56 公爵家の館
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ジョン:キャサリンの仲間
「キャサリン。お前、よく城から出てこれたな。」
ジョンは、キャサリンが不在の間、公爵家の館を任されていた。最初は下男として入りこんでいたが、次第に幅を利かせるようになったのだ。
「アーサーに、隠し通路を教えてもらったのよ。」
「それで、自分だけ逃げてきたわけか。お前らしい。」
ジョンは、くっくっとおかしそうに笑ったが、すぐに笑うのをやめた。
「だけど、ここもどうなるか分からんぞ。王都の周りは、すでにマクスウェル家の兵に囲まれてる。」
「何ですって。」
キャサリンもアーサーも、まともに侍従の話を聞いていなかったので、実際のマクスウェル家の動きや、王都がどういう状態であるのかは知らなかった。戦など知らないキャサリンは、このようなときに兵がどういう動きをするのかも、予想ができていなかった。
こっそり王城を抜けだせば、そのまま王都の外に出て、どこかの領地か他国に逃れられると思っていたのだ。人を籠絡するのは得意だ。行く先々で1人2人を手玉にとれば、キャサリンは楽に生きていけるはずだった。
「何人かの貴族が話に行ったようだが……。交渉がうまくいかなかったんじゃないか? すぐに攻めてくるわけでもなさそうだが、包囲されているから外にも出られん。」
それはまずい。キャサリンの黒髪は目立つし、マクスウェル家がキャサリンを許すとは思えない。マクスウェル家の兵が、王都の中に入ってきてしまうようなら、ここにいる方がむしろ危険だ。
「私、王城に戻るわ。こんなところにいられない。」
もしかしたら、王都の外までつながっている隠し通路があるかもしれない。そちらを探す方が、まだましだと思われた。
「俺にもその通路の場所を教えろよ。まだ、城の中には多少食糧はあるんだろ。」
「いいわよ。でも、アーサーの部屋につながっているから、注意してよ。」
外を動くのは、あまり貴族に顔が割れていないジョンの方が適任だ。ジョンは、貧民窟に隠れ家を持っている。身を隠すにはうってつけだが、貧民窟には物資が届かない。
キャサリンは、王城の中の物資と引き換えに、ジョンをしばらく連絡係にして、外の様子を探らせることにした。アーサーには、適度にあれを与えておけば、大人しくしているだろう。
「じゃあ、ついてきなさい。」
キャサリンは、隠し通路の入り口まで、ジョンを連れて行った。
キャサリンが公爵家の館を訪れてから2日後、争うことなく王都の正門は開かれた。
しかし、王城の門は閉ざされたままであった。それは、王城の中にいる者と、マクスウェル家が敵対していることを、如実に示していた。
「イーリン、無事に着いて良かったよ。」
「お兄様も無事でよかったわ。」
イーリンたちの到着を、クリスは上機嫌で迎えた。愛する妹をしっかりと抱きしめると、クリスは穏やかな笑顔になった。
「ある程度までは先に伝えたから、もうほとんど知っていると思うけど……。」
クリスはイーリンたちに、現在の状況を改めて説明してくれた。
第二王子ルイスを始め、貴族たちのほとんどはマクスウェル家に賛同している。そのため、これから正門は開かれるし、その後も王都の中で戦闘が起きることは、ほぼないと思われた。
王城は、ルイス以外の王族と、王太子派のわずかな貴族のみで籠城に入っている。ルイスの話によると、さほど城内に備蓄はなく、数日間くらいしか持たないであろうとのことだった。
クリスたちは無駄な戦闘を避けるため、相手が弱って降伏するのを待つことにしていた。
「それまで、見張るだけでやることもないからね。ウェナムの捜索以外にも、ルイス殿下を立てて、王都の立て直しを図ろうかと思って。」
「それは、よろしいですね。」
ルイスとマクスウェル家が協力している様子を見せることで、貴族たちにも民にも、安心を与えることができるはずだ。
事態が平和的な方向に動いていっていることに、イーリンはほっとした。
王都に入ると、クリスたちは真っ先に公爵家の館に向かった。そもそも自分たちの持ちものであり、中央に近い館は、指揮の拠点にするのにうってつけだからだ。
しかし、久しぶりに見る館は、ひどいありさまだった。庭の草は伸び、垣根は崩れ、あちこちに人が引きずられたような跡があった。歴史ある瀟洒な館は、どことなく薄汚れた印象となっていた。
「あー……。ひどい……。」
庭師として、丁寧な仕事をしていたピーターは、荒れ果てた庭を見て嘆いた。
「気分が悪いな。」
クリスも、眉をひそめた。
かつて、館の庭や室内の装飾は、長く過ごすことが多かったイーリンの好みが反映されていた。華美なものはあまりなかったが、一つ一つの物が大事にされ、それぞれが調和して存在していた。それでいて洗練された雰囲気があり、訪れる者に居心地のよさを感じさせていた。
今の館には、イーリンと最後に過ごしたころの面影はなかった。また一つ大事なものを壊され、クリスの怒りは強くなっていった。
「ひいっ……。」
館の中に、一行が足を進めると、使用人たちが端の方で震えていた。彼らは、入ってきた人間の顔を認めると、口を開いた。
「ク……クリス様? イーリン様?」
「久しぶりだね、君たち。元気だった?」
クリスは、使用人たちを見回し、にこやかに笑って言った。
使用人たちには、男女問わず、顔や身体に傷があった。引き裂かれたような傷が残った者、殴られたような痕がある者と様々であり、おそらく最近まで仕えていた者にやられたのであろう、と思われた。
「まあ……。」
イーリンは、彼らの傷を痛ましそうに見た。
イーリンとクリスの様子を見て、使用人たちは安心したようだった。左目の上に傷がある、年かさの侍女が、縋るような目を向けてクリスに尋ねた。
「クリス様。助けに来てくださったのですか。あの者たちは、もう来ないのですか。」
「あの者たち? ああ、あの娘のことかい。今は王城にこもっているよ。」
「ああ、よかった。イーリン様、ご無事だったのですね。」
侍女が近寄ろうとすると、イーリンは、びくっと身体をこわばらせた。ファンがすっと前に立ち、イーリンを自分の背に隠した。
「あ、あの……。」
「それで、君たちは、いつまでここにいるのかな?」
クリスの顔は笑ったままだったが、声は冷たかった。
クリスの言っている意味を理解すると、使用人たちは顔色を変えた。
「君たちが主人にひどい目に遭わされたことについては、同情するけどね。まだここで働くつもりなら、それは虫が良すぎないかい?」
「わ、私たちは、騙されて。」
「騙されたかどうかは知らない。君たちは、自分の意志でいったん主人を替えたんだ。私たちは、そういう使用人を、もう一度雇わないだけだ。」
使用人たちは、絶望の表情を浮かべた。公爵家の使用人という名誉ある地位から、紹介状ももらえず追い出される。おまけに身体のあちこちに傷を負い、見た目も悪い。
このような状態で、これからどんな仕事があるというのだろう?
「お兄様。お待ちくださいませ。」
イーリンが、クリスに声をかける。クリスは、困ったような顔をして答えた。
「イーリン。彼らのせいで、イーリンは恐ろしい目にあったんだよ。それなのに、許してしまうのかい?」
「……いいえ。お兄様、彼らを置いておけないのは仕方ありません。でも、せめて傷が癒えるまで。」
彼らは怪我をしている。治療を受けて、見た目が少しでも改善すれば、今後の行き先も少しはましなのではないか、とイーリンは考えた。
「裏切り者なんだけどねえ。」
とはいえ、使用人たちに、少し恩を売ってからでも悪くはない、とクリスは思った。このまま彼らを解き放っては、逆恨みで何かをしてくるかもしれないし、長年仕えた使用人をあっさり見捨てたと、悪い噂を流されるおそれもある。
「分かった。じゃあ、最低限は働いてもらうけど、それ以外は隅の方にいておくれ。君たちの顔も見たくないから。変なことをしたら許さないよ。」
「も、もちろんです。ありがとうございます。」
使用人たちは、床に這いつくばるようにして頭を下げた。
使用人たちは、館の端の方の部屋で、まとまって過ごすこととなった。
洗濯や庭の手入れなどについては、必要に応じて手を借りるが、料理などはマクスウェル家から連れてきたものが担当し、触らせないようにした。
クリスたちが話をしている間に、ピーターは館の外の確認を済ませていた。ピーターは、泣きそうな顔で惨状を報告した。
「どこもかしこも汚いんですけど……。特に、垣根の一部がめちゃめちゃなんですよ。いったん切って、植え替えないとだめそうです……。」
「まあ……。ピーターがいたときは、綺麗にしてくれていたのに。」
イーリンも、親しんできた庭が荒らされたことは悲しかった。ピーターは、まだまだ怒りがおさまらないようだった。
「悔しいです。あいつらがいるうちに、とことん力仕事をさせてやりますから。」
「まあ、止めないけど、先に捜索の方に協力してくれよ。」
クリスはピーターの様子を見て、少し表情がやわらかくなっていた。アンナがピーターをなだめて言った。
「まあまあ。早く事態が落ち着いて、ゆっくり庭師の仕事ができるようになればいいわね。」
イーリンも言った。
「そうね、そのときは私も手伝うわ。一緒に頑張りましょうね、ピーター。」
「お嬢様……。」
イーリンは、ファンのそばで微笑んだ。そうすると、重かった場の空気が、ふわりと少し軽くなった。
お読みいただいてありがとうございます。次回も、王都の中で話が進んでいきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




