カニの夜
タイタン・クラブを狩った翌日、急遽、俺は新居でカニパーティーを開催した。
出席者は、真桃ちゃん、カヤシマのオッサン、クラタ、エグサ、ミショウ、『はるか』の女将である。
ギルドや派遣事務所には、別に差し入れをしておいた。それぐらい、今回のカニ肉のドロップは大量だったし、それを全て【仙人みかん】で持ち帰れたのも幸いした。
しかも、カニ肉はドラゴンみたいなブロック肉じやなく、なぜか甲羅や脚に入っていた。それも、タイタン・クラブのサイズじゃなく、普通のカニのサイズで。
ダンジョンさん、分かっていらっしゃる。
調理担当は、女将とクラタ。酒担当は、カヤシマのオッサン。
俺は真桃ちゃんを侍らせて、美味しい物を堪能するだけだ。
――で、結論から言おう。
この日、俺は“カニ”という食材に対する認識を根底から覆された。
いや、マジで。
「ほら柔内くん、ぼーっとしてないで座りなさいな。冷める前が一番なんだから」
『はるか』の女将が、慣れた手つきで卓上の大皿を並べていく。その一皿一皿から、もう香りが違う。生臭さなんて欠片もない。むしろ、甘い。蟹特有の、あの上品な甘い香りが、湯気に乗って鼻腔を直撃してくる。
俺は言われるまま席についたが、正直、もうこの時点で軽くトリップしかけていた。
「おーおー、いい顔してるじゃねぇかジュウナイ。こりゃ今日の酒は進むぞ」
カヤシマのオッサンが笑いながら、見たこともないラベルの酒瓶を掲げる。琥珀色の液体が揺れるたびに、濃厚な香りが漂った。
「その酒、どこから……」
「ちょっとな。こういう日は出し惜しみしねぇ主義だ」
ニヤリと笑う顔は、完全に“仕事を終えた男”のそれだ。俺も似たようなものだが、あの人は酒が絡むとさらにタチが悪い。
「はいはい、男同士で盛り上がるのは後にして。まずはこれからよ」
女将が、最初の一皿を俺の前に置いた。
――カニの刺身。
それもただの刺身じゃない。透明感のある白い身が、まるで宝石みたいに輝いている。ほんのり桜色に透けて、端にはじわりと甘い汁が滲んでいた。
「……嘘だろ」
思わず呟いた。
カニを生で? いや、食えるのは知ってる。知ってるが――こんな“完成された姿”で出てくるとは思わないだろ。
「タイタン・クラブは特別よ。鮮度さえ保てば、生で食べるのが一番旨い部位もあるの」
女将がさらりと言う。
俺は箸を持ったまま、しばし固まった。
「オジサン、早く食べないと……その、私も気になります」
隣で真桃ちゃんが、期待に満ちた目でこちらを見ている。ああ、そうだな。これはもう、いくしかない。
俺は意を決して、ひと切れを口に運んだ。
――その瞬間。
「……っ、は?」
言葉が、出なかった。
噛んだ瞬間に、溶けた。
いや、本当に。歯を入れた感触がほとんどないまま、繊維がほどけて、舌の上で甘味が爆発する。濃厚なのにくどくない。むしろ、水のように澄んだ甘さが、喉の奥まで一気に流れ込んでいく。
「な、なんだこれ……」
「美味しい……!」
真桃ちゃんも同じものを食べて、ぱっと顔を輝かせた。その笑顔がまた、妙に現実感を削ってくる。
いや、これはヤバい。いきなりピークを持ってくるな。
「まだ前菜だぞー」
クラタが、火の番をしながらニヤニヤしている。
その背後では、既に巨大な鍋がぐつぐつと音を立てていた。白濁した出汁の中に、ぶつ切りにされたタイタン・クラブの脚が沈んでいる。殻の赤と、湯気の白が、妙に食欲を刺激するコントラストを作っていた。
「順番ってもんがあるだろうが……!」
「あるよ。ちゃんと考えてる」
クラタは自信満々だ。
そしてその言葉通り、次々と料理が運ばれてきた。
焼きガニ。
炭火でじっくりと炙られたそれは、殻の隙間から香ばしい香りを漏らしている。身をほぐして口に入れれば、今度は“焼き”による旨味の凝縮が牙を剥いた。
「……濃い」
思わず呟く。
さっきの刺身が“透明な甘さ”なら、こっちは“圧縮された旨味”だ。噛むたびに、カニのエキスがじわじわと滲み出してくる。
「酒、いくか?」
「ああ、くれ……」
差し出された盃を受け取り、一気に流し込む。
――合う。
くそ、完璧に計算されてやがる。
「どう? 柔内くん」
女将が楽しそうに尋ねてくる。
「……幸せすぎて怖いです」
本音だった。
こんなもん、ダンジョンで命張ってなきゃ一生食えないだろう。
その後も、蒸しガニ、カニ味噌の甲羅焼き、ほぐし身の酢の物と、怒涛の攻勢が続いた。
特にカニ味噌はやばかった。
「これ、酒泥棒どころじゃねぇな……」
「でしょ? だから多めに持ってきたのよ」
女将が笑う。
濃厚な味噌をちびちび舐めながら酒を飲むと、もう止まらない。理性がどんどん溶けていく。
そして――
「そろそろ、メインいくぞ」
クラタの声で、場の空気が変わった。
全員の視線が、あの鍋に集まる。
蓋が開けられた瞬間、湯気が爆発した。
白い霧の中から、赤く色づいたカニの脚が姿を現す。出汁はすでに黄金色に変わり、表面には脂がきらきらと浮かんでいた。
「……やば」
誰かが呟いた。たぶんエグサだ。
「よし、取り分けるぞー」
クラタが手際よく具材を配っていく。カニの脚、身、そして野菜。すべてが出汁を吸って、見るからに旨そうだ。
俺は、震える手で箸を伸ばした。
まずは、脚の一本。
殻を割ると、中から湯気と共に白い身が顔を出す。ぷりっとした弾力。滴る出汁。
それを、そのまま口に入れた。
――限界だった。
「っ、っっ……!」
言葉にならない。
熱い。でも、その熱さすら快感に変わるレベルで旨い。出汁を吸った身が、噛むたびにじゅわっと広がる。
「どう、オジサン……?」
真桃ちゃんが覗き込んでくる。
俺はしばらく答えられなかった。
ただ、こくこくと頷くしかない。
「……うまい、とかそういう次元じゃない」
やっと絞り出した言葉がそれだった。
鍋は、凶器だ。
全ての料理の頂点が、ここにある。
全員が無言になった。
ただひたすら、食う。啜る。飲む。
会話なんて不要だった。
やがて――
「さて」
女将が、静かに言った。
「シメ、いくわよ」
来た。
カニ雑炊。
鍋に残った出汁に、ご飯を投入する。さらに溶き卵が流し込まれ、ふわりと広がる。最後に、ほぐしたカニ身がたっぷり。
香りだけで、もう駄目だった。
「これは……反則だろ……」
俺は呆然と呟いた。
器によそわれたそれは、黄金色に輝いていた。卵の柔らかさと、カニの繊維が絡み合い、見た目からして“完成されている”。
一口。
口に入れた瞬間、全てが繋がった。
これまでの料理が、全部ここに集約されている。
出汁の旨味。カニの甘味。卵のまろやかさ。米の優しさ。
それらが一体となって、静かに、しかし確実に脳を侵食してくる。
「……終わったな」
俺はぽつりと呟いた。
「何が?」
カヤシマのオッサンが笑う。
「俺の中の“食”の基準が」
こんなのを知ってしまったら、もう普通の飯じゃ満足できない。
だが――
それでもいい、と思った。
それだけの価値が、この一杯にはあった。
気づけば、俺は最後の一滴まで掬っていた。
器を置いた瞬間、全身から力が抜ける。
「……ごちそうさまでした」
自然と、頭が下がった。
女将とクラタは、満足そうに笑っていた。
その夜。
俺はしばらく、まともに動けなかった。
満腹と、多幸感と、ほんの少しの喪失感。
――ああ。
これが、“痺れる”ってやつか。
俺は天井を見上げながら、ぼんやりとそう思った。
これは、まだしばらく迷宮探索者はやめられそうにないな。
ドラゴンはともかくとして、迷宮牛とタイタン・クラブは定期的に狩りに行かないといけない。
それに、もっと他にも美味い迷宮素材がある筈だ。
食い気の為に探索者を続けるのも、良いじゃないか。
さあ、他にどんな素材があるのかな?
肉、海鮮と来たから、野菜やキノコ?果物って線もあるし、それこそ酒もあるかも知れない。
なんにせよ、情報収集だな。
俺は心の中でニンマリと微笑んだ。
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