58 小柄な男
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ジョン:キャサリンの仲間
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
「じゃあ、行ってくるよ。」
朝になると、クリスはノーマンとピーターを連れ、バクスター家の捜索に出かけていった。
イーリンとファン、アンナは、今日は館に残ることとなっていた。
「どこで変な奴が現れるか分からないからね。イーリンは、まだ館にいた方がいいね。」
そう、クリスが言ったためだ。
昨晩、公爵家の使用人たちに聞いたところ、やはり、キャサリンには仲間がいた。ジョンという名前で、小柄な男だという。
キャサリンもそうだが、ジョンもまた人をいたぶることが好きなようだった。気まぐれに人を殴り、ナイフで切りつけ、使用人たちが泣いて許しを乞うても、止めてはくれなかった。
特に女の使用人は、例外なくジョンにひどい目に遭わされていた。
「自業自得とはいえ……。とんでもない人間に仕えてしまいましたね。」
かつては、アンナやピーターも彼らと共に、公爵家に仕えていた。彼らの悲惨な話を聞いて、さすがにアンナも同情するところがあったようだった。
「順番を守って並べ。列の最後はここだ。」
公爵家の館の前に、兵たちの声が響いた。
マクスウェル家は、昨日からさっそく炊き出しをして、人々に食事を配っていた。窮乏する王都の民への慈善ではあるが、一方、新しい王政への反発を和らげ、マクスウェル家の印象を良くするねらいもあった。
使用人たちは、炊き出しには参加させてもらえず、ピーターの指示で、庭の掃除を言いつけられていた。
イーリンは、天幕の下で、人々に粥を配っていた。
当初は、イーリンは館の中で待機している予定だった。
しかし、炊き出しの様子を見に来たイーリンを、人々が目ざとく見つけてしまったのだ。そうなったら、変に隠すわけにもいかない。
アンナが作業を手伝いながら、ファンが後ろで見守ることになった。
「お優しいお嬢様、お恵みを。」
「はい、どうぞ。熱いので、気をつけて召し上がってね。」
イーリンはにっこりと微笑み、炊き出しの粥を一人一人に渡した。単調で、根気のいる作業ではあったが、イーリンは嫌な顔ひとつせず、皆に優しく対応していた。
「聖女様だ。」
清らかな美しさに見とれ、人々はイーリンを『聖女』だとほめそやした。長い列ができていたが、むしろイーリンに会うために、人々は不平も言わずに並んだ。
「まあ、いけませんわ。それは、もっと立派な方に呼びかける言葉よ。」
『聖女』と呼ばれることを、イーリン自身は否定するのだが、その謙虚さが、またイーリンの清らかな印象を強くした。
イーリンという少女の愛らしさに、惹きつけられる者たちもいた。
時々、粥をもらったのになかなか動かず、イーリンの手を必要以上に握ろうとする男がいたが、そのときは、ファンがイーリンの後ろから無言の圧力をかけていた。
そうすると、男たちはぞわっとしたり、妙な居心地の悪さを感じたりするようで、首をひねりながら立ち去っていくのだった。
それを横目で見ながら、アンナが言った。
「シルウァ様みたいな技使うの、やめてください。」
「何のことですか。」
ファンは、表情を変えずにしれっと言った。
(この人も、変わったわよねえ。)
ファンと出会ってイーリンは変わったが、ファン自身も変わった、とアンナは思った。最初のころの、敵を作らないための愛想のよさは少なくなり、素のままで、人と接することが増えた。
ここで出会った人々に、心を許してきているのだろう。アンナには、ファンはイーリンだけではなく、イーリンを取り巻く人々をも愛しているように見えた。
バクスター家の捜索に時間がかかっているのか、昼を過ぎてもクリスたちは帰ってこなかった。
長かった列もいったん途切れ、イーリンたちも休憩に入ることにした。皆は手分けをして、片付けをしていた。ファンもイーリンの様子を見つつ、兵たちを手伝っていた。
「聖女様、私にもお恵みを。」
いつの間にか、フードを深くかぶり、しわがれた声を持つ老婆が1人、イーリンのそばに立っていた。
「あら。」
「腹が減って死にそうなのです。」
「まあ……。気の毒に……。」
しかし、粥の鍋はからっぽになってしまっていた。
「申し訳ないわ。何かほかに差し上げられるものがないか、聞いてくるわね。」
「よろしいのですか。お優しい方。」
「お嬢様、私が参ります。」
「大丈夫よ、私が行くから。アンナはおばあさまを見ていてあげて。」
ここで待っていらしてね、とイーリンが声をかけ、奥へ行こうとすると、
「うっ……。」
老婆が苦しみ始めた。イーリンは、行こうとしていた足を止め、思わず駆け寄った。
「まあ、どうなさったの。」
「胸が、苦しいのです。」
イーリンは、心配そうに、苦しそうな老婆の背をさすった。アンナがイーリンに言った。
「身体を診られる者がいないか、探してきます。」
「おお、感謝します。親切な方々。」
アンナが老婆のそばを離れ、人を呼びに行こうとすると、
「アンナ待て! イーリン、離れて!」
と、ファンの声が飛んだ。
いつも穏やかなファンの、聞きなれない調子にイーリンは戸惑った。声の方を見ると、ファンは剣を抜いて、こちらに向けていた。
イーリンが混乱しながらも、ファンの方に駆け寄ろうとすると、老婆はイーリンの手をぐっと掴んだ。それは、年寄りとは思えない力だった。
「えっ……。」
あっという間に、イーリンは後ろ手にされてしまった。首筋に、何か冷たいものが当たった。
「お嬢様!」
アンナが叫んだとき、ひらりと、老婆と思った人物のフードが外れた。その中にいたのは老婆ではなく、下卑た笑いを浮かべた、小柄な男だった。
イーリンの細い首に当たっているのは、男が持った大きなナイフだった。よく研がれたそのナイフは、今にもイーリンの柔肌を傷つけそうに見えた。
「おっと、余計なことをしようと考えるなよ。俺は、ナイフの使い方は上手いんだ。お前たちが近づく前に、お嬢様をズタズタにするなんて朝飯前だ。」
イーリンのすぐ後ろで、ナイフを持った男が言った。
「お前が、ジョンか。」
剣を構えたファンが、男に尋ねた。
その名前を聞き、離れたところにいた使用人が、びくっとした。
ジョンは、相当な場数を踏んでいるのか、ファンの覇気にも怯んでいなかった。
「名前を覚えていただいているとは、光栄だね。なら、なおさらお嬢様は離せないな。さあ、来い。」
ジョンは、イーリンの首にナイフを当てたまま、じりじりと動き出した。ジョンが容赦のない男であることは、公爵家の使用人たちがすでに証明していた。
イーリンを人質に取られ、ファンを始め、周りの者は動けないでいた。
「ど、どこへ……行くのです……。」
イーリンは、声を絞り出した。
「おや、この状態で喋るのか。見た目と違って、なかなか根性があるな。」
ジョンは、少し驚いた様子で言ったが、その後にやりと笑った。
「あんたがよく知っている人が、あんたと遊びたいってさ。二人とも、ずいぶんお待ちかねだぜ。」
ジョンの言葉を聞いて、イーリンは青ざめ、身体をこわばらせた。その様子を見て、ジョンはおかしそうに笑った。
「はは、あんた、よっぽどあいつらが苦手らしいな。後で俺とも遊ぼうぜ。」
そのままジョンは、ナイフをイーリンに当てたまま、館の裏側へ続く道まで連れていった。その道は、館の壁と庭の垣根に挟まれており、2人ほどが横に並べるくらいの幅だった。
その道の先には、言いつけられた作業をするために、10人ほどの使用人たちが固まっていた。彼らはジョンの姿を見て、絶望した表情を浮かべていた。
ジョンは、その使用人たちに向かって、大声を出した。
「前に立って、壁になれ!」
しかし、使用人たちはびくびくとしながらも、なかなか動かなかった。昨日のクリスとのやり取りが、頭に残っているのだろう。
ジョンは、舌打ちをして、もう一度叫んだ。
「てめえら。誰がご主人様か、思い出させてやろうか!」
その言葉に、使用人たちは「ひいっ」と叫び、走ってジョンたちの前にやってきた。そして、ファンや兵士たちとの間に、両手を広げて立ち塞がった。
何人かはジョンに行け!と言われ、ファンやマクスウェル兵の方に向かってきた。
「うわあああ!」
悲鳴をあげながらしがみついてくる使用人たちに、マクスウェル兵は戸惑った。これが兵同士の戦いであれば、容赦なく斬り捨てる。しかし、丸腰の使用人に対して、剣を抜いてもいいものか。おまけに女性も混じっている。
その隙に、ジョンはイーリンの手を引っ張り、さらに奥へと逃げ出した。
「いやっ……!」
そこで、ファンが叫んだ。
「怯むな! 抵抗するなら迷わず斬れ! お前たちのお嬢様が攫われるぞ!」
その言葉で兵たちは我に返り、それぞれ剣を抜いた。それにさらなる恐怖を感じたのか、しがみついていた者は、手を離してへたりこんだ。
しかし、壁となっていた者たちは、恐怖でパニックになっており、道を塞いだまま突っ立っていた。
ファンは、迷わず彼らの方に走っていき、身体を軽く下げたかと思うと蹴りを繰り出し、3人ほどを吹っ飛ばした。そして、蹴った足を支点にして体を回転させ、肘打ちを繰り出すと、数人を一斉に倒した。
そうやって人の壁を崩すと、その間をファンは駆け抜けていった。
兵士たちは、その流れるような動きに、一瞬呆気に取られていたが、
「私たちも続くわよ。倒された者は、縛り上げておいてちょうだい!」
と言う、アンナの声で我に返った。ファンを追って、アンナも道を走り抜けていった。
お読みいただいてありがとうございます。これからファンは、イーリンを追いかけていきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




