68 パー男爵家
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
パー男爵:キャサリンの父
シルウァ:『昏き森』に存在する森の主
キャサリンの実家である、パー男爵家の館は、貴族の館が立ち並ぶ地区の外れにあった。
パー家には領地はなく、小さな庭のある館と、それに隣接するわずかな畑のみが、パー家の持ち物であった。
門を開き、館の前に立つと、クリスが言った。
「館の中に地下室があってね。そこに、無造作に遺体が放り込んであったんだ。」
地下室と言っても、王城にあるほど立派なものではなかった。床下に穴を掘っただけのような、簡易なものであったらしい。
「お兄様……。男爵家の皆様は、どちらに……。」
この館には、キャサリンの両親と2人の妹が住んでいたはずだ。クリスは、眉間に皺を寄せた。
「おそらく……、遺体たちの中におられるのだろうね。」
「ああ……。」
クリスの話によると、マクスウェル兵がこの館に踏み込んだとき、ジョンの仲間であろう数人の者がいた。それらを捕らえ、館の中を捜索しても、キャサリンの家族は、どこにもいなかった。
イーリンは痛ましそうに館の方を見た。この館に仲間を引き入れたのはキャサリンだ。家族のたどった運命を、キャサリンが知らなかったはずはあるまい。
アンナが、信じられないといった顔で言った。
「自分の家族にまで、手を出すなんて……。」
「それが、良心を『持たない』ってことなんだろ。」
ピーターも、気分の悪そうな顔をしていた。
皆が知る限り、キャサリンの家族は、キャサリンを持て余していたとしても虐げてはいなかった。それを邪魔だからと殺してしまう頭の中身は、イーリンたちには、とても理解できそうになかった。
「貧民窟の方は、どのような様子だったのですか。」
ファンが、クリスに尋ねた。
「あちらも似たような感じだったのだけど、最近は使われていなかったみたいでね。遺体もほとんど骨になっていたよ。」
この館の遺体は、貧民窟に比べると新しいものが多かった。ある時期から、こちらに拠点を移したのだろう、とクリスは言った。パー家の館は、他の家とは少し離れたところにあり、人が出入りしても目立ちにくかった。
「あと、あちらにはないものが、こちらにあるんだよ。だから、この館の方を、まず見た方がいいとは思ったのだけど……。」
クリスは、心配そうにイーリンを見た。
「イーリン……。本当に、館に入るのかい? あまり、お勧めしないけれど……。」
遺体はすでに運び出された後だったが、館からは、まだ腐臭が漂っていた。中に入った兵士たちは、その惨状と臭いに、次々と気分を悪くしたという。
「……怖いです。でも、マデライン様にもお会いしたいのです……。」
パー家の館も、庭は荒れており、畑も全く手入れがされないまま放置されていた。マクスウェル家の館よりも、ここでは惨いことが行われたのだろう。
イーリンは、白い布に包んだシルウァの枝を取り出した。丁寧な手つきでイーリンが包みを開くと、葉はまだ緑を保っており、ふわりと清爽な香りがした。
「行きます。……お兄様、よろしいでしょうか?」
「分かった。じゃあ、行こうか。ファン、イーリンについていてね。」
「はい。」
クリスを先頭に、イーリンたちは館の中に入った。
パー家の館は、2階建ての小さなものだった。玄関から入ってすぐに食堂があり、そこから台所が続いていた。台所の床に小さな扉がついていて、例の地下室はその下にあったとのことだった。
館の中は、残った腐臭だけではなく、重苦しい空気が澱んでいた。開いた窓からは陽の光がさしているというのに、館の中はなぜかうす暗く、じめじめとしていた。床を這いずり回る何かが、足に纏わりついてくるような不快感を覚え、アンナやピーターは無意識に顔をしかめて、手や足で払うような仕草をしていた。
(シルウァ様にとっては、ここはお辛いかも……。)
イーリンも気分の悪さを感じ、指輪をもう片方の手でそっと隠した。
「イーリン、大丈夫ですか。」
ファンも眉を寄せて、厳しい顔つきをしていたが、イーリンが「ええ」と言って、そっと身を寄せると、優しい顔に戻った。アンナやピーターは、それを見て、少しほっとした表情となった。
クリスが、2階へと続く階段を指さした。
「見てもらいたいものは、上にあるんだ。」
クリスの後ろに続き、イーリンたちは階段を上った。2階に着いても重苦しい空気は変わらず、むしろひどくなった。狭い廊下を歩き、最も奥の部屋の前まで来ると、クリスは立ち止まった。
「ここの中なのだけど。」
クリスは、部屋の扉をゆっくりと開いた。開いた扉の隙間から、どろりと何かが流れ出すような感じがし、イーリンは思わず後ずさった。床に足を取られてよろめいたイーリンを、後ろからファンが抱きとめた。
「ファン、すみません。」
「いえ、大丈夫です。しかし、これは……。」
その部屋からは、腐臭だけではなく、むっとするような血の臭いがした。扉から中を覗くと、あまり広くない部屋の中に、風呂に使うような大きな盥が置いてあるのが見えた。その奥には、黒い、簡易な作りの祭壇があった。
「あれが、おそらく貧民窟から、ここに運ばれたのだと思う。」
クリスが『あれ』と言ったのは、祭壇にある赤黒い像だった。その身体は人のようであったが、背には蝙蝠のような翼があり、頭には雄山羊の角が生えていた。
「大して良い出来のものではないけどね。あの娘たちにとっては、大事なものだったんだろう。」
その像は、禍々しい、というのがふさわしかった。館が纏う不快な空気は、まるで全てこの像から出ているようであった。
「……地下室の、ちょうど上にありますね。」
ファンの言うとおり、像の置かれた祭壇は、台所の地下室の上に位置していた。イーリンが祭壇の前にある盥の中を覗くと、その中には人の血と思われるものが、一面にべったりとついていた。
「いやっ……。」
イーリンは、ファンの腕にしがみついた。ファンは、イーリンを庇うように立つと、クリスに言った。
「ここで、儀式を行っていたようですね。するとあれが、あの娘たちが崇拝する『悪魔』ですか。」
キャサリンたちは、自分たちの行動を正当化するため、悪魔を崇拝し、おぞましい儀式を行っていた。おそらく、この部屋で儀式は行われていたのだろう。よく見れば、像の赤黒さもまた、人の血によるもののようだった。
「そうなのだろうね。」
クリスが返事をしたとたん、悪魔の像の顔が、にやりと笑うように動いた。すると、突然に扉や窓がばたんと閉まり、部屋の中は闇に包まれた。
「と、扉を開けます!」
ピーターが叫んで、手探りで扉の所まで行ったが、なかなかうまく開かないようだった。
耳障りな、高い笑い声が聞こえた。すると、風もないのに、闇が竜巻のように渦を巻き始めた。人の悲鳴や怨嗟の声が部屋に響き渡り、耳をふさいでも、その声は頭の中に入り込んできた。
イーリンたちは、渦巻く闇の中から人の手がぬるりと出て、自分たちの手や足をとらえ、床下へと引きずり込んでいくような感覚に襲われた。
まるで、どろどろとした底なし沼のような、悪意の中にとらわれていく恐怖。それが、闇の中のイーリンたちを支配した。
「ファン……。」
ファンは、闇からイーリンを守るように抱いてくれていた。闇の中でも、焦った顔をしているのが、イーリンには分かった。ファンは、顔をイーリンの耳に近づけると言った。
「あなただけでも、何とか外に。」
それを聞き、イーリンはファンの腕の中で、ふるふると首を振った。
「だめ。そばにいると言ったわ。」
「しかし……。」
ファンが、自分が犠牲になってでも、助けようとしてくれているのは分かる。でも、イーリン自身の思いは違っていた。
イーリンは、そっとファンの胸に顔を寄せた。自分をいつも助けてくれた、あたたかさ。イーリンは、この温もりを失うのは嫌だった。それならば、一緒に地獄へ行く方がいい。
(こんなことを考える私は、聖女などではないのに。)
イーリンは、ファンを見上げて言った。
「ファン、愛しているわ。お願い、離れないでいて。」
「イーリン……。」
ファンが、イーリンを抱く手に力を込めたとき、イーリンの指輪と、シルウァの枝がぼんやりと光り出した。その光はだんだんと大きくなり、イーリンとファンを包んだ。ピーターはまだ扉と格闘していたが、クリスとアンナは、光っている2人を見て、呆気にとられた表情をしていた。
先程まで血の臭いが立ち込めていた部屋に、シルウァの香りが漂った。いつの間にか闇は静まり、声は聞こえなくなっていた。
「シルウァ様……?」
⦅ここは私が抑えておくから、枝を置いて、外に出なさい。⦆
シルウァの声が響いたかと思うと、ピーターが叫んだ。
「扉が、開きました!」
開いた扉から光が差し込み、部屋は明るくなった。イーリンが祭壇を見ると、悪魔の禍々しさは消え失せていた。気味の悪い赤黒さはそのままであるものの、それはただの古ぼけた木の像に見えた。
イーリンは、急いで祭壇に駆け寄り、像の前に枝を置いた。
「マデライン様……。」
マデラインには、会えなかった。しかし、おそらくこの像が元凶だ。この像が浄化されれば、人々の魂は救われるのだろう。
「行きましょう、イーリン。」
ファンに呼ばれ、イーリンは部屋を後にした。イーリンたちは、そのまますぐに館を出た。
外に出ると、クリスがやれやれという顔で言った。
「今から、この館は燃やそう。もう、中の様子はストラスタ侯爵たちに報告してあるし、証拠は遺体だけでも十分だ。」
「クリス様、そうしましょう。早くしましょう。」
ピーターは、げんなりとしていた。館を燃やすことに反対の者はいなかった。
今はシルウァが抑えてくれているが、いつ、あの悪意が、再び人をとらえようとするかも分からない。あの闇の中で笑っていたのは、彼らが作り出した悪魔だったのだろうか。
クリスが連れてきたマクスウェル兵たちが、素早く館を燃やす準備をした。一陣の風が吹き、シルウァの香りがしたのが合図かのように、クリスが火を点けるよう命令を下した。
兵の一人が種火を投げ込むと、館は、あっという間に炎に包まれた。イーリンたちは、火が届かないよう、離れたところで館が燃えていくのを見ていた。館からは、白い煙がまっすぐに高く上り、その先は空へと消えていった。
(これで、とらわれていた人たちは解放されたのかしら……。)
煙の香りの中には、シルウァの香りが混じっているようだった。暗い館の中から解き放たれた彼らが、シルウァに導かれ、煙の中を天へと昇っていっているように思えた。
殺された人々、棄てられた少年、キャサリンの家族、そして、マデライン。一人一人のことを想い、冥福を祈るイーリンと対照的に、クリスはどこか冷めた目で館が燃えていくのを見ていた。
「私は、誘惑されないよ。」
ファンの耳には、クリスが小さく独り言を言うのが聞こえていた。
お読みいただいてありがとうございます。次回は、やっとマデラインが出てくる予定です。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




