62 奪う者
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ジョン:キャサリンの仲間
イーリンがアーサーに襲われていたところを見つけたファンは、アーサーを引きはがし、床に放り投げた。
「ファン!」
──来てくれたのだ。
愛する人の姿を認め、イーリンは胸がぎゅっと熱くなった。
ファンは、さっとイーリンとアーサーの間に入り、剣を抜いた。
起き上がったアーサーは、何が起こったか分からないようだったが、ファンの姿を見ると、怒りに満ちた目で剣を拾った。
「何だお前は。邪魔をするな!」
「彼女に、これ以上近づくな。」
イーリンがファンの後ろに隠れた様子を見て、アーサーは余計に怒りだした。
「男がいるのか。このあばずれが……。」
「彼女を侮辱するな。そもそも、お前に人のことが言えるのか。」
元々、キャサリンを寵愛し、婚約者であるイーリンをおろそかにしたのはアーサーだった。しかも、イーリンに対して、自ら婚約解消を宣言したのだ。
アーサーは、ファンの言葉に怒り狂い、剣を振り回しながら襲ってきた。ファンは、アーサーを斬ってしまうつもりはないらしく、剣は防御のみに使い、体術で対応していた。
イーリンに近づかないよう、アーサーを何度か遠くまで蹴り飛ばしていたが、アーサーは、すぐに起き上がっては向かってきた。
ファンとアーサーの格の違いは明らかではあるのだが、あまりにもアーサーが何度も起き上がるので、イーリンは、はらはらとしていた。
(……ウェナムの効果が、出てしまっているのかしら。)
ウェナムは、強い鎮痛剤として働く。そのために、アーサーは痛みを感じずに動けているようだった。
「仕方ないな。」
アーサーが右手で剣を振り下ろした瞬間、ファンは左側に避け、アーサーの背後に回った。ファンは、剣の柄でアーサーの右手を打ち据えて剣を叩き落とすと、左腕をアーサーの首に回し、そのままぎりぎりと絞め始めた。
アーサーは、少しの間、ファンの腕を引きはがそうともがいていたが、やがて気を失った。ファンは、ぐったりとしたアーサーを、しっかりと縛り上げた。そして、血だまりの中で倒れているジョンにも目をやった。
「これは……、ジョンですか。腕を斬ったのは、アーサーなのですか。」
ファンに尋ねられ、イーリンは、こくこくと頷いた。ファンは、ジョンも拘束したあと、シーツを引き裂いて、止血のために斬られたジョンの腕を縛った。
「生きていれば、喋ってもらいたいこともありますからね。」
2人が動かないことを確かめると、ファンは、まだベッドから動けないイーリンのところまでやってきて、その身体をぐっと抱きしめた。
「よかった、無事で……。」
「ファン……。ごめんなさい、また、心配をかけたわ。」
「あなたのせいじゃありません。私が油断しました。」
ファンは、はっとして少し身体を離した。
「ファン?」
「そうです。イーリン、怪我はありませんか?」
「あの、ちょっと……。手に……。」
ファンは、イーリンがおずおずと出した右手の傷を見て、顔色を変えた。
「ジョンのせいですね。無理をしてはいけないと、言われていたでしょう……。」
「すみません。私……、夢中で。」
「後で、ノーマン先生に診てもらいましょう。」
「はい。」
イーリンは、肩をすくめてしゅんとした。
ファンは苦笑して、でも、その血で通路の存在に確証が持てた、と教えてくれた。
「アーサーには、何もされませんでしたか。」
「……。」
「え、 イーリン?」
ファンが、焦った顔をしている。
言われて思い出してしまった。首筋が、気持ち悪い。イーリンは首筋をごしごしと拭い、ぽろぽろと涙を流した。アーサーに押さえつけられたことも、言われた言葉も、全てが不快感しかない。
「……嫌。」
「何か、あったのですか。」
「触れられるのは、あなたでないと、嫌……。」
イーリンは、ファンにしがみついた。ファンはまた、焦った顔をしていたが、優しくイーリンに腕を回した。
「嫌なことがあったのですね。でも、もう大丈夫ですよ、イーリン。」
さすがにファンにも、もう分かっていた。
イーリンは、自分だからこそ、安心して泣くのだと。
ファンは、泣いているイーリンから、さっき何があったかを聞きだした。そして、イーリンを抱いたまま、縛り上げたアーサーを冷たい目で睨んだ。
「え、あの。ファン、ちょっと顔が……その。」
「怖いですか。」
「ごめんなさい……、はい。……でも、嫌ではないです。」
「嫌ではない?」
「だって、私のために、怒ってくださっているのでしょう。」
恥じらいながらイーリンが言うと、ファンは、ふふ、といつもの穏やかな笑みに戻った。それを見て、イーリンも微笑んだ。
「また会えて、嬉しいです。」
「私もです。」
二人は、また強く抱きしめ合った。
「さて、クリス様が心配していると思うので、早く戻りましょう。……おや。」
城の外が騒がしい。
窓から外を覗くと、王城の前に、兵士が並んでいるのが見えた。
「クリス様が、待てなかったようですね。」
「どうしましょう。それなら、お兄様を待った方がいいのかしら。」
元々は、アーサーとキャサリンが籠城に耐え切れず、自ら開城するのを待つ計画だった。しかし、不可抗力とはいえ、せっかくアーサーとジョンを捕らえたのだ。このまま王城を去るよりは、2人をクリスに引き渡したかった。
イーリンとファンが相談していると、急に部屋の扉が開いた。
「あらあ、何よこれ。」
少しかすれた、低い女性の声がした。
「……!」
「アーサーったら、失敗しちゃったのね。ジョンは始末してくれたみたいだけど。」
その人物は、ずかずかと遠慮なく部屋に入ってくる。イーリンは、ファンの腕をきゅっと掴んだ。
ファンは、イーリンに小声で尋ねた。
「イーリン、あの、黒髪の女性は誰ですか?」
「あの方が、……キャサリン様です。」
「あれが……!」
見れば、イーリンとあまり変わらない年頃の少女だ。だがあの少女が、アーサーたちをたぶらかし、ウェナムを悪用し、この王城の中まで入り込んで、国を混乱に陥れたのだ。
キャサリンは、部屋の中にいるイーリンや、ジョンの血だまりを見ても、全く動じていなかった。そして、まるで女主人かのように、堂々と笑顔を作って話しかけてきた。
「お久しぶりですわね、イーリン様。お元気でした?」
「キャサリン様……。」
(嫌な女だ。)
自分たちがイーリンの処刑を企んだにも関わらず、ぬけぬけと言うキャサリンに、ファンは顔をしかめた。このような人間は、昔から好きではない。
キャサリンは、2人の様子に構わず、ぺらぺらと話し続けた。
「アーサーには、生意気な女を手籠めにしちゃいなさいよって言ってあげたのに。その様子だと、最後まではいかなかったのね。いやあね、使えない男。」
アーサーをちらりと見て舌打ちをした後、キャサリンはファンの方を見た。
「何? あなた、この男に助けてもらったの?」
キャサリンは、イーリンの隣にいるファンを、品定めするようにじろじろと見た。
「あなた、黒髪ね。それに、顔もこの国の人間とは違うし、マクスウェルの兵じゃないわね。傭兵なの?」
「……あなたに、答える義理はありません。」
ファンはすげなく答えたが、キャサリンは気にしない様子で、ふふん、と笑った。
「あら、つれない。でもね、強そうなあなたを見込んで、お願いがあるのよ。」
「……どういう、ことでしょうか。」
「今度は私が雇ってあげるから、私を安全なところまで連れて行ってよ。」
キャサリンの申し出に、ファンもイーリンも面食らった。
(何を考えているんだ、この女は。)
キャサリンは、ファンを一目見て気に入ったようだった。うっとりとした目でファンを見ると、しなを作って言った。
「あなた、素敵ね。黒髪同士、仲良くしましょうよ。私、本当は、あなたみたいな強い男性が好きなのよ。」
「……キャサリン様。あなたは、アーサー殿下を……。」
「何よ、あんたは黙ってて。アーサーなんて、愛しているわけないじゃない。私は、この方にお話ししているのよ。」
キャサリンは、イーリンを睨みつけ、ファンの方に近寄ってきた。キャサリンが伸ばした手が触れそうになり、ファンが思わず避ける。
「やめてください。」
「まあ、あなた、私が欲しくないの? そんなつまらない女より、私の方がずっといいわよ。」
キャサリンはファンに拒絶され、心底驚いた様子をした。イーリンは、ファンの腕を掴んだまま、キャサリンに訴えた。
「おやめください、キャサリン様。この方は、私の……。」
「うるさいわね。いい加減、この方から離れなさいよ。」
キャサリンは、イーリンをうっとうしそうに見た。しかし、イーリンは、首を横にふるふると振り、キャサリンをきっと見返した。
「私の、大事な方なのです!」
「はあ?」
キャサリンは眉を寄せ、イーリンをファンから引きはがそうとつかみかかった。
「きゃっ……。」
ファンは、その手がイーリンに届く前に払いのけ、キャサリンからイーリンをかばった。
「イーリンの言った通りです。私は、イーリンの婚約者。あなたの元にはまいりません。」
ファンの言葉を聞いて、キャサリンは目を大きく開いた。そして、ファンの後ろにいるイーリンを睨みつけ、ぎりぎりと歯噛みをした。
「何よ、アーサーに捨てられたくせに。もう、男をたぶらかして。」
キャサリンは、憎しみをこめた視線を、イーリンに向けている。赤い唇は、固く噛みしめられ、色を失っていた。
「嫌な女。あなたって、本当に私から何もかも奪うのね。」
「そんな……。」
キャサリンの言っていることは、いわば、逆恨みだ。しかし、この肌が震えるほど伝わってくる強い感情。これが『悪意』というものなのかと、イーリンはおののいた。
お読みいただいてありがとうございます。次回は、このまま王城の中での話が続きます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




