72 恩情
★今回流血表現あります。苦手な方はお読みにならないようにしてください。
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
「だから、死を前にしても、悔い改めることは無駄ではありませんわ。」
イーリンが優しく微笑んで言うと、キャサリンは顔色を変えてわめきはじめた。
「あなた、どこかおかしいんじゃないの!? 死んじゃうって言ってるじゃない。この人殺し!」
キャサリンが激昂し、イーリンに飛びかかろうとした。ファンはとっさにイーリンを後ろに庇い、兵士がキャサリンを床に押さえつけた。
取り押さえられながらも、キャサリンはイーリンを見上げて罵っていたが、クリスの命令で猿轡をはめられてしまった。
クリスは、申し訳なさそうにイーリンに言った。
「ありがとう、イーリン。もういいよ。もう何も聞かなくていい。嫌な思いをさせたね。」
「お兄様。私は大丈夫ですわ。」
イーリンが微笑んでクリスに返すと、ファンが振り向いて言った。
「クリス様の言う通りです。私はあなたに、もうあの女の声を聞かせたくない。」
ファンは、心配した顔をして、イーリンの耳にそっと手を当てた。大きなその手を愛しげに触れ、イーリンは言った。
「……そうですね。私も、もうお話しすることはありません。」
イーリンのその言葉を聞き、キャサリンは目を大きく開いた。
「んんー!」
「さようなら、キャサリン様。」
イーリンはキャサリンの方に向き直り、丁寧に礼をして別れを告げた。
イーリンがファンと共に、牢の扉の方へと向かおうとしたとき、キャサリンが激しく身をよじって暴れ始めた。
「ま、待って!」
身悶えした拍子に猿轡が外れ、キャサリンの声が牢に響いた。しかし、キャサリンの目はイーリンではなく、ファンの方に向いていた。
「その方と、少しだけ、少しだけでいいからお話しさせて!」
ファンは振り向き、キャサリンを一瞥した。それは、普段の穏やかなファンからは想像できないほど、冷たい目だった。
「あなたと話すことなどありません。私は、ウェナムを悪用したあなたなど、大嫌いだ。」
「そんな!……むぐっ。」
キャサリンは、再び兵士たちに猿轡をされた。心配そうに自分を見上げるイーリンを、ファンは優しく抱き寄せた。
「さあ、行きましょう、イーリン。いいですね、クリス様。」
「もちろんだ。2人とも協力してくれてありがとう。」
イーリンたちが扉の外に出ても、クリスは牢の中にとどまったままだった。イーリンは、クリスが動こうとしないのを不思議に思い、尋ねた。
「お兄様は、一緒に出られないのですか?」
「私は、もう少しやることがあってね。先に帰っていておくれ。」
「そうなのですね、分かりました。」
そうしているうちも、キャサリンは唸り続けていた。しかし、イーリンとファンは、そのまま振り返ることなく、地下牢を後にした。
イーリンとファンの足音は次第に遠くなり、消えた。
クリスは、2人が地下から出て行ったのを確かめさせたあと、兵士たちも出て行かせた。牢の中には、クリスとキャサリンの他は、クリスの従者2人だけとなった。
クリスはキャサリンを座り直させると、従者に猿轡を外させた。
「さて、話をしようか。」
「何よ……。また人を馬鹿にする気なの。」
キャサリンにとっては、ファンの拒絶が一番こたえたらしい。その頬には、涙の筋があった。
「……だいたい、わかったよ。君、イーリンがうらやましいんだろう。」
「私があの女を? どうして。」
「イーリンのものばっかり欲しがっているじゃないか。」
「あの女のもの? いいえ、全部元々私のものよ。あの女さえいなければ、私がもらうはずだったものばかりよ。」
「アーサーも? 王妃の座も? 公爵家の娘という立場も?」
「そうよ。私にこそふさわしいんだから。」
「そういう考え方なのか。」
アーサーはともかく、こんな妹いらないけどなあ、とクリスは思った。
「それにしても、ずいぶん彼にご執心だったねえ。」
クリスがそう言うと、キャサリンは目を伏せ、がくんと首を垂れた。
「せっかく……素敵な方に出会えたのに。ひどい人たち。最後に願いを叶えてくれたっていいじゃないの。」
「彼とは、ついこの間、一回会っただけだろう。なぜそんなに彼にこだわるんだい。」
「私だって、こんな気持ちは初めてよ……。それもまた、あの女が奪っていくわ。」
ふん、とキャサリンは横を向いた。
「……君も同じか。」
クリスは、キャサリンをじっと見つめた。そして、優しい口調で語りかけた。
「あのね、彼を手に入れたって、あれは手に入らないよ。あれは、イーリンと彼だけが作れるものだから。」
「何よ、あれって。」
「君が欲しいものさ。」
「……。」
キャサリンは、何も言わずにクリスを見つめ返していた。
「君は、彼が欲しいんじゃない。彼とイーリンの間にできる、あれが欲しいんだ。」
「……あなたに、何が分かるっていうのよ。」
「分かるさ。私も、君と同じような人間だからね。」
自分に優しく微笑むクリスを見て、キャサリンは怪訝な顔をしていた。クリスが何を考えているのか、推し量っているようだった。
「さて、君には、私から恩情を与えてあげようと思ってね。」
「え、なあに? 助けてくれるの?」
キャサリンの顔がぱっと明るくなると、クリスは、にっこりと笑った。
クリスが合図をすると、従者が素早くキャサリンに猿轡をはめた。そして、2人がかりで身体を押さえつけた。急に乱暴な扱いを受け、キャサリンは戸惑い、きょろきょろとしていた。
「叔母上の言うとおり、最初は舌でも切ってやろうかと思ったんだけどね。触りたくないし。切り刻むのも、私の趣味ではないし。」
クリスは、懐からジョンのナイフを取り出した。数々の人の血を吸ってきたその刃が、ぎらりと光った。
「それに、私は、あの闇に飲まれたときに思ったよ。君たちみたいになりたくないってね。だから、君たちと同じようなことはしたくないんだ。」
だから恩情で、火刑の前に楽にしてあげる、とクリスは言った。
キャサリンはナイフを凝視し、首を激しく横に振った。
「何だい、私は優しいじゃないか。生きながら火炙りの方が、ずっと苦しいだろう。」
キャサリンは、目から涙を流し、必死に情けを乞う様子を見せた。それは、いたく哀れみを誘う仕草だったが、クリスはきょとん、とした表情をした。そして、おかしそうに笑った。
「ははは、私は君と同じような人間なんだって言ったろう。だから、君を可哀想などと思わないし、君の恐怖や苦しみは、分かってあげられないんだよ。」
キャサリンは目を見開き、憎しみを込めてクリスを睨みつけた。それは、先程イーリンに向けたものよりも、ずっと激しい恨みをこめたものであった。
クリスはその視線を受け、満足そうに笑って言った。
「そう。君の最期に、その目に映るのは私だ。忘れてはいけないよ。」
クリスはキャサリンの頭を左手で鷲掴みにし、右手に持ったジョンのナイフを、キャサリンの白い喉に当てた。そして、ナイフをそのまま勢いよく横に引いた。
「……!」
キャサリンの首から血が噴き出し、どさりとその身体が床に倒れた。クリスは、足元に転がったキャサリンを見ながら、表情を変えずに言った。
「縄を解いたとたん、突然、私から仲間のナイフを奪って自害した、ということでいいかな?」
「はい。」
従者は、動かなくなったキャサリンの縄をたんたんと解き、血溜まりの中に放り投げた。
「亡骸は火刑にするからね、そのまま置いておいて。」
「承知しました。」
従者にキャサリンの後始末を任せると、クリスは牢から出ていった。
クリスが地下牢から外に出てくると、ファンが待っていた。
「イーリンはどうしたんだい? 君たち、離れないんじゃなかったのか。」
「アンナに頼んで、先に行ってもらいました。……何ですか、その血は。」
「いや~。まいった、まいった。油断したなあ。ナイフを取られちゃってさあ。」
「……演技が、下手すぎます。」
クリスの服の血を見て、ファンはため息をついた。
「イーリンと約束したのでしょう。いいのですか。」
「ばれたら、怒られるかなあ。」
「悲しむでしょう。イーリンは、あなたにだけ背負わせたくないのだから。」
クリスは、ふう、と息を吐き、悲しませるのは嫌だなあ、と言った。
「でもね、これが私なりの『一緒に背負う』やり方だよ。イーリンの背負えるものには、限りがあるだろう。」
イーリンがその性質ゆえに狙われるのなら、イーリンだけでは全てを受け止めきれない。ならば、周りの者が引き受ければいい。クリスはそう考えた。
「私はね、イーリンがいれば、『人』でいられるんだ。ファンは分かっているだろう。あの闇の中、私だけがあいつに誘われていた。」
「……。」
「闇に誘われた私を、イーリンと君が助けてくれた。イーリンと君が幸せでいてくれたら、それが私の幸せだ。」
クリスは真剣だった。危うい自分が『人』でいるために見出したものは、『イーリンを愛し、守ること』だった。それに従っていれば、自分は満たされ、道を大きく踏み外すことはない。
「……イーリンだって、自分を犠牲にしすぎないように頑張っているんです。兄のあなたも一緒ですよ。やりすぎたら、私は止めますからね。」
「分かったよ。」
「着替えてから、帰ってきてくださいよ。」
「はいはい。」
イーリンの所へ向かうファンの後ろ姿を見て、クリスはひとりごちた。
「頼もしい義弟だなあ。」
キャサリンたちに比べ、自分は恵まれているのだろう。愛するイーリンがいて、ファンにも出会えた。
これからも、闇に誘われることはあるかもしれない。しかし今は、イーリンたちから得られる満たされた気持ちを、決して失いたくはなかった。
お読みいただいてありがとうございます。次回は、アーサーの方に話が移っていきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




