を取り、ページを捲り、物語を断片的に追いかけていった。著名人の本に行き当たる方が稀で、どれもこれも自分の知らない人々の話ばかりだった。そしてきちんと完結している。例外無く、それぞれの生まれた日から死んだ日までのものがたり。
ごくごく一部しか拾い読みしていないけれど、ここにある全ての本がそうなのだろうと自然に納得している自分がいた。もしかしたら本は、今見えている以上に数があるのではないかとも。果てしない数の人生のきせき。管理しているあの人は毎日、馬鹿みたいに増える本をどうやって整理し収めているのだろう? 魔法みたいだ。普通の人ならあり得ない仕事量をこなしている事になるのに、あの人はそんな様子ではなかった。
――……ああ、そうだ、僕は、
左手の指先。皮が張って硬くなっている。親指でなぞりながら思い出す。楽器の事。好きだったCDの事。楽譜のファイル。自分の部屋の空気。大学の事。友達の事。家族の事。大事な二人に置いてきた、曲の事。
泣きたくなった。現状を理解した途端、胸を突き上げてきたこの感情を何と言えばいいのだろう。この莫大な量の本の中から、確かめずにはいられない。――聞こう。聞かないとと探し回って、軽く息が弾んできた辺り。ようやく見つけた彼に声を掛ける。
「っ、――……あの、」
「うん?」
彼はやはり本を手にしていてすぐにこちらを振り返った。待っていたよと受け止められた気がして、すっと息を吸って口を開く。
「……僕の本、どこにあるか、分かりますか」
彼は微かに笑んでみせた。そして「さっき来た所さ」と言う。
「君が持ってきたんだよ」
君の人生そのものだから君が持ってきて然り、と言いながら相手は机の上から迷うことなく一冊の本を取り上げる。その厚さに、ぐっと喉が詰まった。僕の人生の、厚さ。
「皆、自分で持ってくるんだよ。まとめてここに来る事が多いけど、君みたいに直接来る人もいてね。……何だか泣きそうな顔してるけど、これっぽっちなのかーなんて思ってる?」
言い当てられて更に言葉に詰まる。自分は今、多分ひどく情けない顔をしているに違いない。
「……アキヒトさん。君の人生がどんなだったか、どれだけ大切なものがあったか、知ってるのは君だけでいい。……他と比べたくなる気持ちはわかるよ。そういう人を何人も見たことがある。でもね、どれも、無為だなんて事はないんだよ?」
彼は両手を広げてみせた。
「お兄さんが待ってるかなって、後の人達はここに来るのに怖いばかりじゃなくなるかもしれない。実際そういう人は多かったよ。知ってる【誰か】がいるならまあそんなに悪くないかな、なんて」
楽器ばかりだった自分に優しかった人達の事を思い出す。自身の人生に無くてはならない人もいればただすれ違っただけの人もいる。皆に生きる物語があって、それは全てきっと、いつかここに収まるのだ。
一冊の本。携えてくるものはそれっぽっちじゃない。
「……あの、僕、本読みに来ても構いませんか」
「もちろん! たっぷり時間があるからね。いつでもどうぞ」
彼がにこにこしているのにつられるように、自分も少し笑顔になれた。
「僕が知ってる人達の本も、また読めるんでしょうか」
「待っててあげればいいさ。その内、読めるよ」
だって、物語に必ず終わりは来るものだから。
彼の言葉に、ただこくりと頷くしかできない。
「じゃないとつまらないだろう? 音楽だってそうさ。ずうっと終わらない曲なんて――最初はよくてもいつか雑音になっちゃう」
「ああ…………確かにそうですね。弾くのも大変だ」
「でしょう?」
終わりのない曲の練習なんか出来やしない。そもそも書き終わらないので譜面なんか貰えない。
きちんとfin.が打たれたからこそ出来る事がある。待つ事は退屈かもしれないが、これだけの人の本があるのだ。読み切るまでにはとてつもない時間が必要になるに違いない。
【終わる】ということは、有為なのさ。
そう言って笑う彼に、そうですよね、と今度は同じように笑っている自分がいた。
(20140131/0415)




