イナリの過去
一番良い部屋。
その言葉が、俺の頭の中でぐるぐる回っていた。
一番良い部屋。
何が一番良いのか。
広さか。眺めか。料理か。風呂か。
それとも料金か。
庶民である俺にとって、一番気になるのは最後の一点であった。
「あの、本当に予約した部屋で……」
「いえ、こちらへ」
老番頭は、俺の抗議を聞かなかった。
実に穏やかな笑みを浮かべているのに、こちらの意見を通す気が一切ない。長年、高級旅館で客の無茶を受け流してきた人間特有の、柔らかい鉄壁である。
俺は、横にいるイナリを見た。
当の本人は、すでに仲居さんから渡された小さな飴を口に入れ、ほくほくしていた。
「おい、イナリ」
「なんじゃ?」
「お前、本当にここ知らないんだよな?」
「知らぬ」
「じゃあ、なんでこんな扱いなんだ」
「知らぬ」
「便利な言葉だな、それ」
俺が頭を抱えている間にも、真桃ちゃんたちはすっかり盛り上がっていた。
「一番良い部屋だって!」
「露天風呂とか付いてるかな?」
「写真、撮っていいのかな?」
「お料理もすごそう」
「オジサン、やりましたね」
「俺は何もやってない。むしろ胃が痛い」
そんな俺の切実な訴えは、誰にも届かなかった。
案内されたのは、旅館の一番奥。
廊下の雰囲気からして違った。
床はきしみ一つなく、壁には季節の掛け軸。途中に見える中庭には、地下都市の中とは思えないほど自然な木々が植えられている。
人工の空から柔らかな光が差し込み、どこからか水の流れる音が聞こえる。
「……金がかかってるな」
「おぬし、さっきから金の話ばかりじゃな」
「金は大事なんだよ」
「ドラゴン肉で稼げばよい」
「命を担保にした副収入を、気軽に家計へ組み込むんじゃない」
そんなやり取りをしていると、老番頭が一つの襖の前で足を止めた。
「こちらでございます」
襖が開く。
その瞬間、女性陣から歓声が上がった。
「わあっ!」
「広っ!」
「何これ、すごい!」
「旅館っていうか、もう別荘じゃないですか!」
「オジサン、ここに住みましょう」
「住めるか!」
部屋は、とんでもなかった。
まず、畳の広間が広い。
俺の家のリビングを三つか四つ繋げたくらいある。
窓の外には小さな庭。池まである。しかも、鯉が泳いでいる。地下都市の旅館の客室に、なぜ鯉がいるのか。俺には分からない。
さらに、奥には寝室が三つ。
つまり、七人で一部屋でも十分に寝られる。
というか、十分すぎる。
そして、極めつけが。
「露天風呂付きでございます」
老番頭が、誇らしげに案内した先には、石造りの露天風呂があった。
湯気が立ち上り、その向こうには竹垣と庭木。
天井は高く、人工の夜空が広がっている。
地下都市の中なのに、星まで見える。
どういう技術なのか、もう聞く気も起きない。
「おお……」
俺は、思わず声を漏らした。
これは、すごい。
こんな場所に泊まる人生など、前の俺にはなかった。
家賃二十万円の部屋でさえ、最初は十分に贅沢だと思っていたのだ。
それが今や、露天風呂付きの超豪華客室である。
しかも、隣にはイナリ。
そして、真桃ちゃんたち五人。
俺は、意味もなく緊張した。
緊張する理由はない。
何もやましい事はない。
ないはずだ。
だが、アラカン男が若い女性陣と同じ豪華客室に通されるという状況は、どう考えても心臓に悪い。
「オジサン、顔が固いですよ」
「固くもなるわ」
「大丈夫ですよ。寝室、分かれてますし」
「そういう問題だけでもない」
「じゃあ、どういう問題ですか?」
「俺の精神年齢の問題だ」
真桃ちゃんが、くすくす笑う。
その横でシィマが、真面目な顔で部屋割りを確認し始めた。
「寝室は、女子組で二つ使って、オジサンとイナリちゃんで一つですか?」
「妥当ですね」
「待て」
俺は、思わず声を上げた。
「なんで俺とイナリが同室なんだ」
「え? いつも一緒じゃないんですか?」
「そういう言い方をするな」
「おぬし、何を今さら照れておる」
「お前は少し照れろ」
イナリは当然のような顔で、部屋に置かれていた座椅子に座り込んでいた。
既に自分の家のようにくつろいでいる。
この適応力は見習いたい。
いや、見習うと人として色々失う気もする。
ほどなくして、女将が挨拶にやって来た。
落ち着いた着物姿の、品のある女性だった。
年齢は俺より少し上だろうか。
だが、その立ち姿には一本筋が通っていて、ただ者ではない雰囲気がある。
「この度は、ようこそお越しくださいました」
女将は、深く頭を下げた。
そして、その視線はやはりイナリへ向けられていた。
「お久しゅうございます、と申し上げるべきなのでしょうか」
「む?」
イナリは、湯呑みを両手で持ったまま首を傾げた。
その顔には、何の心当たりもなさそうである。
女将は、困ったように微笑んだ。
「ご記憶にないのも、無理はございません。前にお越しになったのは、私の祖母がまだ若女将だった頃だと聞いておりますので」
「祖母?」
俺は、思わず聞き返した。
老番頭が静かに頷く。
「はい。この旅館は、地下都市が今の形になる前より、この地で湯を守って参りました。もっとも、当時は今ほど立派なものではございませんでしたが」
「数百年、という事ですか?」
「左様でございます」
俺は、イナリを見た。
イナリは、お茶菓子をぱくついていた。
上品な菓子である。
たぶん、一個一個が結構高い。
それをイナリは、遠慮なく食べている。
この状況で一番平常心なのは、間違いなくこいつだった。
「こちらのお方は、当館に何度かお越しになっております」
老番頭が、静かな声で言った。
「不思議な事に、そのお姿は、古い記録に残る絵姿とほとんど変わりませぬ」
「絵姿?」
「はい。初代が残したものです。小さき姫神様、と」
「姫神様……」
真桃ちゃんたちが、顔を見合わせた。
俺もイナリを見た。
小さき姫神様。
確かに、イナリは神様らしい。
らしいのだが。
「おかわりはないのかのう」
当人は、空になった菓子皿を見つめていた。
神性というものは、もう少しこう、威厳とセットであって欲しい。
老番頭は、そんなイナリの様子にむしろ感極まったような顔をした。
「その度に、当館には大きな福がもたらされました」
「福?」
「ある時は枯れかけていた湯が戻り、ある時は迷宮災害で失われかけた客足が戻り、またある時は疫病に沈んだ町に活気が戻りました」
女将が続ける。
「もちろん、偶然と言えばそれまでです。ですが、我々は代々、こう伝えられております。小さき姫神様が訪れた時、決して粗略にしてはならない。心よりもてなしなさい、と」
「ほう」
イナリは、感心したように頷いた。
いや、お前の話だぞ。
「つまり、妾は歓迎されておるのじゃな」
「はい。もちろんでございます」
「ならば、菓子をもう少し貰えるかのう」
「すぐにお持ちいたします」
「持って来るんだ……」
俺の呟きは、誰にも拾われなかった。
女将と老番頭の説明は、なかなか長かった。
古い旅館の由来。
地下都市開発との関わり。
迷宮の湯脈と呼ばれる不思議な温泉の話。
そして、イナリらしき存在が過去に何度も現れ、その度に旅館が救われたという言い伝え。
俺は興味深く聞いていた。
聞いていたのだが、途中から横の女性陣がそわそわし始めた。
理由は単純。
夕食の時間が近づいていたからである。
イナリなど、すでに二回目のお茶菓子を食べ終えていた。
「イナリ、お前、夕食前だぞ」
「問題ない」
「あるんだよ、普通は」
「妾は普通ではない」
「そこだけ神様ぶるな」
結局、話が長くなった事もあり、そのまま部屋で夕食となった。
仲居さんたちが次々と料理を運んで来る。
俺は、最初の膳を見ただけで固まった。
綺麗なのだ。
豪華なのに、派手すぎない。
小鉢に盛られた山菜。
透き通った出汁の椀物。
迷宮魚の刺身。
火を入れた瞬間に香りが立つ肉料理。
地下都市で採れるという不思議な茸の天ぷら。
さらに、地酒。
俺は、思わず手を合わせた。
「ありがたい……」
「オジサン、お坊さんみたいになってますよ」
「いや、これは拝むだろ」
「分かります」
真桃ちゃんも、目を輝かせて箸を取った。
一口食べて、全員の顔が変わる。
「おいしい……」
「何これ、出汁がすごい」
「天ぷら、軽っ」
「お酒、飲んでもいいですか?」
「ほどほどにな」
「オジサンが言うと説得力あるような、ないような」
「あるだろ。人生経験が違う」
「失敗経験も多そうです」
「否定はしない」
女性陣は、いつの間にか浴衣姿になっていた。
旅館の浴衣である。
それぞれ似合っている。
真桃ちゃんは可愛いし、シィマは妙にきちんとしている。マユリは柔らかい雰囲気が増し、ユサはすでに旅館を満喫する気満々。キョウコは落ち着いているようで、実は一番料理に目がない。
そしてイナリは、浴衣の袖を邪魔そうにしながら、ひたすら料理を食べていた。
「イナリちゃん、浴衣似合うね」
「そうか?」
「うん。ちっちゃい女将さんみたい」
「妾は女将より偉いのではないか?」
「調子に乗るな」
俺は、地酒をちびちび飲んだ。
美味い。
危険な美味さである。
辛口なのに、後味が丸い。
料理に合う。
気がつけば、徳利が空いていた。
「オジサン、飲みすぎですよ」
「大丈夫だ。大人だからな」
「大人は大丈夫って言いながら失敗するんです」
「耳が痛い」
女性陣も、少しずつ酒が回ってきたようだった。
もちろん、無茶な飲み方はしない。
だが、頬が赤くなり、声が少し大きくなり、浴衣の襟元が少し乱れ、全体的に旅館の夜らしい空気になっていく。
俺は、必死に視線を料理へ固定した。
見るな。
見るんじゃない。
俺は保護者のようなものだ。
そうだ、保護者だ。
焼き肉を焼き、旅館代を払い、危険な迷宮から守る。
完全に保護者である。
だが、保護者という立場でありながら、こんなに幸せでいいのだろうか。
「オジサン、にやけてます」
「にやけてない」
「にやけてる」
「旅館の照明のせいだ」
「便利な照明ですね」
真桃ちゃんが笑う。
俺も、つられて笑ってしまった。
酒と料理と温泉旅館。
そして、気を許してくれる仲間たち。
もう十分だった。
十分すぎるほどだった。
夕食が終わる頃には、皆すっかり上機嫌だった。
仲居さんが食器を下げていくと、部屋には満腹と酔いの柔らかい空気だけが残る。
「温泉、入りたいですね」
ユサがぽつりと言った。
「大浴場、行く?」
「その前に、部屋の露天風呂も見たいです」
「いいですね」
「まずは女子で入って来い。俺は後でいい」
俺は即座にそう言った。
これ以上、精神を試されてたまるか。
女性陣は、わいわい言いながら露天風呂へ向かった。
俺はその間、広間で一人、茶を飲んだ。
いや、一人ではない。
イナリがいる。
「イナリは入らないのか?」
「飯が落ち着いてからじゃな」
「お前、本当に自由だな」
「おぬしも自由にすればよい」
「アラカン男には、自由にしてはいけない場面があるんだよ」
「面倒じゃのう」
まったくである。
しばらくして、女性陣が戻って来た。
頬を上気させ、髪を少し湿らせ、浴衣姿でくつろぐ五人。
俺は、また視線を茶碗に落とした。
茶碗の底が、今日の俺の親友である。
「オジサン、どうぞ」
「え?」
「お風呂、空きましたよ」
「あ、ああ。じゃあ、ちょっと入ってくる」
俺は、逃げるように露天風呂へ向かった。
浴衣を脱ぎ、体を流し、湯に浸かる。
「……はあ」
思わず、声が漏れた。
最高だった。
湯は熱すぎず、ぬるすぎず、体の芯にじんわり染み込んでくる。
人工の星空を見上げながら、俺は深く息を吐いた。
思えば、妙な人生になった。
アラカンになって、迷宮に潜り、幼女神と出会い、ドラゴンを倒し、若い子たちに振り回され、高級旅館の露天風呂に入っている。
前の俺が聞いたら、間違いなく酒の飲みすぎを疑うだろう。
だが、現実だ。
湯の温かさも、腹の満足感も、部屋の向こうから聞こえる楽しげな笑い声も、全部現実である。
「……ありがたいな」
俺は、小さく呟いた。
その時だった。
がらり、と戸が開いた。
「オジサーン」
「はい?」
俺は、反射的に返事をしてしまった。
そして、固まった。
真桃ちゃんたちがいた。
浴衣姿のまま、全員で。
さらに、後ろにはイナリまでいる。
「な、何してんの!?」
「足湯だけです」
「足湯!?」
「ここの端、腰掛けられるんですよ」
「いや、そういう問題じゃなくてな!」
「大丈夫です。ちゃんと見ませんから」
「見る見ないの問題でもなくてだな!」
俺は、湯の中で限界まで身を沈めた。
首だけ出ている状態である。
情けない。
非常に情けない。
だが、これが俺に出来る唯一の防御だった。
女性陣は、本当に風呂の縁に腰掛け、足だけ湯につけ始めた。
きゃあきゃあと楽しそうに笑っている。
イナリは当然のように湯へ入ろうとしたので、俺は慌てて止めた。
「お前は待て!」
「なぜじゃ」
「なぜでもだ!」
「面倒な男じゃのう」
「今日は俺が正しい!」
真桃ちゃんたちが笑う。
湯気が立つ。
星空が揺れる。
俺の心臓は、過労死寸前だった。
「オジサン、幸せそうですね」
真桃ちゃんが、ふいに言った。
俺は、返事に詰まった。
幸せそう。
そう見えるのだろうか。
いや、実際そうなのだろう。
恥ずかしい。
情けない。
落ち着かない。
だが、それでも。
「……まあな」
俺は、湯の中で小さく頷いた。
「幸せだよ。かなり」
その瞬間、五人の顔が、少しだけ柔らかくなった。
からかうでもなく、笑うでもなく。
ただ、嬉しそうに。
「なら、良かったです」
真桃ちゃんが言う。
俺は、それだけで胸がいっぱいになった。
だからだろうか。
安心したのか。
酒が回ったのか。
湯にのぼせたのか。
それとも、人生最大級の幸福に、俺のアラカン脳が耐えられなかったのか。
その後の記憶が、ない。
気がついた時、俺は布団に寝かされていた。
額には冷たい手ぬぐい。
枕元には水差し。
隣ではイナリが、俺の分だったらしい夜食のおにぎりを食べていた。
「起きたか」
「……俺は?」
「のぼせた」
「やっぱりか」
「情けない声を出して沈みかけたところを、皆で引き上げた」
「その記憶、消してくれ」
「妾は覚えておく」
「神様なら忘れてくれ」
部屋の向こうから、くすくす笑う声が聞こえた。
どうやら、全員に見られたらしい。
終わった。
何かが終わった。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
それでも、誰かに介抱され、笑われ、心配されるというのは。
それはそれで、ひどく温かかった。
「なあ、イナリ」
「なんじゃ」
「お前、やっぱり何か忘れてるんじゃないか?」
俺がそう尋ねると、イナリはおにぎりを頬張ったまま、少しだけ目を細めた。
ほんの一瞬。
いつもの食いしん坊幼女神ではない、遠いものを見るような顔をした。
「……さてのう」
それだけ言って、イナリはまたおにぎりを食べた。
俺は、それ以上聞かなかった。
今日は、幸せ回でいい。
謎は明日でいい。
そう思えるくらいには、俺は満たされていた。
布団に沈み込みながら、俺は部屋の向こうの笑い声を聞いた。
湯の匂い。
畳の匂い。
酒と料理の余韻。
そして、胸の奥に残る、どうしようもなくくすぐったい温かさ。
アラカンになって、こんな夜が来るとは思わなかった。
人生、何があるか分からない。
それは迷宮よりも、よほど厄介で。
そして、よほど面白い。
俺は、そう思いながら目を閉じた。
最後に聞こえたのは、真桃ちゃんの楽しげな声だった。
「オジサン、明日も朝風呂ですよ」
俺は、寝ぼけた頭で答えた。
「……一人で入らせてくれ」
その願いが叶うかどうかは。
たぶん、神のみぞ知る。
いや。
この場合、その神が一番信用ならないのだった。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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