64 ボンベルグ家の館
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
ルイーゼ・ボンベルグ:イーリンの友人、辺境伯令嬢、実はイーリンの従妹
セリーナ・ボンベルグ:ルイーゼの母、辺境伯夫人
リーデン伯爵:キャサリンの後見
エリザ・リーデン:リーデン伯爵夫人
マーガレット・リーデン:伯爵令嬢
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
シルウァ:『昏き森』に存在する森の主
イーリンがマクスウェル家の館に戻ると、館の中は人が少なく、しんとしていた。見かけるのはマクスウェル家の兵士たちばかりで、鎧のこすれる音が静かな館に響いていた。
イーリンが使用人たちの行方を尋ねようと口を開く前に、アンナによって、さっさとノーマンのところに連れて行かれた。
ノーマンは、すぐにイーリンの右手の傷を診てくれた。
ボンベルグ領で一番の医者と呼ばれるだけあって、さすがノーマンは手際が良く、処置をしてもらうと痛みも和らいだ。
「こう言っては何ですが、ナイフがよく研がれていたので、傷口はきれいなようですな。切れたところがくっつくまでは、あまり動かさないようにしてください。」
ノーマンは、イーリンの右手に包帯を巻きながら言った。
「はい、ありがとうございます。ノーマン先生。」
「これだけ深くて、筋が切れていなかったのは幸いです。」
もし筋が切れていたら、手の動きに影響していただろう、とノーマンは説明した。
「あの、傷は残るのでしょうか。ノーマン先生。」
アンナが、不安そうにノーマンに尋ねた。ノーマンは、少し口ごもった。
「うーむ……。いかんせん、傷が深いですからな。薄くとも、多少は残ってしまうでしょう。」
「それは、仕方がないですわね……。」
イーリンは納得した様子だったが、ノーマンとアンナは、2人揃って、そろりとファンの顔を窺った。
「え、何ですか?」
腕組みをして治療を見守っていたファンは、急に2人の視線を受けてぎょっとした。ファンは、少しむくれて言った。
「私が気にするわけないでしょう。ノーマン先生も、きちんと治療をしてくださっているのに。変な心配はやめてください。」
ファンの答えを聞いて、アンナとノーマンはほっとした様子だった。
ファンは、一緒に旅をしたアンナやノーマンとは、あまり気を遣わない関係でいられるようだった。
むくれた顔は年相応の青年のものであり、イーリンは、ファンの表情が次第に増えていくのが嬉しかった。
治療を終えた後、王城へ向かうノーマンと別れ、イーリンたちはボンベルグ家の館に到着した。
「叔母様、お世話になります。」
「私までお招きいただき、ありがとうございます。」
頭を下げるイーリンとファンを見て、セリーナは微笑んだ。
「遠慮なく、くつろいでちょうだい。もうすぐ夕食の準備ができるわ。」
イーリンたちが客間に案内されると、扉からノックの音が聞こえた。アンナが扉を開くと、ボンベルグ家の兵士が2人並んで立っていた。
「イーリン様が攫われたと聞いて……、ぞっとしました。ご無事で良かったです。」
2人は、共に森を抜けてきたボンベルグ兵だった。イーリンたちの部隊と共に王都にやってきて、ボンベルグ家に合流していたのだった。
「ありがとうございます。ファンたちのおかげで、この通り、無事に戻ってまいりましたわ。」
2人とも、イーリンの無事を喜んでくれた。そして、マクスウェル領から、王都まで連れてきてもらったことについての感謝も口にした。
「おかげさまで、セリーナ様に色々と報告することができました。」
「驚いていらっしゃることも多かったですが……。仕方ないですね、本当のことですから。」
『昏き森』でシルウァに出会ったという話を、セリーナは、一応受け入れてくれたようだった。
そういえば、と、若い方の兵士が、シルウァからもらった木の珠が入った袋を出した。
「まあ、これからそうそう森に入ることはないと思いますが……。それでも、この珠がなくならないよう、精進したいと思います。」
この珠を持っていれば森を通れるが、悪意が増えれば珠は消えてしまう、とシルウァは言った。
「それが、いいですね。」
ファンは、穏やかに笑って言った。
その後も、アンナを入れた5人で少し話をしていたが、最後に年上のボンベルグ兵が、申し訳なさそうに言った。
「あの……、イーリン様、ファン様。我々、セリーナ様に、本当にこと細かに報告してしまいまして。」
「まあ、そうなのですね。」
「……。」
イーリンはにこにことしていたが、ファンは、遠い目になった。アンナも、少し目をそらしている。
「これから、ご夕食かと思いますが……。その、申し訳ありません。」
「え? あら?」
焦って頭を下げるボンベルグ兵たちに、何のことかとイーリンは戸惑っていたが、
「イーリン。たぶん、そのうち分かりますよ。」
と、ファンがあきらめたように言った。
夕食の準備ができたとの知らせが来て、ボンベルグ兵たちは、「では、失礼いたします。」と下がった。
イーリンたちが食堂に向かうと、そこにはセリーナの他に、1人の少女がいた。
「まあ、マーガレット様。」
「イーリン様!」
そこにいた少女は、リーデン伯爵家の令嬢である、マーガレットだった。マーガレットは席を立つと、イーリンのところまで急いでやってきて、頭を下げた。
「ご無事だったのですね。本当に良かったです。父が……申し訳ありません。」
「マーガレット様。あなたが気になさることではありませんわ。またこうしてお会いできただけでも、私は嬉しいのですもの。」
優しく微笑むイーリンに対して、マーガレットは、どうしていいか分からないようで、助けを求めるようにセリーナの方を振り向いた。
セリーナは、マーガレットに微笑んで言った。
「イーリンがそう言うのなら、それでいいのでしょう。イーリン、またマーガレット様と仲良くしてもらえるわね?」
「もちろんですわ。」
イーリンの微笑みに嘘がないのを見て取ると、マーガレットは、安心した笑顔となった。それを見ると、セリーナは、よく通る声で言った。
「さあ、食事にしましょう。」
夕食の間、セリーナは、リーデン伯爵家の様子についてイーリンたちに話してくれた。
クリスが王都に到着し、ルイスたちと会談した後、セリーナは貴族たちへの根回しに動いた。そして最後に、リーデン伯爵家へと向かった。
セリーナが伯爵家の館に到着したとき、門番はやや抵抗した。
「門番は、ちょっとうちの兵と話し合っていただいたの。」
館の扉も、固く閉じられていた。
「でも、私の力で開くくらい、鍵は脆くなっていたようでしたわ。」
ファンは、セリーナが扇子を握りつぶして粉々にした、とルイーゼが語っていたのを思い出した。
セリーナとボンベルグ兵たちが館の中に入っても、リーデン伯爵は部屋にこもったままであった。中を回ると、侍女たちと一緒に震え、泣いているマーガレットを見つけた。
セリーナは、マーガレットの母エリザと仲が良く、何度も伯爵家を訪ねてきたことがあった。亡き母の友人である顔見知りの女性に、マーガレットは助けを求めた。
そうして、マーガレットは、いったんボンベルグ家に引き取られた。
「伯爵は、ずっと部屋から出てこられないのですか。」
「食事は少しずつ食べているようでしたので、生きているとは思うのですが。」
マーガレットは、それでもまだ父親を心配している様子であった。セリーナは、マーガレットを優しい目で見ると、イーリンに言った。
「この勇敢なお嬢様は、伯爵にあなたの無実を訴え続けていたのよ。」
「まあ……。マーガレット様、ありがとうございます。」
「でも、私、何もできませんでした。」
マーガレットは、申し訳なさそうに、頭をかくんと下げ、肩をすくめた。ファンは、イーリンの仕草と似てるなと思い、マーガレットに声をかけた。
「何かをしようとすることは、立派ですよ。」
聞き慣れない男性の声を聞き、マーガレットは顔を上げ、ファンを見た。あまり王都でも見かけない顔立ちであったが、その笑顔は穏やかで優しかった。
「ありがとうございます。」
マーガレットは、イーリンと仲睦まじそうにしている、穏やかに笑う青年のことが気になった様子だった。
マーガレットは、おずおずと質問した。
「あの、ファン様は、イーリン様とどういったご関係なのでしょうか?」
「ああ、申し訳ありません。私は……。」
ファンがにこやかに、マーガレットに自己紹介しようとすると、セリーナの声がそこに被さった。
「イーリンの、新しい婚約者ですよ。」
「ええっ。」
セリーナがはっきりと言ったので、マーガレットだけでなく、イーリンたちまでも驚いた。
「叔母様、もうご存じなのですか? こんな時なので……後ほど、ご報告しようかと思っておりましたのに。」
「めでたい話に、何を遠慮することがあるの。それに、うちの兵士から、色々と報告を受けたわよ。あなたたち、とても仲が良いんですってね。」
共にマクスウェル領に来たボンベルグ兵たちは、領内をあっという間に伝わったイーリンの新たな婚約のことを、当然耳にしていた。
一緒に旅をし、森の主までを魅了した、健気で愛らしいお嬢様。そして、そのお嬢様をいつも側にいて助けていた、優しく頼もしい青年。その2人の婚約が公爵に認められたことを、ボンベルグ兵たちは心から祝福した。
そして、それらを全て、余すところなくセリーナに報告したのだった。
イーリンは、みるみる顔を赤くした。マーガレットは、少女らしいきらきらとした目で、イーリンとファンを見つめた。
「まあ、イーリン様。おめでとうございます。」
「あ、ありがとうございます、マーガレット様。ええと、もちろんそうなのですけど、私、まだ、その、お披露目までは、この話はしないものと……。」
不意をつかれて、イーリンはうろたえていた。
「何言ってるの。仲良さそうに手を取り合って、王城から出てきたじゃないの。もう、あれで十分お披露目になったわよ。」
「そんな……。」
イーリンは、助けを求めるように、ファンをちらりと見た。
「あれで周りへの牽制になるなら、私はそれでいいのですが。」
「あら。あなた、なかなかしたたかね。悪くないわ。」
「叔母様も、ファンも……。」
頬を染めて抗議するイーリンの様子に、マーガレットはきょとんとした。公爵令嬢で、雲の上の人だと思っていたイーリンが、自分たちと同じように動揺したり、恥ずかしがったりする姿は、親しみが湧いた。
マーガレットは、次第に打ち解けて、屈託なく笑うようになってきた。
それからしばらく、イーリンとファンは、鋭く切り込んでくるセリーナと、無邪気に尋ねるマーガレットからの質問責めにあった。
お読みいただいてありがとうございます。次回は、王城を捜索したクリスからの報告になります。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




