61 見覚えのある部屋
★今回、少々残酷表現と、女性が襲われる場面があります。不快な方は、読み進めないようにしてください。
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
マデライン・ギーベル:王妃、アーサー達の母
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ストラスタ侯爵:リリーの父、マクスウェル公爵と同様の穏健派
セリーナ・ボンベルグ:ルイーゼの母、辺境伯夫人
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
ジョン:キャサリンの仲間
「いざという時、役に立たないどころかさあ、邪魔するんじゃ困るんだよねえ。」
クリスは、縛り上げられ、公爵家の庭に並べられた使用人たちを眺めながらつぶやいた。
兵からの報告を受け、クリスたちは急いでバクスター家の館を出た。そして、アンナからイーリンがジョンに攫われたこと、ファンが追いかけて行ったこと、兵士たちは続けて周辺の捜索をしていることを伝えられた。
その際に、使用人たちがジョンの逃走を助けてしまったことも、クリスに報告された。
ジョンへの恐怖にかられたとはいえ、ぼろぼろの身一つで放り出されるところを助けてくれたイーリンを、彼らは再び裏切ったのだ。クリスに許す理由はなかった。
彼らを睨みつけるクリスの怒りは、使用人たちだけでなく、周りの兵士たちにもびりびりと伝わった。
「お、お慈悲を。お優しいクリス様。」
「馬鹿なことを。大事なものに手を出されてまで、私は君たちに優しくできないよ。」
そもそも興味も執着もないから、クリスは使用人に対し、分け隔てなく優しく接していたのだ。クリスにとって彼らの価値とは、イーリンを始めとした、マクスウェル家のために働くことにあった。
「君たちがいらないものだっていうのは、もう分かったからね。でも、今は君たちに構っている暇がないから。」
自分たちに向けられた、クリスのぞっとするような笑顔を見て、かつてはその美しい顔に憧れていた女たちも、今は恐怖に怯えていた。
「では、行くぞ。」
クリスは、さっと馬に乗り、兵を指揮しようとしたが、ピーターが慌てて止めた。
「待ってください、待ってください、クリス様。もしかして、このまま王城を攻めようとしているでしょう。」
「何だ、何か悪いことがあるか。」
「大ありです。せめて、ルイス殿下とストラスタ家、ボンベルグ家にはお伝えしましょう。セリーナ様もいらっしゃるのですから。」
「……それは、仕方ないか。」
クリスの頭の中には、叔母である、ボンベルグ家のセリーナの姿が浮かんだ。怒るといつも、片手で何かを握りつぶしていたような気がする。あれが自分の頭なら、ひとたまりもないだろう。
クリスが少し冷静になったのを見て、アンナが尋ねた。
「クリス様、王城からの抜け道など、聞かれたことはありませんか。」
「……。」
クリスは、しばらく考えていた。
「……井戸。水無き井戸があるとは、聞いたことがある。」
「ありがとうございます。では、周辺に井戸がないか、探ってみます。」
アンナは走って、兵たちに指示を出しに行った。
クリスは、その後ろ姿を見たまま、隣のピーターに話しかけた。
「……ピーター。ちょっと私の近くにいてくれるか。どうも、冷静になれない。」
「長い付き合いですから、分かっていますよ。暴走しそうになったら、頑張って止めますから。」
ピーターは苦笑して言った。その隣で、クリスの従者も頷いていた。
(とは言ったものの、早くお嬢様を助けないと。ファン、頼んだぞ。)
イーリンは、ジョンにナイフを後ろから突きつけられたまま、隠し通路を歩かされていた。
(一本道だけれど、結構長い通路なのね……。)
暗い通路の突き当りには、石でできた階段があった。ジョンは、ナイフをイーリンに向けたまま命令した。
「登れ。」
イーリンは、言われるがままに、階段を登った。一番上まで登ると、明かりのない小部屋に着いた。
「来い。」
いつの間にか、ジョンはイーリンの前に回っていた。ジョンは、ナイフをいったん腰のベルトに挿すと、イーリンの手を乱暴に掴んだ。
「あっ……。」
掴まれたことで右手の傷が開き、止まりかけた血がもう一度流れた。
ジョンは、そんなイーリンの様子には構わず、もう片方の手で壁の一部を探った。すると、その壁が内側に開き、隙間からうっすらとした光が漏れてきた。
(扉……?)
ジョンはそのまま、扉のようなものを大きく開くと、中に身体を入れた。イーリンは手を取られたまま、引っ張られるようにその中へ入った。
ジョンがもう一つの扉を開くと、明るい光がさしこんでまぶしくなった。ジョンが、先にするりと扉の外に出た。扉はどこかの部屋につながっているようだが、イーリンの手を掴んだまま、ジョンが前に立ちふさがっているので、室内の様子はよく見えなかった。
(この人が言っていたことからすると……、王城の中なのかしら。)
ジョンは、外に出たところで、誰かと口論をしているようだった。少しして、急に男の叫び声がしたかと思うと、イーリンを掴んでいたジョンの手の力が急に抜けた。
ぼとっと音を立てて落ちたものを見て、イーリンは思わず声をあげた。
「ひっ……。」
それは、肘のあたりから上がない、人の手だった。
「誰かいるのか! 出てこい!」
目の前をふさいでいたジョンの身体はすでになく、何者かの手がイーリンに伸びてきた。そして、恐怖で声も出ないイーリンの腕を掴むと、部屋の方へと引きずり出した。
「で、殿下……。」
腕を掴んでいたのは、怒った顔をしたアーサーだった。アーサーの右手には、血の付いた剣が握られていた。
そこは、イーリンには見覚えのある部屋だった。連れていかれるたびに、恐ろしくてたまらなかったアーサーの部屋。アーサーの癇癪のために、カーテンは破れ、そこらじゅうの壁にたくさんの傷がついていた。
そして今、部屋の中には、血の噴き出す腕を押さえて、のたうち回るジョンがいた。
「くそっ……。あの女、今日に限って、何で大人しくさせてねえんだよ……。」
ジョンは呪詛を吐きながらもだえていたが、出血のためにもうろうとしてきているようだった。
アーサーの握った剣を見て、イーリンは血の気が引いた。アーサーが、ジョンの腕を斬り落としたのだ。アーサーはこれから、この剣を自分に対して使う気なのか。
しかし、アーサーはそのまま剣から手を離した。剣が床にからんと落ちるのも構わず、がばっとイーリンに抱きついてきた。
「母上、戻ってきてくださったのですね。」
「え……?」
「遅かったのですね、お待ちしていたのですよ。」
イーリンは戸惑った。アーサーの言っている意味が分からない。アーサーの『母上』とはマデラインのことだが、マデラインとイーリンを間違えることなどあるのか。
ましてや、マデラインはもう……。
イーリンが混乱している間にも、アーサーはイーリンに甘えるように、顔を擦りつけてきた。
「……!」
忘れもしない、この香り。アーサーから、ウェナムの香りがする。
「い、いやっ……。」
イーリンは、思わず腕をつっぱり、アーサーから離れようとした。
「母上……?」
アーサーは、驚いた顔をしていた。
「どうして、私を拒絶するのです。」
イーリンは、ノーマンから聞いた、ウェナムの話を思い出した。
『普通の者に使えば、精神的な症状が出るのです。頭がぼんやりとしたり、妙に気が大きくなったり、興奮しやすくなったり……。まぼろしを見ることもあります。』
『そして、薬が切れてくると、イライラとして、落ち着かなくなるのです。』
(ウェナムの作用で、まぼろしを見ているのだわ。)
そして、いきなりジョンの腕を斬り落としたところを見ると、いつもに比べても冷静さを失っている。
イーリンが距離を取ろうと、じりじりと後ずさりすると、アーサーの表情がみるみる変わった。
「母上じゃない……。私を拒絶するのは……、貴様、イーリン・マクスウェルか。」
(私だと……気づいた?)
「なぜ、貴様が生きている。」
「殿下……。」
「殺しても死なない、さすが魔女だな。」
アーサーは、床に落とした剣を拾って、イーリンにその切っ先を向けた。
斬られるのではないか、という恐怖が身体を支配する。しかし、今のイーリンには、もうアーサーに怯えるばかりの自分でありたくない、という気持ちがあった。
「私は、魔女ではありませんわ。」
イーリンは、アーサーをきっと見据えて言った。
イーリンが怯む様子がないので、アーサーは舌打ちをして、剣を放り投げた。イーリンがその行動に驚いていると、ずかずかと近づいてきて、イーリンの腕を掴み、ベッドの方に引き倒した。
「な、何をなさるのです。」
イーリンが身体を起こそうとすると、アーサーは、その上に覆い被さってきた。
「調子に乗るなよ。」
アーサーの顔が、ごく近くまで迫ってきた。さっきとは違う恐怖が、イーリンを支配した。
「何が清らかだ、何が聖女だ。お前は弱い、ただの女だ。」
逃げようとしたイーリンの両手を、アーサーが上から片手で押さえつけた。
「そら、こうやって押さえつけられれば、お前は抵抗できない。」
「お、おやめください。」
「お前なんて、汚れてしまえばいい。」
アーサーが、イーリンの耳のそばに顔を寄せた。
「お前は、俺のものだ。」
──違う!
「いやっ……。」
スカートをたくしあげられ、アーサーの脚がイーリンの膝を割って入ってこようとする。身をよじるが、両手を押さえられているため逃れることができない。
首筋にアーサーの舌が這い、イーリンは鳥肌が立つような激しい嫌悪感に襲われた。
必死で顔をそらすと、アーサーの息が顔にかかった。そして、鼻につくウェナムの香り……。
「いや! いやあ!」
ぱん、と音がして、急に頬に痛みが走る。アーサーに平手打ちをされたのだ。
「あ……。」
「うるさいぞ、逆らうな!」
アーサーへの恐怖が蘇る。今までは、ここで動けなくなった。
でも、あの方は、凍る私の心を溶かし、優しく満たしてくれた。
「大人しくしてろ。相変わらず、生意気な奴だ。」
イーリンは、声をふりしぼった。
「いや、ファン! 助けて!」
すると、急にアーサーの身体が離れ、床に投げ出された。
「イーリン!」
イーリンが顔を上げると、そこには焦った顔をしたファンがいた。
ファンが、後ろからアーサーの肩をつかみ、イーリンから引きはがしたのだった。
お読みいただいてありがとうございます。次回は、アーサーの部屋での続きとなります。次もお付き合いいただけると嬉しいです




