75 帰ろう
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
マデライン・ギーベル:王妃、アーサー達の母
リリー・ストラスタ:イーリンの友人、侯爵令嬢、第二王子ルイスの婚約者
ストラスタ侯爵:リリーの父、マクスウェル公爵と同様の穏健派
アルバート・ボンベルグ:ルイーゼの父、辺境伯
ベッドの上で、徐々に冷たくなっていくアーサーに、ルイスは縋りついた。
「申し訳ありません。兄上……。」
肩を震わせて泣くルイスを、ヘンリーたちは、後ろから黙って見守っていた。
しばらくすると、ヘンリーが口を開き、静かな声で言った。
「……娘と地下でお会いした時、マデライン様はおっしゃったそうです。アーサー殿下は、自分が連れていくと。」
「……。」
ルイスは顔を上げ、アーサーが見ていた場所を眺めた。今はもう、あの優しい香りはしなかったが、その虚空には、きっとあの人がいたのだろう。
「母上には、分かっていたのでしょう。」
表向きには幽閉とされたものの、実のところ、最初からアーサーは処刑される予定だった。罪が重い上、幽閉のまま置いておけば、争乱の種になりかねないからだ。
しかし、ルイスが極刑をためらった。母は亡くなり、父は病み、まともに話ができる状態ではない。その上、実の兄に手をかけることは、まだ少年のルイスには荷が重すぎた。
だから、ウェナムが抜け、正気に戻るまでの間、アーサーに猶予が与えられた。アーサーに反省のきざしがあれば、いったん処刑を見送ることも検討されていた。
しかし、正気に戻ったアーサーに、ルイスが期待していた変化はなかった。そのため、予定通りに刑が執行されたのだ。
「赦されないことだったのですね。」
ルイスは、涙を拭った。
甘さが、また次の争乱を生む。これから王となるルイスは、それを学んでいかなくてはならない。
「さあ、もう行きましょう。これからのことは、我々もお手伝いさせていただきます。」
ヘンリーが、ルイスの肩に手をかけ、優しく促した。ルイスが振り向くと、ストラスタ侯爵やアルバートも、穏やかに笑って頷いた。
「ありがとうございます。」
ルイスは立ち上がり、アーサーに別れを告げた。そして、扉を開け、ヘンリーたちとともに、塔の長い階段を静かに降りていった。
塔の下で待っていたクリスは、疲れた顔をして降りてきた父親を見ると、声をかけた。
「終わりましたか。」
「ああ。後は頼むぞ。」
「承知しました。」
クリスは兵たちを連れ、塔の上へ上がった。
部屋に入り、ベッドに横たわるアーサーの遺体を見て、クリスはつぶやいた。
「何だい。意外と穏やかな顔をしているじゃないか。」
(これなら、もう一回くらい蹴っていてもよかったかな。)
クリスは、全くアーサーに同情していなかった。イーリンに手を出したということもあるが、そもそも、生まれも育ちも恵まれていたくせに、それを全く生かせない愚か者だと思っていたからだ。
(真っ当で、心優しい弟は、最後までお前を見捨てなかったのにな。)
ここでどんなやり取りがあったのかは知らない。しかし、どうせ助けようとしたルイスを裏切るような、しょうもないことを口にしたのだろう。
イーリンへの謝罪など、この男の頭にはない。アーサーにとって、イーリンは自分の所有物であり、アーサーの部屋の壁のように、きまぐれに傷つけられる存在だからだ。
キャサリンも、アーサーも、イーリンがもたらすものの大きさが分からない点では、似た者同士だった。
クリスの指示で、解かれた縄や倒れた椅子は、てきぱきと片付けられた。クリスは、2人がかりで運ばれていくアーサーを見送りながら言った。
「今なら、少しは理解できるのかな。」
──そんな顔で死ねたのも、マデライン様を助けたイーリンのおかげなんだよ。
マデラインとアーサーの葬儀は、同時に執り行われることとなった。
アーサーは、幽閉中の環境が合わず亡くなり、身体の弱かったマデラインは、最近に起きた様々な出来事に耐えられず、病死したということにされた。
王城で行われた葬儀には、イーリンたちも参列した。
ヘンリーやクリスに続いて、ファンを伴ったイーリンが現れると、人々は注目した。白い喪服を身に纏い、しずしずと歩いていく姿には、静謐な美しさがあった。
「聖女様だ。」
誰かが小さな声で言った。
イーリンが、花をアーサーに捧げて祈ると、参列者たちにざわめきが起きた。自分を殺そうとした相手を赦した、さすがは聖女だと。
(こんな時まで、聖女などと言わないでやってほしい。)
隣にいるファンには、イーリンの震える手が見えていた。彼女は、まだアーサーが怖いのだ。
しかし、アーサーのために祈るイーリンの姿に、嘘はなかった。
彼女の中に、アーサーへの恨みなどない。持って生まれた性質によって、恨めないのだから。
だから、彼女は死者としてのアーサーを悼み、彼のために祈る。シルウァの愛する、美しい心のままに。
ファンには、愛しい人を苦しめたアーサーのために祈る心はなかった。形だけの祈りを捧げると、行きましょうとイーリンを促した。
イーリンは、ファンの促しに気づくと穏やかに微笑み、それに従った。イーリンとファンの心の中は異なっていたが、2人は、お互いを理解し合うことができていた。
ざわめきは徐々におさまり、人々は、マデラインとアーサーの棺の前で、2人のために祈りを続けた。
その中で、国王はただ棺を見つめ、じっと座っていた。国王は、まだ采配ができるほどには回復しておらず、実際に葬儀を取り仕切ったのは、ルイスたちだった。
マデラインたちの棺が墓所に運ばれていくときも、国王は眉一つ動かさず、一言も発さず、棺の方をただ眺めているだけだった。
「お二人の魂は、どうされているのかしら。」
葬儀から数日経ったころ、ファンと館の庭を歩きながら、イーリンはぽそりと言った。後ろにはアンナが控えており、ピーターはそばで庭の手入れをしていた。王都に戻ってからのピーターの努力で、庭は往時の美しさを取り戻しつつあった。
「意外とマデライン様が、こってりと叱っているところなんじゃないですか。この馬鹿息子!って。」
「まあ。」
ピーターが冗談めかして言ったが、イーリンは、それも悪くない気がした。線の細い、優しげなマデラインが、大きな息子を叱りつけているのは想像できないが、アーサーの耳に届くのは、マデラインの言葉だけだろうからだ。
アンナが、頬に手を当てて言った。
「母親の説教が永遠に続くというのも、なかなかの地獄ですけどね。」
「でも、しばらくは嬉しいんじゃないの。ずっと母親に会いたかったんだろ、あの人。」
クリスから聞いていた通り、アーサーの顔は、毒を飲んだとは思えないほど穏やかだった。
ウェナムに侵されていたとき、アーサーはマデラインの幻を見ていた。しかし、最期はおそらく本当のマデラインと出会えたのだ。
(マデライン様は、殿下を救われたのね。)
──死の瞬間に、闇に囚われないように。
マデラインを求めたアーサーは、今は幸せなのだろうか。心安らかなら、それが何よりだと思う。
しかし。
イーリン自身は、アーサーにされたことを忘れられたわけではなかった。
聖女と言われると、つらくなる。アーサーに対する愛も赦しも、自分は持ってはいない。自分にあるのは、もう二度と会うことはない、という安堵だけだ。
イーリンは、右の手のひらを見た。ジョンのナイフで切られた傷の跡は、薄くはあるが、やはり残った。雨の日には時々痛み、それに伴って、嫌な記憶が蘇ることがある。
「痛むのですか。」
傷を見ているイーリンに、ファンが、心配そうに声をかけた。
「いいえ、大丈夫よ。」
マデラインと間違われ、アーサーに抱きつかれたこと、そしてその後に起きたことを思い出すと、今でも身の毛がよだつ。
(でも、ファンが助けに来てくれた。)
とても嬉しかった。そして、ファンは自分のために怒ってくれた。
以前は、こんなに疎まれるなら、自分が消えた方がいいのではないかと思っていた。でも、今は違う。ファンだけでなく、家族も、アンナも、ピーターも、シルウァも、自分を大切に思ってくれているのが分かる。
(だから、大丈夫なの。)
「何ですか、お嬢様。難しい顔をしたり、笑ったり。」
「え、あら、あの。」
イーリンは、アンナに言われて動揺した。いつの間にか、顔が緩んでいたらしい。
どうせ、ファンのことを考えていたんでしょう、とピーターに言われた。
「気を抜いていたら、また餌食になりますよ。皆、おめでたい話題に飢えているんですから。」
そうだった。この前は、ファンと一緒に呼び出され、父ヘンリーにまで色々と聞かれた。
(お父様は、お姉様にもこんなに色々と聞いたのかしら。)
姉のマリアが、素直に応じるとは思えないが。
(それに……。)
父親が、こんなに色々と話を聞いてくれるものだとは思っていなかった。以前の自分は遠慮しすぎていたのだと、しみじみ思う。
「おめでたい話なら、ルイス殿下とリリー様の方が先ですよ。喪が明けたら、結婚式をされるのでしょう。」
ファンが、話をそらすように言った。
「そうでしたわね。」
リリーは今後、正式に王太子妃となり、いずれ王妃となる。ストラスタ侯爵とともにルイスを支え、2人の絆はより深まっているようだった。
「楽しみだわ。リリー様の花嫁姿は、きっとお綺麗でしょうね。」
うっとりとした目でイーリンが言うと、ピーターがすかさず口を出した。
「お嬢様は、いつになるんですか?」
イーリンはまた、うろたえた。
「ま、まだ決まっていないの。」
「決まっているわけないでしょう。マクスウェル家も大変だったんですから。」
イーリンは頬を染め、ファンはあきれたように言った。
兵の大部分は領地に帰したが、ヘンリーやクリスはまだ忙しく、今日も登城している。邪魔になってはいけないので、先に領地に戻ろうかと言ったのだが、寂しいから嫌だとクリスに泣いて止められた。
「なんで、クリス様までお嬢様と離れなくなっているんですか。」
「わからないわ。なんでも、『今まで我慢してきたからイーリンが危ない目に遭った、だからもう我慢しない』とかなんとかおっしゃっていたけど。」
「言い訳ですね。」
ファンたちが話しているのを聞きながら、イーリンは軽くため息をついた。
「お兄様の助けになるのはいいのだけど、お母様にも会いたいし、シルウァ様にもご挨拶したいわ。」
一人で領地を守る母ソフィアのことも気になるし、多くの場面で助けてくれたシルウァには、直接感謝を伝えたい。どうしようかしらとイーリンが考えていると、軽やかな笑い声が聞こえた。
「大丈夫だよ。ずっと閉じ込めておくつもりはないから。」
王城から戻ってきたクリスが、笑いながら門の方から歩いてきた。ピーターはそれを見て、しれっとした顔で庭の手入れを再開した。
「お兄様。もう、今日のお務めは終わりなのですか。」
「ああ。悪口が聞こえてきたので、私はこちらに来たんだけどね。父上は先に館の方に戻っているよ。」
クリスは、マデラインたちの葬儀も終わり、大分王城の中は整ってきたと教えてくれた。マクスウェル領との交易も再開し、街も平時の状態が戻りつつあるという。
クリスは、にっこりと笑って言った。
「もう少ししたら、王都も落ち着く。そうしたら、マクスウェル領に帰ろう。皆で。」
お読みいただいてありがとうございます。大分終わりに近づいてまいりました。あと少しですが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




