添い寝の夜
人間、幸せすぎると倒れるらしい。
少なくとも、俺は倒れた。
高級旅館の露天風呂で、真桃ちゃんたちに囲まれ、足湯とはいえ若い女性陣がきゃあきゃあと楽しげにしている中、俺は湯にのぼせて沈みかけた。
アラカン男として、かなり情けない。
いや、情けないどころではない。
普通に黒歴史である。
しかも、その黒歴史を共有している相手が、真桃ちゃん、シィマ、マユリ、ユサ、キョウコ、そしてイナリである。
逃げ場がない。
どこにもない。
俺は布団の中で、額に冷たい手ぬぐいを乗せられながら、人生について考えていた。
考えたところで、どうにもならなかった。
「お客様、大事を取って、明日もご滞在なさってはいかがでしょうか」
やって来た女将が、静かにそう言った。
その後ろには老番頭も控えている。
この旅館の人間は、所作がいちいち美しい。
だが、今の俺には、その美しさが少し怖かった。
なぜなら、完全に逃がす気がなさそうだったからだ。
「いえ、さすがにそこまでしていただく訳には」
「湯当たりは軽く見てはなりません。特に当館の湯は、迷宮の湯脈から引いております。お身体に合えば素晴らしい効能がありますが、慣れぬ方には強く出る事もございます」
「それは、俺が弱い訳ではなく?」
「もちろんでございます」
女将は、にこりと微笑んだ。
優しい。
優しいのだが、妙に敗北感がある。
「明日のご宿泊料はいただきません。どうか、ゆっくりお休みくださいませ」
「いや、そこは駄目です」
俺は、布団の中から必死に上体を起こした。
ふらついた。
真桃ちゃんが慌てて背中を支えてくれる。
情けない。
だが、それ以上に、無料でもう一泊など受け入れられない。
庶民には庶民の意地がある。
「さすがに、ただで泊まる訳にはいきません。こちらが勝手にのぼせただけですし」
「いえ、こちらのおもてなしが行き届かず」
「行き届きすぎた結果です」
俺がそう言うと、真桃ちゃんたちが吹き出した。
いや、笑うところではない。
俺は真面目だ。
かなり真面目に、庶民の倫理観と戦っている。
「では、こうしましょう」
俺は、インベントリから一つの肉塊を取り出した。
どん、と畳の上に置かれる巨大なブロック肉(ラップ入り)。
レッサーアースドラゴンの肉である。
焼き肉パーティーで使ったものと同じだが、まだまだ大量にある。
ドラゴンを倒した時、俺とイナリは欲望のままに収納したのだ。
あの時の俺たちは、少しどうかしていた。
いや、今も大して変わらないか。
「これは……」
老番頭の目が、鋭く細められた。
ただの老人ではない。
長年、旅館であらゆる食材を見て来た人間の目だ。
「レッサーアースドラゴンのブロック肉です。ゲットして数日経ってますけど、こいつ、たぶん数日くらいでは傷まないです」
「ドラゴン肉は、生命力が桁違いでございますからな」
老番頭が、静かに頷いた。
さすが高級旅館。
ドラゴン肉を見ても、叫んだりはしない。
いや、女将の目は少しだけ見開かれていた。
真桃ちゃんたちは、完全に「またやった」という顔をしている。
「これを、明日の夕食の食材に使ってください。残りは旅館で好きにしてもらって構いません。宿泊料代わりという事で」
「お客様」
「お願いします。無料は、落ち着かないんです」
女将と老番頭が、顔を見合わせた。
そして、老番頭が深く頭を下げる。
「ありがたく、頂戴いたします」
その瞬間、俺は少し肩の力が抜けた。
よし。
これで貸し借りは、多少なりとも釣り合ったはずだ。
そう思ったのだが。
「実は、近々、当館に大切なお客様をお迎えする予定がございまして」
女将が、静かに言った。
「このレッサーアースドラゴンの肉は、そのもてなしの目玉となり得る食材でございます」
「え?」
「これほど状態の良いブロック肉は、そう簡単には手に入りません。しかも、迷宮の奥で得たばかりのもの。料理人たちも、さぞ腕を振るう事でしょう」
「あの、もしかして……」
「はい。むしろ、こちらが大きなご恩を受ける形となります」
「そうなりますか」
「そうなります」
俺は、頭を抱えた。
宿泊料代わりに渡したつもりが、さらに貸しを作ってしまったらしい。
真桃ちゃんが、隣でしみじみと言った。
「そりゃ、そうなるよね」
「なるよね」
シィマが頷く。
「オジサン、たまに感覚が雑になりますよね」
「レッサードラゴンの肉って、普通に貴重ですから」
マユリも言う。
「旅館側からしたら、宿泊料よりずっと価値がありそう」
ユサはスマホを触りながら、何か検索している。
「市場価格、出てこないですね。出回らなさすぎて」
キョウコが、俺をじっと見た。
「オジサン、やっぱり変です」
「知ってるよ!」
俺は、布団の上で叫んだ。
すると、イナリがぽつりと言った。
「飯が豪華になるなら良いではないか」
「お前は本当にぶれないな」
「明日の夕餉も楽しみじゃ」
「そうだな。もうそれでいいか」
実際、もう一泊出来る事に文句などあるはずもなかった。
真桃ちゃんたちは露骨に嬉しそうだし、イナリは明日の飯の事しか考えていない。
俺も、口では色々言っているが、内心では相当嬉しかった。
高級旅館にもう一泊。
しかも、真桃ちゃんたちと一緒に。
これを喜ばずして、何を喜ぶのか。
だが、忘れてはならない。
今はまだ、一泊目の夜である。
俺は、すでに疲れ切っていた。
湯当たり。
酒。
女将と老番頭とのやり取り。
ドラゴン肉の提供。
そして、真桃ちゃんたちの視線。
アラカンの体力と精神力は、もう限界に近かった。
「俺は、もう寝る」
そう宣言して、俺は寝室へ向かった。
広すぎる部屋の一角にある寝室。
布団はすでに敷かれている。
ふかふかである。
高級旅館の布団は、どうしてこうも人間を堕落させるのか。
俺は、そのまま布団へ倒れ込みたかった。
だが、そこで背後に気配を感じた。
振り返る。
真桃ちゃんとシィマがいた。
「……なんで付いて来る」
「オジサンが心配だから」
真桃ちゃんが、当然のように言った。
「湯当たりしたばかりですし」
シィマも、真面目な顔で頷く。
「寝付くまで見ています」
「いや、見られていると寝られないんだが」
「添い寝します?」
「もっと寝られない!」
俺は、思わず声を上げた。
すると、真桃ちゃんが少し頬を膨らませる。
「何もしませんよ」
「当たり前だ」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「良くない。俺の精神に良くない」
「オジサン、さっきから精神ばっかりですね」
「精神が壊れたら、人間は終わりなんだよ」
俺が必死に抵抗している間に、真桃ちゃんは俺の布団の横に座った。
シィマは反対側に正座する。
完全に看病体制である。
ありがたい。
ありがたいのだが、非常に落ち着かない。
若い女の子二人に寝かしつけられるアラカン男。
これを客観的に見た時、俺はどの立場になるのだろうか。
病人か。
子どもか。
それとも、ただの幸せ者か。
最後だと認めるには、まだ心の準備が足りなかった。
「大丈夫ですよ、オジサン」
真桃ちゃんが、布団を直してくれる。
「今日は色々あったんですから、ちゃんと休んでください」
「……それは、そうだが」
「明日もありますし」
「明日もあるのか」
「あります」
シィマが静かに言った。
「明日は、朝食を食べて、足湯をして、大浴場にも行って、お土産を見て、また夕食です」
「最高だな」
「でしょう?」
「だからこそ、寝たいんだが」
「では、寝ましょう」
シィマが、少し微笑んだ。
その笑顔に、俺は何故か嫌な予感がした。
「シィマ?」
「子守唄を歌います」
「いや、いい。大丈夫だ。俺は大人だから、子守唄なんて――」
シィマが歌い始めた。
小さな声だった。
言葉の意味はよく分からない。
だが、音の流れが妙に心地良い。
耳から入って来るというより、直接、頭の中の固くなっていた部分を撫でられるような感じがした。
俺は、はっとした。
これは、音魔法だ。
シィマお得意の。
「おい、これ……反則……」
「寝てください」
シィマの声が、柔らかく響く。
真桃ちゃんが、くすくす笑う気配がした。
「オジサン、おやすみなさい」
「いや、俺はまだ……」
まだ、何か言おうとした。
言おうとしたのだ。
だが、言葉は最後まで形にならなかった。
まぶたが重い。
布団が温かい。
畳の匂いがする。
遠くで、湯の流れる音がする。
真桃ちゃんの気配と、シィマの歌声。
それらが混ざり合って、俺の意識は、あっさりと沈んでいった。
アラカン男、完敗である。
翌朝。
俺は、妙に快調に目覚めた。
「……あれ?」
体が軽い。
頭もすっきりしている。
昨日の酒も残っていない。
湯当たりのだるさもない。
むしろ、普段より調子が良いくらいだ。
高級旅館の布団。
迷宮の湯。
シィマの音魔法。
どれが効いたのか分からないが、とにかく快眠だった。
快眠だったのだが。
「なんか、負けた気がする」
俺は、布団の上でぽつりと呟いた。
大人の男として。
アラカンとして。
何か大事なものを、子守唄一つで奪われたような気がする。
いや、実際には眠らされただけだ。
しかも体調は良い。
文句を言う筋合いなどない。
それでも、割り切れないものがある。
「おはようございます、オジサン」
襖が開き、真桃ちゃんが顔を出した。
「よく眠れました?」
「眠れた。眠れすぎた」
「良かったです」
「俺としては、少し納得いってない」
「でも、よく眠れたんですよね?」
「眠れた」
「じゃあ、良かったですね」
「そうなんだが」
そこへ、シィマもやって来た。
「おはようございます」
「おはよう。昨日のあれ、音魔法だよな?」
「はい」
「やっぱりか」
「弱めにしました」
「あれで弱めか」
「本気なら、三秒です」
「怖いな、音魔法」
シィマは、少し誇らしげだった。
真桃ちゃんも笑っている。
俺は、何か言い返そうとしたが、腹が鳴った。
情けない。
だが、朝食の匂いがしていたのだ。
高級旅館の朝食。
その破壊力は、夜の会席とはまた別物だった。
焼き魚。
出汁巻き卵。
湯豆腐。
小鉢。
漬物。
味噌汁。
炊き立ての白米。
そして、迷宮山菜の和え物。
派手ではない。
だが、全てが丁寧だった。
「これは……」
俺は、箸を持ったまま固まった。
「朝から泣きそうになるな」
「オジサン、情緒が忙しいですね」
「年を取ると、朝飯のありがたみで泣けるんだよ」
「本当ですか?」
「半分くらい本当だ」
イナリは、すでに二杯目の米を食べていた。
「この味噌汁、良いのう」
「分かる」
「魚も良い」
「分かる」
「卵も良い」
「全部良いんだよ」
俺とイナリの意見は、また一致した。
真桃ちゃんたちも、朝からよく食べた。
昨日あれだけ食べたのに、若いというのは恐ろしい。
いや、イナリは若いとかそういう枠ではないが。
俺も負けじと食べた。
白米をおかわりした。
普段なら、朝から食べすぎると反省するところだが、今日は反省しなかった。
旅館の朝食において、白米を控えるのは、礼を欠く行為である。
そう自分に言い聞かせた。
朝食後、俺たちは部屋付きの露天風呂の横にある足湯スペースでだらだらする事になった。
本当に、だらだらだった。
誰も急がない。
誰も何かをしようとしない。
ただ、浴衣姿のまま縁に腰掛け、足だけ湯に浸け、ぼんやりと庭を見る。
地下都市の中にある人工の庭。
作り物と言えば作り物だ。
だが、池の水は静かに揺れ、竹の葉はわずかに動き、湯気は白く立ち上っている。
それだけで、妙に心が落ち着いた。
「……もう、どうでもいいな」
俺は、ぽつりと言った。
「何がですか?」
真桃ちゃんが隣で首を傾げる。
「昨日、子守唄でコロッと寝た件」
「ああ」
「屈辱ではある」
「屈辱なんですか」
「少しな」
シィマが反対側で、静かに足を揺らしていた。
「体調が良くなったなら、良いと思います」
「正論だな」
「はい」
「正論は強いな」
俺は、足湯に浸かったまま、天井の人工空を見上げた。
朝の光を模した淡い明るさ。
湯の温かさ。
腹の中には、最高の朝食。
隣には、真桃ちゃんたち。
少し離れて、イナリが茶菓子を食べている。
何だこれ。
天国か。
いや、地下都市だ。
「オジサン、顔が緩んでます」
ユサに指摘された。
「緩むだろ、こんなの」
「開き直った」
「開き直る年齢なんだよ」
「昨日は精神がどうとか言ってましたけど」
「精神にも休暇は必要だ」
キョウコが、足湯の中で足を動かしながら呟いた。
「もう一泊出来るの、すごく嬉しいです」
「だな」
「ドラゴン肉のおかげですね」
「俺の湯当たりのおかげでもある」
「そこ、誇るところですか?」
「誇れる要素が少ないから、何でも拾っていく方針だ」
マユリが笑った。
「オジサン、昨日より元気ですね」
「寝かしつけられたからな」
「根に持ってる」
「少しだけな」
シィマが小さく笑う。
その笑顔が、昨日より柔らかく見えた。
真桃ちゃんも、何となく距離が近い。
ユサはスマホで旅館の売店情報を調べているし、キョウコは朝食で出た漬物が売っていないか気にしている。
マユリは、部屋に置かれていた旅館案内を読んで、午後の過ごし方を考えている。
イナリは茶菓子を食べている。
全員、好き勝手である。
だが、その好き勝手が同じ空間に収まっている。
それが、何とも言えず心地良かった。
俺は、自分が思っていた以上に、こういう時間に飢えていたのかもしれない。
誰かに振り回される時間。
誰かのために財布の心配をする時間。
誰かが隣で笑っている時間。
若い頃の俺は、きっとこういうものを大事にし損ねた。
仕事だの、意地だの、タイミングだの、色々な言い訳をして。
気がつけばアラカンになっていた。
それなのに、今さらこんな時間が転がり込んできた。
迷宮と幼女神とドラゴン肉付きで。
人生、どこで何が起こるか、本当に分からない。
「なあ、イナリ」
「なんじゃ」
「楽しいか?」
「楽しいぞ」
イナリは、即答した。
「飯が美味い。湯も良い。菓子も良い」
「それだけか」
「おぬしらもおる」
イナリが、何でもない事のように言った。
俺は、少しだけ黙った。
真桃ちゃんたちも、何となく静かになる。
イナリは不思議そうに首を傾げた。
「何じゃ?」
「いや」
俺は、足湯の中で足を伸ばした。
「それなら、良かった」
「うむ」
イナリは満足そうに頷き、また菓子を食べた。
その横顔を見ていると、昨日の女将や老番頭の話を思い出す。
小さき姫神様。
何度もこの旅館を訪れ、その度に福をもたらした存在。
今、目の前で菓子を頬張っている食いしん坊幼女神と、その伝説がどう繋がるのか。
気にならないと言えば嘘になる。
だが、今はまだいい。
今この瞬間は、謎を追うより、湯に足を浸けていたかった。
「オジサン」
真桃ちゃんが、ふいに俺の袖を引いた。
「ん?」
「午後、売店行きましょう」
「お土産か」
「はい。あと、旅館の中も探検したいです」
「探検って言うと、迷宮みたいだな」
「じゃあ、旅館ダンジョンですね」
「宝箱は?」
「売店です」
「ボスは?」
「財布です」
「一番強いやつだな」
皆が笑った。
俺も笑った。
財布は確かに強敵だ。
だが、今回はもういい。
ドラゴン肉を渡してしまったし、もう一泊も決まってしまった。
なら、多少の出費くらい、笑って受け入れるべきだろう。
たぶん。
きっと。
できれば。
「オジサン、また難しい顔してる」
「財布というボスと戦う覚悟を決めている」
「頑張ってください」
「お前たちも少しは手加減してくれ」
「善処します」
「一番信用できない返事だ」
そんな事を言い合いながら、俺たちは足湯に浸かり続けた。
時間は、ゆっくり過ぎていく。
急ぐ必要はない。
今日も泊まれる。
夕食には、レッサーアースドラゴンの料理が出る。
旅館側がどんな料理にしてくるのか、考えるだけで腹が減る。
いや、朝食を食べたばかりなのに。
俺もだいぶ、イナリに毒されてきたのかもしれない。
「おぬし、今、飯の事を考えておったな」
イナリが言った。
「分かるのか」
「顔が食い意地になっておる」
「どんな顔だ」
「妾に似てきた」
「それは嫌だな」
「失礼な」
イナリが頬を膨らませる。
それを見て、真桃ちゃんたちがまた笑う。
俺は、足湯の湯気越しにその光景を眺めた。
ぐだぐだで、締まりがなくて、何も進んでいないような時間。
だが、たぶん。
こういう時間こそ、後で一番思い出すのだろう。
強敵を倒した事でもなく。
高い肉を食った事でもなく。
ただ、皆で足を湯に浸けて、どうでもいい話をして笑った事を。
俺は、そう思った。
そして、小さく息を吐く。
「……もう一泊できて良かったな」
「最初からそう言ってましたよ」
真桃ちゃんが言う。
「言ってない」
「顔には書いてました」
「俺の顔は、情報量が多すぎないか?」
「オジサン、結構分かりやすいです」
「そうか」
それは少し困る。
だが、今は別にいい。
分かりやすく幸せそうなアラカン男が、そこに一人くらいいても。
きっと、迷惑ではないだろう。
たぶん。
俺は足湯に浸かったまま、もう一度、人工の空を見上げた。
今日も、何もしない一日が始まる。
いや、何もしない訳ではない。
食べる。
浸かる。
笑う。
振り回される。
そして、たぶんまた、幸せになる。
それだけで十分だと思える朝だった。
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