春日井竜彦
ゴールデンアーマードボアを倒した。
そう言うと、まるで俺が勇者か何かになったように聞こえる。
だが実際には、幼女神を小脇に抱えて逃げ回り、最後は【仙人みかん】の口を閉じて首を落としただけである。
勇者というより、インチキ罠師だ。
それでも、結果は結果だった。
黄金牛に続き、ゴールデンアーマードボア。
どうやら、その話は探索者たちの間に密かに広まっていたらしい。
密かに、というのが重要である。
表立って騒がれると面倒だが、酒場やギルドの隅、迷宮帰りの休憩所などで、
「三烏のオッサン、また黄金系を狩ったらしいぞ」
「今度はアーマードボアだってよ」
「どうやって倒したんだ?」
「知らん。聞かない方が良いらしい」
などと囁かれているらしい。
聞かない方が良い、という部分だけは正しい。
俺だって、できれば思い出したくない。
あれは心臓に悪すぎた。
そんなある日の事だった。
俺の家賃二十万円の部屋には、いつものように人が集まっていた。
真桃ちゃんたちである。
真桃ちゃん、シィマ、マユリ、ユサ、キョウコ。
なぜ彼女たちが俺の部屋で、菓子を食べながら管を巻いているのか。
俺にもよく分からない。
最初は迷宮の相談だったはずだ。それがいつの間にか、お茶と菓子と雑談になっている。
若い女性たちが部屋にいるというだけなら、普通の男は喜ぶのかも知れない。だが、俺はアラカンである。
喜びより先に、部屋が散らかっていないかとか、茶菓子が足りるかとか、そういう事が気になる。
そして、更にイナリがいる。
幼女神は、真桃ちゃんに抱き上げられたり、シィマに髪を撫でられたりしながら、今日も満更でもなさそうにしていた。
「イナリ様、本当にお人形さんみたいですよねえ」
「妾を人形扱いするでない」
「可愛いです」
「……まあ、褒め言葉ならよい」
神様、ちょろい。
いや、口に出すと燃やされるので、黙っておく。
そんな時だった。
俺のスマートデバイスが鳴った。
表示された名前を見て、俺は少し固まった。
伊吹蝶子。
中学時代の初恋相手。深層エリアで活躍する女性冒険者。見た目は四十代の凛とした美女だが、実年齢は俺と同じ。そして、俺に「深層で待ってるわ」と言った女。
「誰ですか?」
真桃ちゃんが覗き込もうとする。
「いや、ちょっと」
俺は慌てて画面を隠した。
別にやましい事はない。ないのだが、名前を見られたら面倒な事になる気がした。
だが、遅かった。
「伊吹……蝶子……?」
キョウコが小さく呟いた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
「蝶子さま!?」
キョウコの目が、一瞬で輝いた。
しまった。
この子は蝶子ファンだった。
「オジサン、早く出てください! 蝶子さまを待たせるなんて!」
「いや、俺の電話なんだが」
「早く!」
「はい」
なぜ俺が怒られているのか分からない。
俺は通話を繋いだ。
「もしもし」
『柔内?』
蝶子の声が聞こえた。
相変わらず、きりっとした声だった。
それだけで、少し背筋が伸びる。
「お、おう。どうした?」
『ゴールデンアーマードボアを倒したって聞いたわ』
「耳が早いな」
『深層の情報網を舐めないで』
「舐めてはいないが、ちょっと怖い」
電話の向こうで、蝶子が小さく息を吐いた気配がした。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
『それで、聞きたい事があるの』
「何だ?」
『ドロップ品の中に、破邪に類する効果を持ったものはなかった? 武器でも、薬品でも、素材でもいいわ。アンデッドに効くもの。浄化に使えそうなもの』
破邪。
その言葉に、俺は少し眉を寄せた。
ゴールデンアーマードボアのドロップ。
黄金の装甲素材。巨大なブロック肉。魔石。
少なくとも、俺が見た範囲では、それらしいものはなかった。
「いや、特にはなかったな。素材と肉と魔石くらいだ。破邪っぽい武器とか薬品は見てない」
『……そう』
蝶子の返事は短かった。
「何か探してるのか?」
俺は聞いた。
しかし、通話の向こうは少しだけ沈黙した。
それから、
『分かった。ありがとう』
「おい、伊吹――」
言い終わる前に、通話は切れた。
ぷつり、と。
無駄話をする余地など、まったくなかった。
俺はスマートデバイスを見つめたまま、しばらく固まった。
「……切られた」
「蝶子さまらしいです」
キョウコが、なぜか満足げに言った。
「いや、俺、もう少し話しても良かったんだが」
「蝶子さまは、お忙しい方ですから」
ファンの擁護が強い。
真桃ちゃんたちは、興味津々という顔でこちらを見ていた。
「破邪って言ってましたよね」
ユサが言う。
「アンデッドに効くやつですか?」
「そうだろうな」
俺は曖昧に頷いた。
破邪。
アンデッド。浄化。
なぜ蝶子がそんなものを探しているのか。
俺が考え込んでいると、キョウコがぽつりと言った。
「……春日井竜彦さんのためですね」
その名前を聞いた瞬間、俺の中で何かが止まった。
春日井竜彦。
その名前。
耳に馴染み過ぎた名前。
忘れていた訳ではない。ただ、日常の奥に沈んでいただけだ。
幼少期からの親友。
ガキの頃、近所を走り回った。虫取りもした。秘密基地も作った。中学では同じ部活に入り、高校でも馬鹿な話をした。
俺より少し無茶で、俺より少し真っ直ぐで、俺より少し頑張れる奴だった。
高校を卒業してからは、進路が別れた。
まだ今ほど気軽に連絡を取り合える時代ではなかった。携帯電話など、誰もが持っているものではない。住所も変わり、生活も変わり、いつの間にか連絡は途絶えた。
それでも、忘れた訳ではない。
春日井竜彦。
「……今、何て言った?」
俺の声は、自分でも少し低く聞こえた。
キョウコが、きょとんとした顔をした。
「え? 春日井竜彦さんです」
「その人を、知ってるのか?」
「有名というほどではありませんけど……蝶子さまのファンなら、知っている人は知っています」
キョウコは少しだけ姿勢を正した。
まるで、大切な物語を語るように。
「蝶子さまには、かつて恋人がいたんです。探索者としてのパートナーでもあった人で、名前が春日井竜彦さん」
恋人。
探索者としてのパートナー。
俺の初恋相手と、俺の幼馴染みが。
頭の中で、情報がうまく繋がらなかった。
いや、繋がってはいる。ただ、気持ちが追いつかない。
竜彦が探索者になっていた。
しかも、蝶子と恋仲になっていた。
俺が知らない間に。
当たり前だ。何十年も連絡を取っていなかった。 互いの人生がどうなっていても、不思議ではない。
それでも、胸の奥に妙な感覚が走った。
驚き。戸惑い。少しの寂しさ。それから、もっと嫌な予感。
「その春日井さんが、どうしたんだ?」
俺は聞いた。
キョウコの表情が、少しだけ曇った。
「黄泉平坂の探索に向かった時、強力なアンデッドに出くわしたそうです」
黄泉平坂。
その名前だけで、部屋の空気が少し重くなる。
かつて、女吸血鬼メサージュの口からのみ聞いた事のあるエリア。
蝶子たちが、そこに達していたのか。
「そこで、蝶子さまを庇って……春日井さんは、アンデッド化されたそうです」
喉が詰まった。
「アンデッド化……」
「はい。そして、そのまま連れ去られたと聞いています」
連れ去られた。
死んだ、ではない。倒された、でもない。
アンデッドにされ、連れ去られた。
俺の皮膚が、ぞわりと粟立った。
頭の中に、昔の竜彦の顔が浮かぶ。
馬鹿みたいに笑っている顔。俺の肩を叩いてくる手。妙に自信満々で、でも時々失敗して、それでもへこたれない奴。
そいつが、アンデッドに。
黄泉平坂に。
今も、いるのか。
「それ以来、蝶子さまは破邪の力がある武器や薬品を探しているそうです」
キョウコは続ける。
「アンデッド化を解けるかも知れない。せめて、解放してあげられるかも知れない。そういう可能性のあるものを、ずっと」
「ロマンティックよね……」
シィマが小さく言った。
「うん……ずっと想い続けてるって事だもんね」
真桃ちゃんも、どこか夢見るような顔をしていた。
「蝶子さまらしいです」
キョウコは、うっとりしたように言う。
マユリもユサも、静かに頷いた。
女の子たちからすれば、これは悲恋の物語なのだろう。
深層で戦う凛とした女性冒険者。失われた恋人。彼を救うために破邪の力を探し続ける。
確かに、物語としてはロマンティックだ。
だが、俺にはそう思えなかった。
いや、思う余裕がなかった。
春日井竜彦は、物語の中の悲劇の恋人ではない。
俺の知っている奴だ。
子供の頃からの親友だ。
なのに俺は、今まで何も知らなかった。
探索者になっていた事も。蝶子と恋人になっていた事も。アンデッドにされた事も。
何も。
「オジサン?」
真桃ちゃんが、心配そうに俺を見た。
「ああ……いや、ちょっと驚いただけだ」
俺はどうにか笑おうとした。
たぶん、うまく笑えていなかった。
「春日井竜彦は、俺の昔の友達なんだ」
部屋が静かになった。
「友達……ですか?」
「幼馴染みだな。高校を出てから連絡は途絶えてたけど、ガキの頃からずっと一緒だった」
言葉にすると、急に現実味が増した。
俺の幼馴染み。蝶子の恋人。アンデッド。
その三つが同じ人物を指している。
胃の辺りが重くなった。
キョウコが、口元に手を当てた。
「すみません。私、知らなくて……」
「いや、謝る事じゃない。俺も知らなかったんだ」
そう。
俺は知らなかった。
知らなかったのだから、何も出来なかったのは仕方ない。
そう思いたい。
だが、心のどこかで、それでは済まないものがあった。
何十年も連絡を取らなかった。昔の友人を、思い出の中に置いたままにしていた。その間に、竜彦は迷宮で戦い、蝶子と出会い、そして失われた。
俺がどうこう出来たとは思わない。
それでも、何も知らなかった自分が、少し情けなかった。
その後、真桃ちゃんたちは少しだけ大人しくなった。
さすがに、いつものように騒ぐ雰囲気ではなくなったのだろう。それでも、彼女たちなりに気を遣ってくれたのか、明るい話題を少し出してから、ほどほどのところで帰っていった。
「オジサン、無理しないでくださいね」
真桃ちゃんがそう言った。
「何かあったら、言ってください」
キョウコも真剣な顔で言った。
俺は頷く事しか出来なかった。
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
神棚の前に、イナリが座っていた。
いつものように偉そうで、いつものように小さく、いつものように不思議な存在感を放っている。
だが、その目は少しだけ優しかった。
「友だちか」
「です」
俺はソファに腰を下ろした。
体が重い。
迷宮で戦った後の疲れとは違う重さだった。
「イナリ様」
「何じゃ」
「破邪の力のある武器とか、薬品とか、そういうものを知りませんか?」
俺は聞いた。
声が、思ったより真面目になった。
イナリは、すぐには答えなかった。
小さな手を袖の中に入れ、少し考えるように目を細める。
「知っておる、と言えるほどではない」
「そうですか」
「妾はこの地の神ではあるが、迷宮の全てを知る訳ではない。まして、深層の黄泉平坂となれば、そう簡単に分かるものではない」
「……ですよね」
期待し過ぎてはいけない。
神様だから何でも分かる、何でも出来る。そんな都合の良い話ではない。
イナリは続けた。
「ただし」
俺は顔を上げた。
「近くにあれば、感じる事は出来るやも知れぬ」
「感じる?」
「破邪の力、浄化の力、穢れを祓う類の力じゃ。妾の鬼火にも、多少はそういう性質がある。近くに強いものがあれば、気づく事は出来よう」
イナリの鬼火。
確かに、ただの炎ではない。肉体だけでなく、モンスターの魔力や存在そのものを焼くような火だ。
アンデッドに対しても効く可能性はある。
だが、竜彦を救うために必要なものが何なのかは、まだ分からない。
「それを感じた時には、すぐに教えてくれませんか」
俺は頭を下げた。
自然にそうしていた。
相手は幼女の姿をしているが、神様である。そして今は、茶化す気にはなれなかった。
「お願いします」
部屋が静かになる。
イナリは、少しだけ目を見開いたようだった。
それから、ふっと表情を和らげた。
「構わぬよ」
何でもなさそうに、そう言った。
あまりにも軽く。
だが、その声は優しかった。
「おぬしの友なのであろう」
「はい」
「ならば、見つけた時には教えてやる。妾も、その春日井竜彦とやらが、どういう男か少し気になる」
「ありがとうございます」
「ただし」
イナリは、いつものように少し偉そうな顔に戻った。
「無茶はするでないぞ」
「……イナリ様に言われるとは」
「妾は神じゃ。妾のは無茶ではなく神業じゃ」
「便利ですね、神業」
「おぬしは人じゃ。くたびれた人じゃ。無茶をすれば壊れる」
くたびれた、は余計だ。
いつもならそう言うところだった。
だが、この時は言えなかった。
イナリの言葉には、冗談の奥に本当の心配があった。
「分かってます」
俺は静かに答えた。
「すぐに黄泉平坂へ行くとか、そういう事は考えてません。今の俺じゃ無理です」
「うむ」
「でも、もし可能性があるなら……見つけたい」
破邪の武器。薬品。浄化の力。
何でもいい。
竜彦を救える可能性があるもの。
あるいは、せめて苦しみから解放できるもの。
蝶子が何十年も探しているものを、俺が簡単に見つけられるとは思わない。
それでも、知ってしまった。
昔の親友が、今も黄泉平坂にいるかも知れないと。
知ってしまった以上、何も考えずにいられるほど、俺は器用ではなかった。
イナリは、神棚の前から俺を見ていた。
幼女の姿をした神様。
その小さな顔に、珍しくからかいの色はなかった。
「おぬしは、くたびれてはおるが」
「そこは外れないんですね」
「だが、情は薄くない」
イナリは静かに言った。
「それは悪い事ではない」
胸の奥が、少し熱くなった。
俺は照れ隠しに、頭を掻いた。
「アラカンになると、昔の縁が急に重くなるんですよ」
「重いか」
「重いですね。若い頃は、いつでも会える気がしてました。でも、実際には会わないまま何十年も経つ。気づいたら、相手がどこで何をしてるかも分からなくなってる」
竜彦だけではない。
昔の友人。同級生。世話になった人。
年を取ると、そういう名前が時々胸に浮かぶ。
だが、浮かぶだけで終わる事も多い。
連絡する理由がない。今さら何を話せばいいか分からない。向こうも忙しいだろう。そんな言い訳をしているうちに、時間だけが過ぎる。
そして、ある日突然、取り返しのつかない形で名前を聞く。
春日井竜彦。
俺は、もう一度その名を心の中で呼んだ。
「まさか、あいつが蝶子と付き合ってたとはな」
ぽつりと呟く。
「そこは気になるのか」
「そりゃ気になりますよ。俺の初恋相手ですよ」
「嫉妬か?」
「いや、何十年も前の話ですから」
「では、悔しいか」
「……少し」
正直に言ってしまった。
イナリが、意外そうに俺を見る。
「少しだけです。別に、蝶子とどうこうなりたかった訳じゃない。今さらそんな話でもない。でも、竜彦がそういう人生を歩いていた事を知らなかったのが、少し悔しい」
おめでとう、とも言えなかった。
冷やかす事も出来なかった。
俺が知らないところで、二人は出会い、並んで戦い、恋人になり、そして引き裂かれた。
その時間に、自分がまったく関われなかった事が、妙に寂しかった。
「人は面倒じゃな」
イナリが言った。
「本当に」
俺は苦笑した。
「妾なら、好きなものは好き、美味いものは美味い、戦うものは戦う。それだけじゃ」
「シンプルで羨ましいです」
「おぬしも少しは見習え」
「神様みたいにはいきませんよ」
俺はソファに深くもたれた。
天井を見る。
家賃二十万円の部屋の天井。
神棚。幼女神。迷宮。黄金のモンスター。初恋相手。幼馴染み。黄泉平坂。
俺の人生は、また面倒な方向に曲がり始めている。
だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
怖い。重い。面倒だ。
それでも、竜彦の名前を聞いてしまった。
なら、少しずつでも進むしかない。
「深い所に行く理由が、また増えましたね」
俺は言った。
「美味いものだけでは足りぬか」
「足りますけど」
「足りるのか」
「足りる部分もあります」
俺は少し笑った。
「でも、今回はそれだけじゃないです」
イナリは静かに頷いた。
「ならば、少しずつ行くがよい。焦って黄泉平坂に向かえば、おぬしも同じ目に遭うやも知れぬ」
「分かってます。まずは力をつける。装備も整える。情報も集める」
「そして、美味いものも食う」
「そこは外せないんですね」
「外せぬ」
イナリは真顔だった。
俺は、ようやく少しだけ笑えた。
重い話の中に、いつもの調子が戻ってくる。
ありがたい事だった。
ずっと深刻なままだと、俺はたぶん保たない。
アラカンの心は、思ったより繊細なのだ。
「イナリ様」
「何じゃ」
「今度、いなり寿司を少し良いやつにします」
「ほう」
イナリの目が光った。
「供え物か」
「まあ、そんなところです。協力のお礼というか、前払いというか」
「良い心がけじゃ」
「現金な神様ですね」
「神への供物は大事じゃ」
イナリは満足そうに頷いた。
その姿を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
春日井竜彦。
黄泉平坂。
破邪の力。
すぐにどうこう出来る話ではない。
今日、この部屋で何かが解決した訳ではない。
だが、道の先に一つ、目印が増えた。
深層へ向かう理由。
蝶子に会うためだけではない。美味い肉を食うためだけでもない。
昔の友を、もう一度見つけるため。
助けられるのか。解放するしかないのか。そもそも会えるのか。
何も分からない。
それでも、俺はその名前をもう忘れたふりは出来ない。
イナリが、ふと柔らかい声で言った。
「くたびれた男よ」
「はい」
「今日はもう寝よ。考え過ぎると、腹が減る」
「そこなんですか」
「腹が減ると、ろくな考えにならぬ」
「それは一理ありますね」
俺は立ち上がった。
台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。
残っていたいなり寿司を皿に乗せ、神棚の前へ置いた。
イナリは満足そうにそれを受け取る。
俺は自分用に茶を淹れた。
湯呑みを手に、もう一度ソファに座る。
窓の外に、地下都市の灯りが見えた。
本物の夜ではない。本物の空でもない。
それでも、今日の俺には少しだけ遠く感じた。
「竜彦」
小さく名前を呼んだ。
返事はない。
あるはずもない。
だが、いつか。
いつか、何らかの形で返事を聞ける日が来るのだろうか。
分からない。
分からないまま、俺は茶を一口すすった。
深層への道は、また少し重くなった。
けれど、不思議と足元は前よりはっきりした気がした。
美味いものを探しながら。膝と腰を気にしながら。幼女神に振り回されながら。
その先に、昔の親友の影がある。
だったら、まあ。
ゆっくりでも、行くしかないのだろう。
俺はそう思いながら、湯呑みを置いた。
イナリは、いなり寿司を頬張りながら、何も言わずにこちらを見ていた。
その目が、いつもより少し優しかった。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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