幸せへの耐性
旅館二日目の午後。
俺たちは、見事なまでに旅館を満喫していた。
まずは売店である。
旅館の売店というのは、なぜああも人の判断力を狂わせるのか。
漬物。
饅頭。
湯の花。
木彫りの何か。
旅館名の入ったタオル。
地酒。
だし醤油。
謎の健康茶。
普段なら絶対に買わない物が、旅館という空間に置かれているだけで、急に必要な物に見えてくる。
「オジサン、これ買っていいですか?」
「何だそれ」
「旅館限定まんじゅうです」
「まあ、それくらいなら」
「オジサン、これも」
「何だそれ」
「旅館限定きんつばです」
「まあ、それも……」
「オジサン、これも」
「何だそれ」
「旅館限定ドラゴン饅頭です」
「ドラゴン要素どこだよ」
「形です」
「形だけで値段が倍になってるぞ」
「限定です」
「その言葉は危険なんだ」
真桃ちゃんたちは、実に楽しそうだった。
シィマは音が鳴る小さな鈴を手に取り、マユリは香り袋を選び、ユサは土産用の菓子を比較し、キョウコは昨日の朝食で出た漬物を発見して目を輝かせていた。
イナリは、試食コーナーに張り付いていた。
「イナリ、買わないなら食べ続けるな」
「買えばよかろう」
「誰が買うんだ」
「おぬし」
「だろうな!」
結局、俺の財布はそれなりのダメージを負った。
だが、真桃ちゃんたちが嬉しそうに紙袋を抱えているのを見ると、まあいいかと思ってしまう。
こういう所が、駄目なのだろう。
俺は、たぶん、かなりちょろい。
その後は、旅館定番の卓球である。
なぜ高級旅館に卓球台があるのか。
いや、旅館だからあるのだ。
理屈ではない。
そこに卓球台があるなら、人はラケットを握る。
「オジサン、勝負です!」
「いいだろう。昔取った杵柄を見せてやる」
「卓球やってたんですか?」
「温泉旅館で少しな」
「それ、皆そうじゃないですか」
真桃ちゃんの突っ込みは正しい。
そして、俺の実力は見事に温泉旅館レベルだった。
玉は跳ねる。
ラケットは空を切る。
イナリは台の上を転がる玉を目で追い、時々手で捕まえようとする。
「イナリ、猫かお前は」
「玉が逃げるのじゃ」
「逃げるように打ってるんだよ」
シィマは意外と上手かった。
音で軌道を読んでいるのか、妙に正確に返してくる。
マユリは丁寧だが弱い。
ユサは変な回転をかけようとして自滅する。
キョウコは無言で強打する。
真桃ちゃんは、笑いながら走り回る。
俺は、それを眺めているだけで楽しかった。
勝負はどうなったのか、よく覚えていない。
たぶん、全員が勝って、全員が負けた。
温泉卓球とは、そういうものである。
三時のおやつには、部屋で抹茶と菓子が出た。
イナリは、まるで自分のために用意された儀式のように、厳かな顔で菓子を食べた。
「おいしいか?」
「うむ。良い仕事じゃ」
「何様だ」
「姫神様らしいぞ」
「そこだけ都合よく採用するな」
おやつの後は、庭園の散歩だった。
地下都市の中とは思えない庭だった。
人工の空の下、池があり、橋があり、石灯籠があり、苔まで生えている。
どこまで本物で、どこから人工なのか分からない。
だが、そんな事はどうでもよくなるくらい、空気が穏やかだった。
「オジサン、写真撮りましょう」
「俺も入るのか?」
「当たり前じゃないですか」
「俺は撮る側でいいんだが」
「駄目です」
真桃ちゃんに引っ張られ、俺は女性陣の端に立たされた。
イナリは真ん中で菓子の包みを持っていた。
なぜ持ったままなのか。
だが、誰も突っ込まなかった。
撮れた写真を見せてもらうと、俺は思ったより普通に笑っていた。
少し驚いた。
自分で思っているより、俺はこの時間を楽しんでいるらしい。
そして、まだ明るいうちからの露天風呂。
ただし、混浴はなし。
ここは大事である。
俺は強く主張した。
「絶対に分ける」
「分かってますよ」
「昨日の足湯みたいなのもなしだぞ」
「オジサン、警戒しすぎです」
「警戒するに決まってるだろ」
「でも、ちょっと嬉しそう」
「気のせいだ」
気のせいではないかもしれない。
だが、認めたら負けである。
女性陣が先に入り、俺は後で入るつもりだった。
しかし、売店、卓球、散歩、風呂と続いたため、夕食前の準備が意外と慌ただしくなり、結局俺だけ風呂に入り損ねた。
まあいい。
今日の主役は夕食である。
レッサーアースドラゴンの肉。
それを高級旅館の料理人が、全力で料理するのだ。
期待するなという方が無理だった。
そして夕食。
それは、想像を超えてきた。
「本日の献立は、レッサーアースドラゴン尽くしでございます」
仲居さんの言葉に、全員の背筋が伸びた。
まず、薄造り。
ドラゴン肉の表面だけを軽く炙り、薬味と特製のぽん酢で食べる。
一口。
「……」
全員、黙った。
旨味が深い。
肉なのに、脂がしつこくない。
噛むほどに、力強い味が広がる。
次に、椀物。
ドラゴン肉の出汁を使った澄まし汁。
これがまた、暴力的に上品だった。
「何これ……」
真桃ちゃんが呟いた。
「魂が……」
マユリが、箸を持ったまま遠い目をする。
「抜けますね」
シィマが静かに同意する。
ユサは無言で写真を撮ろうとして、途中でスマホを置いた。
「これは、先に食べないと駄目です」
「分かる」
キョウコは、すでに二口目に入っていた。
そこから先は、もう大変だった。
ドラゴン肉の炭火焼き。
味噌漬け。
小鍋。
握り。
竜田揚げ。
締めには、ドラゴン肉の炊き込みご飯。
さらに、骨から取った出汁の茶漬け。
俺は、途中から少し泣いていたかもしれない。
「オジサン、泣いてます?」
「肉で泣く年齢なんだよ」
「そんな年齢あるんですか?」
「今、出来た」
イナリは、完全に無言だった。
無言で食べ続けていた。
神が沈黙するほどの飯。
それはもう、信仰の対象である。
女将が途中で様子を見に来たが、イナリの食べっぷりを見て、心底安心したような顔をしていた。
やめて欲しい。
イナリの食欲を、神託のように扱わないで欲しい。
食事が終わる頃には、全員、魂が抜けていた。
真桃ちゃんは頬を赤くして、座椅子にもたれている。
シィマは静かに目を閉じて余韻に浸っている。
マユリは「もう、何もいらないです」と言いながら、デザートはきっちり食べた。
ユサは地酒を少し飲みすぎたのか、ふわふわした声で料理の感想をメモしている。
キョウコは、炊き込みご飯のおかわりを頼むかどうか真剣に迷っていた。
イナリは頼んだ。
俺も少し迷ったが、腹の容量的に諦めた。
若くないのだ。
いや、イナリは若いとかそういう問題ではない。
食後の部屋は、完全に沈没船だった。
全員が満たされきっている。
酒の回った女性陣は、畳の上でだらだらしている。
俺は、そこで思い出した。
「そういえば、俺だけ風呂に入ってなかったな」
「今なら、誰も動けませんよ」
ユサが、妙にふわふわした声で言った。
「そうだな。今のうちに入ってくる」
「のぼせないでくださいね」
真桃ちゃんが、座椅子にもたれたまま言う。
「大丈夫だ。今回は一人だからな」
俺はそう言って、露天風呂へ向かった。
体を流し、湯に浸かる。
「……はああ」
声が出た。
今日一日の疲れと、夕食の満足感が、湯に溶けていく。
これは、魂が洗われる。
いや、夕食で一度魂は抜けているので、戻って来た魂が洗われている。
もう何を言っているのか分からない。
だが、とにかく最高だった。
人工の星空。
庭の静けさ。
湯の温かさ。
腹の底に残るドラゴン肉の余韻。
俺は、目を閉じた。
生きていて良かった。
迷宮に潜って良かった。
イナリに会って良かった。
真桃ちゃんたちと、この旅館に来られて良かった。
そう思っていた時だった。
戸が開く音がした。
「……え?」
俺は、目を開けた。
真桃ちゃんがいた。
手ぬぐいを前に当て、湯気の向こうに立っていた。
もちろん、細かなところまで見える訳ではない。
湯気がある。
距離もある。
俺の理性もある。
あるはずだった。
だが、真桃ちゃんがそこにいるという事実だけで、俺の頭は一瞬、完全に停止した。
「ま、真桃ちゃん!?」
「恥ずかしいから、見ないで下さいよ」
「いや、自分で入って来たよね!?」
「それはそうですけど」
「そうですけど、じゃなくて!」
真桃ちゃんの顔は赤かった。
酒のせいか。
湯気のせいか。
それとも、恥ずかしいのか。
たぶん全部だ。
俺は慌てて横を向いた。
向いたつもりだった。
だが、人間の目というものは厄介である。
見てはいけないと思うほど、気配を追ってしまう。
いや、違う。
これは本能ではない。
事故だ。
視界の端に真桃ちゃんが映ってしまうのは、視界という器官の構造上、仕方のない事故である。
「オジサン」
「はい」
「見てますよね」
「見てません」
「嘘」
「見えてしまっただけで、見ようとはしてない」
「それ、言い訳として弱いです」
「自覚はある」
真桃ちゃんは、湯の縁まで来た。
俺は湯の中で固まっている。
逃げ場がない。
湯船の中で逃げると、余計に情けない。
というか、動くと波が立つ。
色々と良くない。
「どうして入って来たんだ」
「オジサン、また一人でのぼせたら困るから」
「俺は子どもか」
「昨日の事がありますし」
「それを言われると弱い」
「それに……」
真桃ちゃんは、少し言葉を止めた。
湯気の向こうで、目を伏せる。
「少しだけ、話したかったので」
俺の心臓が、どん、と鳴った。
やめて欲しい。
そういう言い方は、アラカン男に効く。
効きすぎる。
「話なら、部屋で出来るだろ」
「部屋だと、皆がいます」
「ここも、かなり問題があると思うが」
「分かってます」
真桃ちゃんは、小さく笑った。
その笑顔が、妙に大人びて見えた。
俺は、また目を逸らした。
なのに、目が離せない。
年甲斐もない。
本当に年甲斐もない。
「オジサン」
「何だ」
「今日、楽しかったですね」
「ああ」
「昨日も楽しかったです」
「ああ」
「もう一泊出来て、嬉しかったです」
「俺もだ」
真桃ちゃんは、少しだけ湯に足を入れた。
熱さに肩をすくめる。
「このまま、ずっとこういう時間が続いたらいいのにって、思っちゃいました」
「……そうだな」
俺も、そう思う。
だが、続かないからこそ、大事なのだろう。
いつか迷宮に戻る。
日常に戻る。
危険もある。
厄介事もある。
イナリの謎だって、まだ何も分かっていない。
それでも今は、湯気の中で、真桃ちゃんが目の前にいる。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「オジサン、こっち見てください」
「いや、それは危険だ」
「危険って何ですか」
「主に俺が」
「ばか」
真桃ちゃんが照れたように言った。
その一言で、俺の心臓はさらに追い込まれた。
ばか。
若い女の子に、風呂場で照れながら言われる「ばか」。
これは、攻撃力が高い。
レッサーアースドラゴンの突進より高いかもしれない。
俺は、再び意識が遠くなりかけた。
「まずい」
「え?」
「また、飛ぶかもしれん」
「ちょ、オジサン!?」
視界が少し揺れた。
湯気が白く広がる。
真桃ちゃんの顔が、驚きに変わる。
その次の瞬間。
真桃ちゃんは、手ぬぐいを放り投げた。
「オジサン!」
駆け寄って来る。
湯気の向こうから、真剣な顔で。
俺は、それを見た。
いや、見てしまった。
最後に脳裏へ焼き付いた光景は、心配そうにこちらへ手を伸ばす真桃ちゃんの姿だった。
ああ。
眼福。
そう思ったのを最後に。
俺の意識は、ぶくぶくぶく、と湯の底へ沈んでいった。
次に目を覚ました時。
俺は、また布団の上だった。
額には冷たい手ぬぐい。
枕元には水差し。
横ではイナリが、夕食の残りを使ったらしい小さなおにぎりを食べていた。
「起きたか」
「……俺は?」
「また沈んだ」
「やっぱりか」
「今度は真桃が引き上げた」
「そうか」
「なかなか良い沈みっぷりじゃった」
「褒めるな」
俺は天井を見た。
記憶はある。
途中までは、かなり鮮明に。
というか、鮮明すぎる部分がある。
これは、墓場まで持っていくべき記憶だ。
誰にも言ってはならない。
絶対にだ。
襖の向こうから、真桃ちゃんの声が聞こえた。
「オジサン、起きました?」
「ああ。すまん。また迷惑かけた」
「本当ですよ」
その声は少し怒っていた。
だが、怒りの奥に、ちゃんと心配がある。
「もう、一人でお風呂入るの禁止です」
「それは困る」
「困ってください」
「はい」
俺は素直に返事をした。
反論する気力はなかった。
というか、反論できる立場ではない。
またのぼせたのだ。
しかも原因が原因である。
「なあ、イナリ」
「なんじゃ」
「俺、幸せすぎると死ぬかもしれん」
「なら、鍛えねばな」
「何を?」
「幸せに耐える力じゃ」
「そんなステータスがあるのか」
「今のおぬしには足りぬ」
「否定できないな」
俺は、布団の中で小さく笑った。
情けない。
実に情けない。
だが、不思議と後悔はなかった。
売店で買い物をして、卓球をして、庭を散歩して、最高の夕食を食べて、露天風呂で魂を洗われて。
そして、最後に少しだけ。
本当に少しだけ。
幸せすぎる光景を見た。
アラカン男の人生に、そんな一日があってもいいだろう。
いや、あって欲しい。
俺はそう思いながら、手ぬぐいを目元にずらした。
隠したのは、熱のせいではない赤さだった。
「オジサン」
襖の向こうから、真桃ちゃんが言う。
「明日は、ちゃんと起きてくださいね。朝風呂は、みんなで監視しますから」
「……監視だけでお願いします」
「考えておきます」
「頼むから、考えないで決定してくれ」
部屋の向こうで、皆が笑った。
俺も、手ぬぐいの下で笑った。
どうやら俺は、もうしばらく。
この幸せに振り回される事になりそうだった。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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