69 マデラインの魂
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
シャーロット・ギーベル:王女、国王の末娘
マデライン・ギーベル:王妃、アーサー達の母
ブラム・バクスター:侯爵、王妃マデラインの兄
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
しばらくすると、パー家の館は、石造りの部分を残して崩れ落ちた。
陽の光に照らされた家の跡には、もはや重苦しい雰囲気はなく、恐ろしい惨劇が起きた場所とは思えなかった。煙に燻されたにもかかわらず、周囲の草木はむしろ生き生きとした艶を取り戻し、それらもまた、解放されたことを喜んでいるように見えた。
「シルウァ様、さすがだなあ。あの方、やっぱりすごいんだなあ。」
ピーターは、ほう、と息を吐いて言った。
焼け跡を確認すると、あの不気味な像も盥も、跡形もなく消えていた。地下室の扉も焼け落ちており、ぽっかりとした穴だけが、ただ開いていた。
(マデライン様も、旅立たれたのかしら。)
イーリンは、空を見上げた。先程の闇が嘘のように、抜けたような青空が広がっていた。亡くなった後、あのような恐ろしい闇に取り込まれていたのなら、その苦しみはいかばかりであったろう。
⦅マデラインと、話してあげておくれ。⦆
「えっ……。」
指輪から、シルウァの声が聞こえた。その声は穏やかで、もはや悲しみは感じられなかった。
次の日、イーリンは白い花束を持ち、マデラインの棺のある地下室を訪れていた。地下室の中には、ファンとアンナだけがともに入った。
イーリンたちは、蓋が外された棺の前に膝を折り、マデラインに花を捧げた。棺の中の顔は、クリスたちが言った通り生前のままで、まるで眠っているかのようだった。
「マデライン様。森の主、シルウァ様のお使いで参りました。」
イーリンは、マデラインに呼びかけ、祈った。
地下室はしんとしていて、今は、優しい花の香りがしていた。イーリンたちが祈り続けていると、かすかな衣擦れの音が聞こえた。
イーリンが閉じていた目を開くと、女性のドレスの裾が視界に入った。驚いて顔を上げると、そこには、棺の中と同じ服装をした女性が立っていた。
それは、まごうことなきマデラインだった。
「マデライン様。」
マデラインの姿は、どことなく薄く、揺らいでいた。棺の中の遺体は横たわったままであり、目の前のマデラインは魂なのであろうと分かった。
『イーリン……。』
ファンとアンナも驚き、イーリンと会話するマデラインの魂を見つめていた。マデラインの声は生者のものとは異なり、耳を通してではなく、頭の中にぼんやりと響いてくるようであった。
そして、マデラインの感情もまた、そのままイーリンたちへと届き、心を揺さぶった。今、イーリンたちに感じられるのは、マデラインの深い悲しみと嘆きであった。
『私は、たくさん間違えたわ。』
マデラインは、その目から涙をこぼした。しかし、床に落ちる前にそれは消え、跡を残すことはなかった。
『私は、ずっとあの薬を憎んでいたの。あの薬さえなければ、私の家が壊れることはなかった……。』
「ウェナムの、ことでしょうか。」
『そう……。だから、頼んだのに……。あの娘に、あの薬を棄てて、と。』
イーリンたちは、はっとした。
──「棄てて」と言った?
『お父様を殺した、あの薬……。あんなもの……。」
「マデライン様。」
マデラインから、一瞬あの闇と同じような感情が感じられたが、イーリンが声をかけるとおさまった。マデラインは、涙を流しながら話し続けた。
『騙された。お兄様に棄ててもらうため、色々とあの娘に教えたわ。』
イーリンたちの頭の中に、その時の情景が浮かんだ。
息を引き取ったあと、マデラインは、強い力であの像のところまで引き寄せられた。その場には、たまたま儀式を終えたキャサリンだけがいた。
目の前は真っ暗だった。闇の中は恐ろしく、そこで唯一見えた少女に、マデラインは手を伸ばして必死に訴えた。自分は、この国の王妃であり、先程死んだはずだ、と。
キャサリンは、最初こそ驚いた顔をしていたが、次第にマデラインの心に寄り添うような言葉を並べたて、色々と尋ねてきた。マデラインは、キャサリンに聞かれるままに答えた。国王への憎悪、癇癪持ちのアーサーへの苦悩、兄と手を取り合えない孤独、そして、ウェナムへの恨み。
キャサリンは、特にウェナムのことを詳しく聞いてきた。そして、同情的な表情を浮かべ、「きっとブラム様に処分して頂くよう、お伝えいたしますわ。」と言った。
マデラインは、キャサリンがブラムの信用を得られるよう、マデラインとブラムだけしか知らないことをいくつか教えた。
『あの娘は、ある日、ウェナムの瓶を持ってきたの。』
マデラインは喜んだ。キャサリンは約束を守ってくれたのだ。これで、自分の恨みも、少しは晴れるかもしれない。
しかし、キャサリンは笑って言った。
「こんな便利なものを、教えてくださってありがたいわ。」
『どういうこと。』
「私が、有効に使ってあげるって言っているの。馬鹿ねえ、こんなものを棄ててしまうなんて、もったいないじゃない。」
マデラインは、愕然とした。その時、初めて闇が晴れ、部屋の中の様子がマデラインにも見えた。そこには気味の悪い像と血塗れの盥があり、目の前にいるのは、そのような光景が当たりまえかのように、邪悪に笑う少女だった。
そこで初めて、マデラインは、自分が縋る相手を間違えたことに気がついた。そして、マデラインの中に、激しいキャサリンへの憎しみが生まれた。
「あら、いい感じね。そのまま吸い込まれてしまいなさい。」
そうキャサリンが言うと、渦巻く闇がマデラインをとらえ、その中へと引きずり込んでいった。
マデラインが闇に飲まれたあと、イーリンたちは、過去の情景から地下室に戻ってきた。
『ああ……、私は、なんて愚かなの。』
マデラインの魂が、顔を覆い、嘆いた。しかし、イーリンは言った。
「そんなことはありませんわ、マデライン様……。やはり、ブラム様のおっしゃった通りだったのですね……。」
マデラインの兄ブラムは、クリスに繰り返し言った。「マデラインは人を使って悪事を企むような人間ではない」と。
マデラインは、キャサリンを唆したわけではなかったのだ。
『お兄様が……。』
「ブラム様は、マデライン様に花を届けてほしいと……。」
ここに来る前、マデラインのそばに花を飾っていたのは誰なのか、調べてほしいとクリスに頼んだ。クリスが聞いたところによると、花を依頼していたのはブラムだった。
ブラムは、マデラインの遺体には会わせてもらえなかった。王城に閉じ込められたその遺体に対して、せめて、花だけでも手向けてほしいと願ったという。ブラムに渡される手当の一部は、マデラインの花に回された。
『そうだったのね……。』
マデラインは、少し穏やかな顔になった。弱い兄の、せめてもの願いが伝わったのだろう。
「マデライン様。申し訳ありません。私、何も気づかず……。」
イーリンは、ほろほろと涙をこぼした。
マデラインは近くで苦しんでいたのに、自分は何も気づかなかった。おまけに、自分の存在が、マデラインをさらに苦しめてしまっていた。
──気づいてさえいれば、マデラインの苦しみが少しでも和らぐよう、何かができたかもしれないのに。
マデラインは、泣いているイーリンを見て驚いている様子だったが、やがて優しく微笑んだ。
『……イーリン。あなたは、どこまでも美しいのね。』
「え……。」
『あなたは、とてもまぶしかった。真っ暗な王城の中、あなただけが光って見えた。』
イーリンはマデラインに、数えるほどしか謁見したことはない。しかしそういえば、そのときのマデラインは、今のような優しい顔をしていなかっただろうか。
『あなたは、一度も私を見下さなかった。あなたを見るのはつらかったけれど、でも、清らかで愛らしいあなたが大好きだったわ。』
「マデライン様……。」
マデラインは、ファンの方に目を向けた。
『あなたに、ふさわしい方が見つかったのね。』
「はい。……申し訳ありません。アーサー殿下とは……。」
『仕方ないわ。あの子は、あなたにひどいことをしたのだもの。』
キャサリンは、きまぐれに闇の中のマデラインに話しかけた。特に、イーリンの処刑については、けらけらと楽しそうに笑って話していたという。
「アーサー殿下は、王太子を降ろされ、処罰を受けるでしょう。……お辛いでしょうが……。」
『いいえ。あの子は、取り返しのつかないことをしたわ。』
マデラインは、悲しそうに首を横に振った。そして、イーリンを見つめると言った。
『私は母として、あの子に何もできなかった。アーサーは、私が責任を持って連れて行きます。』
きっぱりと言うマデラインに、イーリンは戸惑った。……連れて行くとは?
「でも、アーサー殿下はまだ……。」
マデラインは微笑んだ。しかし、何も答えなかった。
そのうちに、マデラインの身体は、だんだんと薄れてきた。
「ああ、お別れなのですか、マデライン様。」
『イーリン。助けてくれてありがとう。森の主様のおかげなのね。』
シルウァの指輪から、香りがした。見守ってきたマデラインの心が解放され、シルウァも喜んでいるようだった。
「何か、私にできることは。」
『ルイスとシャーロットに、ごめんなさい、愛しているわと伝えて……。』
その言葉が響いたかと思うと、マデラインの魂は姿を消した。遺体の顔はやはり眠っているようだったが、今は、魂が最後に浮かべていたのと同じ、穏やかな表情となっていた。
「マデライン様、承知いたしました。」
イーリンたちは、再び、マデラインのために祈りを捧げた。そして、地下室を後にした。
その日の夜、クリスが地下牢でのキャサリンの様子を教えてくれた。
キャサリンは相変わらずであったが、あの像が跡形もなく燃えた、という話を聞いたときだけ、表情を変え、歯噛みをして悔しがっていた、とのことだった。
お読みいただいてありがとうございます。次回以降は、キャサリンたちをどうするか、という話に移っていきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




