52 開戦
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン・イン:クリスの従者、イン国元皇子、イーリンの現婚約者
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
その日、夜明け前からマクスウェル領では、大勢の人が動いていた。
昨日のうちに、イーリンがマクスウェル城に戻ったという噂が、領内に広まった。
領主の末娘である、美しく優しいお嬢様の無事に、領民たちは大いに喜んだ。そして、可憐な少女に対して行った王家の心無い仕打ちに、改めて怒りを感じていた。
太陽が昇り始めたころ、イーリンはクリスと共に、城の前にずらりと並んだ兵たちの前に姿を見せた。
「皆様、私は無事に戻りました。今まで、苦労をおかけしました。」
様々な経験を経たイーリンは、これまでの儚げな雰囲気とは異なり、穏やかだが、芯の強さを垣間見せていた。それは、兵たちにとって、かしずきたくなるような神々しさすら感じさせた。
「……皆様の無事を、お祈りしております。」
兵士たちは、一斉にイーリンに対して敬礼をした。ファンは少し離れたところで、その様子を見守っていた。
「兵たちの士気が下がるから、婚約のお披露目は戦が終わってからだね。」
いったん城の中に戻ったあと、クリスがファンに耳打ちした。
「……あまり、大々的にはやりたくないのですが。」
「ははは、そういうわけにもいかないだろう。」
開戦前の城は、緊張感が漂っていた。後方でイーリンに同行するファンと違って、クリスは前線の指揮を取る。これから、最も危険な場所に行くのだ。
「ちゃんと、その時は出席してくださいよ。」
「当たり前だ。イーリンの可愛い姿と、ファンの緩んだ顔をこの目に焼き付けるつもりなんだから。」
ふふ、とファンは笑った。そのためなら、クリスは何としてでも無事に戻ってくるだろう。
「ご武運を。」
「ありがとう。」
クリスは、ファンと握手を交わし、また外へと戻っていった。
戦は、太陽がすっかりと昇り、周りが明るくなった頃に始まった。
クリスが出撃の命令を出すと、耳をつんざくようなラッパの音が響き渡った。そして、マクスウェル城の高台から、一気に5本の狼煙が上がった。
それから、内側の城壁から順に5本ずつの狼煙が上がり、最後に、西の石壁のそばからも狼煙が上がったかと思うと、いきなり門の跳ね橋が下ろされた。
何事かと王家の兵が戸惑っているところに、石壁の内側で、兵士たちの鬨の声が響き渡った。すると、門から大量の兵士たちが、次々に橋を渡って飛び出していった。
統制のとれていない王家の兵は、すぐに次々と倒されていった。石壁の外が静かになると、門からは続々と歩兵に続いて騎兵も現れ、隊列を組んで王都の方向に進んでいった。
まず、クリスが王都へ向かい、ヘンリーはマクスウェル城に残って、領内の指揮を取ることとなっていた。
イーリンたちは遅れて王都に向かい、ウェナムなどを捜索する予定であった。
クリスが出発した後、ヘンリーは、残ったファンとイーリンを自分の部屋に呼んだ。
「ファン。イーリンを頼んだ。」
「はい。」
「イーリンは、無理をしないように。ファンから離れず、安全なところにいるんだぞ。」
「はい。」
イーリンの王都行きについては、ソフィアが、ヘンリーに口をきいてくれた。ファンだけでなく、アンナやピーターも、イーリンに同行する予定であった。
「……それから……。」
ヘンリーは、少しためらったが続けた。
「王都に行ったら、お前たち2人で、クリスを支えてやってほしい。あの子はあれで、頼りないところがあるから。」
ファンは、その言葉にぴくりと反応した。
──ヘンリー様は、ご存知なのだ。クリスのことを。
だから、イーリンのことが心配ではあるものの、王都に行かせることを許した。クリスには、イーリンが必要だと考えているのだ。
「承知しました。」
「分かりました。お父様。」
おそらく、イーリンがそばにいれば、クリスはまともなままでいられるのだろう、とファンは思った。
ヘンリーの部屋を出ると、イーリンはファンに言った。
「ファン。お兄様とは、無事に会えますよね?」
「もちろんです。」
ファンが答えると、イーリンは、ファンの顔を見上げ、じっと見つめた。
「私、ファンのそばにいます。あなたも、どこかに行ってしまっては嫌。」
イーリンの目は、潤んでいた。ファンは、震えるイーリンの身体を、そっと抱いた。
「大丈夫です。私は、どこにも行きません。」
「怖いのです。大事な人を失うのは嫌です。」
(ファンがお兄様たちを失ったときも、こんな気持ちだったのかしら。私がいなくなったときも、皆にこんな気持ちをさせていたのかしら。)
イーリンは、ファンの腕の中で、ぽろぽろと涙を流した。
残された者がこれほど辛いのなら、簡単に命を棄てるなどと考えてはいけないのだ。これまでの自分の愚かさが、情けない。
「あなたのそばが、私の居場所です。イーリン。」
「はい。一緒にいてくださいね、ファン……。」
ファンは、イーリンが泣き止むまで、優しく言葉をかけ続けた。
城を出発したクリスは、王都に向かう馬上で、色々と考えを巡らせていた。
──初めての戦なのに、恐怖を感じない。
傷を負ったり、死んでしまったりする可能性があることは分かっている。先程も、斬られた王家の兵士たちを見てきたばかりだ。
それなのに、全く恐れを感じないのだ。
(そもそも、生きている意味もあまり感じないしな。)
クリスは、周りの兵士たちに目をやった。皆、一様に緊張した顔つきをしている。それに比べて、自分はいつもの涼しい顔だ。
イーリンを探しに行ったときの方が、よっぽど焦った顔をしていただろう。
(やっと、イーリンを安心して任せられる相手が見つかったから……。)
クリスとしては、イーリンを守れるなら、相手が森の主だって構わない。
ただ、ファンは信頼できる人間であるし、何よりイーリンがファンを愛している。
ファンは、不思議な人間だった。
ふらりとやってきて、みるみるうちに、マクスウェル家の信頼を勝ち取ってしまった。しまいには、マクスウェル家の宝であるイーリンの心までも、すっかり掴んでしまった。
腕も立つし、仕事もできる。おまけに、自国では、きわめて高貴な生まれだときた。
それなのに、本人は無欲で、いつも飄々とした顔をしている。
あまり他人に興味のないクリスだが、ファンのことは面白いと思っていた。それに、ファンといるのは、なんだか居心地がよかった。
(兄妹だから、感覚も似ているのかな。)
クリスは、今さらながら、イーリンとファンの2人と離れてしまったことが寂しくなった。
(せっかく、2人と再会できたのに。……離れたくなかったなあ。)
中庭で話しているイーリンとファンを見たとき、今まで自分になかったものが湧いて出て、空っぽだった何かが満たされていくような気がした。その感覚がどういうものかは分からなかったけれど、とてもあたたかで、大事にしたいと思った。
だからこそ、クリスはイーリンとファンに幸せになってもらいたかった。それなのに、アーサーたちに、無惨に壊されそうになった。
クリスは、自分の大事なものに手を出した彼らに対して、激怒していた。秀麗で一見優し気に見える顔からは、想像できないほどに。
(そういえば、あいつらを捕まえたら……。)
真っ当な父親は、「然るべき」処分を下そうとするだろう。まあ、それでも極刑に近い形になるだろうが。
ただ、自分としては、それでは足りない。
この湧き上がる怒りの衝動を、余すことなく相手にぶつけたい。絶望の中、泣き喚いて許しを乞い、縋ってくる手を踏み潰したい。鼻を削ぎ、耳を引きちぎり、あいつらの誇る美しさなど、なんの意味もないようにしてやりたい。
最後には、生きながら獣に食わせようか、その身を裂いてやろうか、炎で炙ってやろうか。
(はてさて、どうしたものか。)
とはいえ、真っ当な人間としては、そんなことはできない。マクスウェル家は、「王家を解放する」という大義のために戦うのだ。
この衝動に身を任せれば、全てを失う。信頼や大義だけでなく、イーリンたちによって満たされた、あたたかなものまで失ってしまうだろう。
しかし、これから戦で血が流れる中で、どれだけ自分はこの衝動を抑えられるのだろうか。
──当たり前の恐怖すら感じず、怒りだけが自分を支配しているというのに。
(ごめんね、イーリン、ファン。なるべく時間をかけずに終わらせるから、できたら早く来てほしいかな。)
クリスは、ちらりと一度、城の方に目を向けた。そして、ふう、と息を吐くと、また前を向いて馬に揺られ続けた。
王都にいる貴族たちは、マクスウェル家や王家の出方を探るため、それぞれがマクスウェル領の様子を見張らせていた。
そのため、マクスウェル領から大量の狼煙が上がったという知らせは、早くに貴族たちの館にもたらされた。
「狼煙は、5本だったか。」
「はっ。5本の狼煙が、次々に上がったと聞いております。」
館で報告を受けたストラスタ侯爵は、そのまま、娘リリーの部屋に向かった。
自分の部屋に、急に厳しい顔つきの父親が訪れ、リリーは驚いた。
「お父様。どうされたのですか?」
「リリー、きょうは登城しなくていい。館にいなさい。」
リリーは、今日もキャサリンに呼び出され、登城する準備をしていたところであった。
「でも、お父様。王家からの命令が……。」
「いや、もういいんだ。」
ストラスタ侯爵は、リリーの言葉をさえぎって言った。そして、窓から、マクスウェル領の方角を眺めた。リリーは、父親の様子に戸惑っている。
──もうすぐ、大量の兵がやってくる。
「……戦が、始まったのだ。」
お読みいただいてありがとうございます。次は、久しぶりにアーサーとキャサリンが出てきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




