67 ひとりだけで
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
マデライン・ギーベル:王妃、アーサー達の母
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ジョン:キャサリンの仲間
イーリンたちがマクスウェル家の館に戻ると、庭の手入れをしていたピーターが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。」
ピーターは、イーリンが無事に戻ってきたことを、改めて喜んでくれた。そして、「ここにいるうちに、少しでも庭を元の状態に戻すつもりです。」と笑って言った。
館に入ると、中はやはり閑散としており、兵士と領地からついてきた数名の女性だけが、ぱたぱたと働いていた。
「綺麗に片付けたからね。静かになってしまったけど。」
クリスは、にこにこと笑っていたが、イーリンは、浮かない顔をしていた。
夜も遅くなり、普段なら寝ようかというころ、イーリンはアンナを連れて、クリスの部屋の扉を叩いた。
「お兄様。」
「どうしたんだい、イーリン。こんな時間に。」
クリスはすぐに扉を開けた。どうやらまだ、何か仕事をしていたようだった。
「今、少しだけよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ、入って。」
イーリンは、遠慮がちにクリスの部屋に入った。アンナが、イーリンに小声で「さあ、お伝えしましょう」と言っているのが聞こえ、クリスは怪訝な顔をした。
「何か、言いたいことがあるのかい?」
「お兄様。私……。」
イーリンの思い詰めた様子を見て、クリスは、イーリンが考えていそうなことを先に言った。
「もしかして、マデライン様を探しに行きたいの? 気持ちはわかるけれど、いったん私たちが捜索するのを待っておくれ。あの娘たちの残党がいるかもしれないし、イーリンが危ない目に遭うのは、もう見たくないんだ。」
クリスは、イーリンの包帯が巻かれた右手に目を落とした。
しかし、イーリンはふるふると首を振った。
「あの、それはもちろん分かっております。でも、そうではなくて……。」
イーリンは、目線を下に落として、もじもじとしていたが、やがて口を開いた。
「どうしたの?」
「お兄様、あの、少しだけ甘えてもいいでしょうか…?」
「え?」
クリスは、予想外の答えに驚いた。
「その……。触れ合いたいのです。お兄様と。」
子供みたいなことを言って、と思うものの、夜になって不安になり、家族の温もりが恋しくなったのだ。アンナに相談したら、遠慮なさらないでいいと思いますと言われ、意を決してやってきたのだった。
それを聞いて、クリスは、にっこりと笑った。
「もちろん構わないよ。いいに決まってる。おいで。」
クリスは手を広げ、イーリンはそこに飛び込んだ。クリスは、華奢なイーリンの身体を、ぎゅうっと抱きしめた。イーリンが少し苦しそうにしているのを見て、アンナが声をかけた。
「クリス様、力加減を。」
「ごめんごめん。」
可愛いことを言われたから、つい力が入っちゃったよ、とクリスは笑った。クリスが力を緩めても、イーリンは、その胸にしがみついていた。
頬からシャツ越しに感じるクリスの体温があたたかく、心地よかった。イーリンの目に、じわりと涙が滲んできた。
「お兄様、とっても怖かったの。また、会えなくなるかと思ったの。」
「そうか。怖かったね。よく頑張ったんだね。」
イーリンは、子供のときのような口調になっていた。クリスは、小さかった頃のイーリンを思い出し、優しく頭を撫でた。
無理もない。ついこの間殺されかけたばかりだというのに、昨日はナイフを突きつけられて脅され、攫われ、傷つけられ、おまけにアーサーに襲われかけたのだ。
(一回、私もアーサーを蹴ってこようかな。)
そんなことをクリスが考えていると、イーリンが震える声で言った。
「嫌い……。殿下も、キャサリン様も大嫌い。」
クリスは、おや、と思った。アーサーに対しては分からないでもないが、キャサリンに対して、そこまで強い言葉を使うのは聞いたことがなかった。
「あの娘にも、何か嫌なことをされたのかい?」
「……。」
イーリンが黙り込んだので、クリスはその顔を覗き込んだ。イーリンはクリスの胸に顔を埋めたままだったが、少し、頬が染まっているのが見えた。
「うん?」
「……あの、最後に、殿下の部屋に入ってこられたときに……。」
イーリンから、キャサリンがファンを誘惑した話を聞き、クリスは思わず吹き出した。
「だからあいつ、あの娘の話になると、露骨に嫌そうな顔をするのか。」
愛する女性の前で、他の女性に口説かれるのは、さぞかし居心地が悪かっただろう。クリスは、面白いことを聞いたと、悪戯っぽい顔になった。アンナも笑いをこらえている。
イーリンは、2人の様子を見て、言ってしまってよかったのかしら、と少し後悔した。
「……私、思わず言い返して……。」
「へえ、何て言い返したの?」
「それは……。」
イーリンは真っ赤になりながら、『私の、大事な方なのです!』と叫んだのだと言った。クリスは、ちょっとその場面見たかったなあ、と思った。
「イーリンも、強くなったんだね。」
すると、イーリンはクリスの身体に腕を回し、きゅっと力を入れた。
「どうしたの? イーリン。」
「お兄様。私、もっと強くなりたいの。だから……お兄様ばかりが嫌な事、しないで。」
イーリンは、下からクリスの顔をじっと見上げた。濡れた紫色の瞳が宝石のようだ、とクリスは思った。
「……使用人たちのことかい?」
「そう。……あの人たちへの罰は、私も背負うべきことだったのだもの。」
最初に、罰を下そうとするクリスを止めたのが、そもそもの間違いだった。目の前で恐怖にかられてジョンに従う彼らを見て、イーリンは、自分の判断が甘かったことを知ったのだ。
使用人たちが受けた仕打ちを考えると、ジョンが来たら逆らえないということは予想できたことだった。彼らが再び裏切ることは、すでに決まっていたのだ。
甘い判断の結果、兵たちは足止めを食らった。ファンが指示を出さなければ、手を出すのをためらい、なかなか動けなかっただろう。
「お兄様だけが、恨まれてしまうわ。私のせいなのに。」
2度裏切った彼らへの罰は、イーリンのいないところで、クリスが下した。直接罰を与えた人間は、最も恨まれやすい。それに、罰を与える方にも痛みはあるものだ。
報復という概念のないイーリンにとって、適切な罰を与えるというのは難しい。かといって、自分だけが痛みを感じず、安全なところにいるのは耐えられなかった。
「……イーリンは、そのままでもいいんだよ。」
「いいえ、お兄様だけが背負うのは嫌。私も、一緒に背負いたいの。」
(ファンにも、同じようなことを言っていたなあ。)
──『あなたの過去も、そしてこれからも、私は一緒に背負いたいのです。』
クリスは、ふ、とイーリンに微笑んだ。
「分かった。イーリン、今度からは勝手にしない。約束するよ。」
「ごめんなさい。お兄様。」
クリスはイーリンの身体を包み、愛しい妹を抱きしめた。そして、涙が流れたあとの頬に優しくキスをすると、そっと身体を離した。
「あんまり独り占めすると、ファンに怒られそうだなあ。どうせ、この後部屋に来るんだろう?」
「え、あの、はい。」
イーリンは、また赤くなった。
「ファンにも甘えたらいいよ。たぶん喜ぶから。」
「もう、お兄様……。」
兄にからかわれ、イーリンはクリスを軽くにらんだ。クリスは、笑いながら言った。
「まあでも、私のところになら、いつでもおいで。待っているから。」
「ありがとうございます。お兄様。」
部屋に戻るイーリンを、クリスは笑顔で見送ってくれた。帰り道、イーリンはアンナに言った。
「お兄様が受け入れてくださってよかったわ。でも、お兄様にお相手ができたら、こんなことばかりもしていられないわね。」
「……当分、ないと思いますが。」
「そうね。今はまだ、それどころではないですものね。」
「……。」
アンナの歯切れの悪さは少し気になったが、イーリンは自室に戻っていった。
翌日から、クリスは兵を王都の捜索に回してくれた。その報告を待つ間、イーリンは王都の民へ食事を配ることを続けていた。
数日後の夕食の場で、クリスは地下牢のキャサリンの様子を話した。
「まいったよ。あの娘、嘘ばかり喋るんだ。情報を匂わせて交渉しようとするんだが、調べれば根拠のない話ばっかりでね。」
キャサリンが、バクスター家からウェナムを手に入れたことは確実である。しかし、その存在を知ったきっかけは分かっていなかった。また、キャサリンやジョンは、王都で複数の少年少女が殺された事件にも関わっている疑いがあり、その取り調べも行われていた。
キャサリンの口から出る言葉は、嘘ばかりだった。
ジョンに脅されたと言うこともあれば、ある貴族の名前を出し、「この方が関わっています。」と言うこともある。そして、「教える代わりに……」と、食事などの待遇改善を要求する。しかし、その情報をもとに兵士が調査に行くと、全く関係ないことがすぐにわかるのだ。
おまけに最後には、イーリンが黒幕だ、イーリンに命令された、などと言い出すため、イーリンを間近で見ているマクスウェル兵たちは怒っていた。
「あの娘は、イーリンのことを、なぜか逆恨みしているみたいだね。あと、あの黒髪の男に会わせろと言っている。ファン、会うかい?」
クリスがにやにやと言うと、ファンは憮然として答えた。
「嫌です。」
「まあ、それは冗談としてもね。なかなかマデライン様のいる場所というのが分からないんだ。だから、しらみつぶしに探すことになりそうだ。すまないね。」
「仕方ないですわ、お兄様。」
イーリンは、待つことにしていた。一刻も早くという気持ちは変わらないが、かえって大事な人に迷惑をかけてしまうのなら、今となっては無理を言うつもりはなかった。
しかし、意外と早くに知らせは来た。貧民窟の中にある家と、キャサリンの実家であるパー男爵家の館から、数多くの遺体が見つかったのだ。
お読みいただいてありがとうございます。次回は、イーリンも捜索に参加していきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




