肉と温泉旅館
レッサーアースドラゴン。
名前だけ聞くと、どうにも「地味な下位ドラゴン」みたいな印象を受けるが、実際には俺とイナリがそこそこ本気で挑まねばならない相手であった。
そんな奴の肉である。
しかも、ブロック肉。
赤身の中に程よく脂が差し、包丁を入れるだけで、むわっと肉の香りが立ち上る。見た目は牛肉に近いが、牛よりも野性味があり、猪よりも上品で、鹿肉ほど淡白ではない。
つまり。
「これは、焼き肉じゃな」
「焼き肉ですね」
俺とイナリの意見は、即座に一致した。
という訳で、我が家にて焼き肉パーティーを開催する事にした。
招待客は、真桃ちゃん、シィマ、マユリ、ユサ、キョウコ。
本当は、もっと色々な人を呼んで盛大にやりたいところである。蝶子とか、カヤシマのオッサンとか、女将さんとか。
だが、我が家は家賃二十万円の部屋だ。
いや、二十万円と聞けばかなり立派に思えるかもしれないが、迷宮都市の家賃相場はおかしい。二十万円払っても、カヤシマのオッサンのお屋敷みたいに、広い庭でバーベキューなど出来る訳ではない。
リビングにテーブルを置き、ホットプレートを二台並べれば、それだけで部屋の文明レベルは焼き肉屋へと低下する。
いや、上昇するのか?
その辺りは、肉の質によるだろう。
そして今回は、ドラゴン肉である。
文明レベルは、間違いなく上がっている。
「お邪魔しまーす!」
最初に飛び込んで来たのは、真桃ちゃんだった。
その後ろから、シィマ、マユリ、ユサ、キョウコが、ぞろぞろと入って来る。
五人の美少女が我が家にいる。
それだけで、独身アラカン男の部屋としては、かなり危険な空間になった気がする。
主に俺の心臓が。
「狭いけど、適当に座ってくれ」
「うわ、本当に焼き肉だ」
「肉、でかっ」
「これ、ドラゴン?」
「ドラゴン焼き肉とか、字面が強いですね」
五人は、早速テーブルの上の肉に目を輝かせた。
が、そこで真桃ちゃんが、ふと俺の顔を見た。
「……オジサン」
「ん?」
「肌、なんかツヤツヤしてない?」
「え?」
真桃ちゃんの一言に、残り四人も一斉に俺を見る。
やめて欲しい。
五人の美少女に顔を凝視されるとか、若者ならご褒美かもしれないが、アラカンには心臓に悪い。
「本当だ。なんか、つやっとしてる」
「前より顔色も良いですね」
「何かしました?」
「まさか、美容に目覚めた?」
「オジサンが?」
「最後の『オジサンが?』はいらんだろ」
俺は、思わず抗議した。
だが、確かに自覚はあった。
火山麓エリアで湧いていた温泉。
レッサーアースドラゴンを倒した後、俺とイナリは、つい誘惑に負けて入ってしまったのだ。
もちろん、探索者として危険な場所で油断するなど論外である。
論外であるが。
温泉だったのだ。
しかも天然の。
しかも迷宮の奥地の。
入らないという選択肢は、俺とイナリにはなかった。
「実はな、火山麓エリアに温泉が湧いててな」
俺がそう説明した瞬間、五人の目の色が変わった。
「温泉!?」
「迷宮の中に!?」
「入りたい!」
「絶対入りたい!」
「行きましょう、今度」
「待て待て待て待て」
俺は、慌てて両手を上げた。
分かる。
言いたい事は分かる。
俺だって、行きたい。
真桃ちゃんたちと温泉旅行。
その言葉だけで、我が人生における未練の八割くらいが成仏しそうである。
だが、駄目だ。
あそこは、まだ早い。
「火山麓エリアは、普通に危険だ。レッサーアースドラゴンが出るんだぞ」
「オジサン、倒したんですよね?」
「倒したけどな」
「じゃあ、大丈夫じゃないですか」
「大丈夫じゃない」
俺は、はっきりと言った。
「俺とイナリだけなら、逃げる判断も戦う判断もすぐ出来る。だが、五人を連れて行くとなると話が違う。しかも温泉目的なんて、絶対に油断する」
「う……」
真桃ちゃんが、少し唇を尖らせた。
可愛い。
だが、ここで折れてはいけない。
俺は大人である。
アラカンである。
責任ある大人として、若い女の子たちを危険なエリアへ連れて行く訳にはいかない。
「じゃから、まだ駄目じゃ」
イナリも、肉を前にしながら頷いた。
「おぬしらは、まずもっと足腰を鍛えよ。あと、熱い湯に長く入れる根性も必要じゃ」
「そこも必要なんですか?」
「当然じゃ。温泉を舐めるでない」
イナリの謎理論に、五人は微妙な顔をした。
だが、温泉そのものは諦めきれないらしい。
特にユサが、妙に真剣な顔でスマホを取り出した。
「じゃあ、地下都市内の旅館ならいいんじゃないですか?」
「旅館?」
「ありますよ。老舗の日本旅館。地下都市の中なのに、庭園と露天風呂があるって有名なところ」
「地下都市の中に露天風呂って、もう言葉が矛盾してないか?」
「天井が高くて、人工の空があるらしいです」
「金のかかった無駄だな」
「でも泊まりたいです」
ユサの言葉に、他の四人も「泊まりたい」と声を揃えた。
俺は、嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
そして、その予感は正しかった。
「オジサン」
真桃ちゃんが、にこっと笑う。
「予約、お願いします」
「なんで俺が」
「ドラゴン肉を振る舞ってくれるくらいですし」
「それとこれとは話が別で」
「イナリちゃんも行きたいよね?」
「うむ。旅館飯は気になる」
「ほら」
「ほら、じゃない」
俺は抵抗した。
かなり抵抗した。
だが、焼き肉の準備をしながら、五人の女子に囲まれ、イナリにまで期待の眼差しを向けられたアラカン男の抵抗など、焼けた肉の前の塩くらい儚い。
結局、俺はその場で旅館の予約サイトを開かされた。
しかも、六人部屋ではなく、男女別で部屋を取る事になった。
当然である。
当然なのだが、何故か少し寂しい。
いや、何を期待しているのだ、俺は。
大人になれ。
もう十分すぎるほど大人だろうが。
「高いな……」
宿泊料金を見て、思わず声が漏れた。
「オジサン、ドラゴン肉で稼いだんですよね?」
「稼いだが、金は有限なんだぞ」
「思い出はプライスレスです」
「そういう言葉を都合良く使うんじゃない」
「カヤシマさんたちも呼びます?」
「呼ばない。部屋代が死ぬ」
結果、俺、イナリ、真桃ちゃん、シィマ、マユリ、ユサ、キョウコの七人で旅館に泊まる事になった。
焼き肉は、当然ながら大成功だった。
レッサーアースドラゴンの肉は、焼くと脂がじゅわっと溶け、表面は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。噛むたびに、濃い旨味が口の中に広がる。
「おいしい!」
「何これ、牛じゃない!」
「ドラゴンすごい!」
「白米が足りません!」
「オジサン、おかわり!」
「自分でよそえ!」
五人は、よく食べた。
そしてイナリは、もっと食べた。
俺は肉を焼き、米を炊き、皿を出し、タレを補充し、時々自分も肉を食べた。
忙しい。
忙しいのだが、何故か楽しい。
若い女の子たちが、遠慮なく俺の家で騒いでいる。
しかも、俺の焼いた肉を美味い美味いと言って食べている。
それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
かつての俺が失ってきたもの。
得られなかったもの。
そういうものが、今さら少しずつ手元に戻って来ているような、そんな気さえした。
もちろん、戻って来たのではない。
これは、今の俺が新しく得たものだ。
だからこそ、大事にしたかった。
そして、数日後。
俺たちは、件の老舗日本旅館へ向かった。
場所は地下都市の中層区画。
商業施設や探索者向けの店が並ぶ一角から、少し外れた場所に、その旅館はあった。
入口に立った瞬間、俺は思わず足を止めた。
「……本当に旅館だな」
木造風の門。
打ち水された石畳。
竹垣。
提灯。
地下都市の無機質な通路の中に、そこだけ異世界のような和の空間が広がっていた。
いや、俺たちが普段入っている迷宮の方が異世界なのだから、もう何が異世界なのか分からない。
「すごい……」
真桃ちゃんが小さく呟く。
シィマたちも、きょろきょろと周囲を見回していた。
ユサは、すでにスマホで写真を撮っている。
「撮影、怒られないか?」
「入口だけです」
「なら良いが」
「おぬし、細かいのう」
「イナリは少し細かくなれ」
俺たちが門をくぐると、着物姿の仲居さんが、丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
その所作が、実に様になっている。
俺の中の庶民部分が、急に緊張し始めた。
高級旅館だ。
明らかに高級旅館だ。
スリッパを左右逆に履いただけで、どこかて鳴っている琴の音が止まりそうな雰囲気である。
「予約していた――」
俺が名乗ろうとした時だった。
奥から、ひとりの老人が現れた。
背筋の伸びた、いかにも老番頭といった風格の男である。
白髪をきっちり撫でつけ、深い皺の刻まれた顔には、長年この場所を守って来た者だけが持つ落ち着きがあった。
その老番頭が、俺たちを一瞥し――。
そして、イナリを見た瞬間、固まった。
「……え?」
俺は、その変化に気づいた。
老番頭の目が見開かれる。
唇が震える。
まるで、幽霊でも見たかのように。
いや、違う。
恐怖ではない。
驚き。
畏れ。
そして、懐かしさにも似た何か。
「あ、あなた様は……!」
老番頭が、声を震わせた。
その場の空気が、一瞬で変わった。
真桃ちゃんたちも、きょとんとして老番頭を見る。
俺も、イナリを見る。
イナリは――。
いつものように、首を傾げていた。
「む?」
その顔は、完全に「飯はまだかのう」と言いたげな顔である。
だが、老番頭の表情は冗談ではなかった。
彼は一歩、また一歩とイナリへ近づく。
そして、信じられないものを見るように、震える声で言った。
「まさか……本当に……」
俺は、そこでようやく理解した。
この旅館は、ただの高級旅館ではない。
そしてイナリは、ただの食いしん坊幼女神ではない。
いや、幼女神の時点で十分ただ者ではないのだが。
どうやら俺は、また一つ。
とんでもない扉の前に立ってしまったらしい。
俺は、隣で無邪気に腹を鳴らしているイナリを見下ろし、小さくため息をついた。
「……なあ、イナリ」
「なんじゃ?」
「お前、ここに心当たりあるのか?」
「ない」
「即答か」
「腹は減っておる」
「そこは分かった」
老番頭は、なおも震えていた。
真桃ちゃんたちは、興味津々でこちらを見ている。
そして俺は、胸の中で思った。
今日は温泉に入って、飯を食って、布団で寝るだけの平和な日になるはずだったのに。
どうして俺の人生は、こうも毎回、何かが起きるのだろうか。
だが。
真桃ちゃんたちがいる。
イナリがいる。
俺は、少しだけ口元を緩めた。
そして、まだ震えている老番頭に向かって、恐る恐る尋ねた。
「あの……とりあえず、チェックインしても良いですか?」
老番頭は、はっと我に返ったように姿勢を正した。
そして深々と、あまりにも深々と、イナリに頭を下げた。
「大変、失礼いたしました。すぐに、一番良いお部屋をご用意いたします」
「え?」
俺は固まった。
一番良い部屋。
それは、つまり。
料金も一番良いという事ではないのか。
「いや、予約した部屋で大丈夫です」
「いえ、そういう訳には参りません」
「いやいや、本当に大丈夫です」
「こちらの務めにございます」
「その務め、いくらですか?」
俺の切実な問いは、旅館の静かな空気の中に、虚しく吸い込まれていった。
横では、真桃ちゃんたちが目を輝かせている。
イナリは、腹を鳴らしている。
俺は、悟った。
どうやら今夜も、振り回される事になりそうだ。
そして困った事に。
俺はそれが、あまり嫌ではなかった。
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