49 出自
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
マリア・マクスウェル(クリークス):イーリンの姉、隣国の貴族ヴィルターと結婚
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ヴィルター・クリークス:隣国ハーフェンの公爵、マリアの夫
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
「あら、そんなに難しく考えることじゃないわ。あなた。」
悩むイーリンの耳に、明るい母ソフィアの声が飛び込んできた。
「これからは、守ってもらえる人のそばにいればいいのよ。あの痴れ者は違ったけれど、ふさわしい方は、もういるでしょう。」
「むむ。」
父ヘンリーは、難しい顔をしている。
「え?」
イーリンが、母親の真意を測りかねていると、ソフィアはファンの方を向き、にっこりと笑った。
「ねえ、ファン。」
「え、はい。」
ファンは、急に自分に話が飛んだので、とっさに返事をしたものの、イーリンと同じように驚いた様子だった。クリスも、ファンの方を向いてにこやかに笑った。
「母上の言うとおりだ。ファンがいれば安心ですよ。父上。」
「あの……。お母様、お兄様……?」
ソフィアとクリスは、構わず2人で笑い合っている。
急に、こんなところで何を言い出すのだろう。
イーリンは、顔が熱くなってくるのを感じた。ファンもイーリンの隣で、どう答えたものか戸惑っていた。アンナとピーターは、しれっとした顔をしている。
広間は先程の重苦しい雰囲気とは違い、和やかになっていた。
「うむ……。」
しかし、ヘンリーは難しい顔を崩さず、黙ったままであった。
場が落ち着いてくると、ヘンリーは顔をファンの方に向けた。ファンはヘンリーの視線に気づき、自分もヘンリーの方を向いた。
ヘンリーは、重い口を開いた。
「ファン殿、君に、確認しておきたいことがある。」
「はい。」
2人が会話を始めたのを見て、まわりは口を閉じ、静かになった。ヘンリーは、ボンベルグ兵たちに席を外すように言った。
ボンベルグ兵たちが広間を出たのを確認したあと、ヘンリーは、ファンをしっかりと見据えた。
「……君は、イン家の人だね?」
ノーマンが息を呑む音が聞こえた。ファンは表情を変えず、ヘンリーをじっと見たまま黙っていた。
ヘンリーは続けた。
「ヴィルターから、ある程度のことは聞いた。ただ、君の口からも教えてもらえないか。」
「……。」
ヴィルター・クリークスは、隣国ハーフェンの若き公爵であり、イーリンとクリスの姉マリアの夫である。ファンは、元々ヴィルターの紹介で、この国にやってきた。
ファンの出自については、ボンベルグ領にいたときに、イーリンも尋ねたことがある。そのときは、いずれ全てを伝えるが、待っていてほしいと言われた。
イーリンは、隣に座っているファンの顔を見た。ファンが嫌なことなら、してほしくはなかった。
ファンは、目を閉じて考えている様子であったが、静かに一度息を吐くと、口を開いた。
「……わかりました。お伝えしましょう。」
その言葉に驚き、イーリンはファンを見つめ、尋ねた。
「いいのですか。」
「はい。あなたにも、今、この場で聞いていただければ。」
ファンは、イーリンの方を見て、いつもの穏やかな微笑みで答えた。しかし、その目の奥には、やはり寂しさが見えるようだった。
ファンは、正面に向き直り、静かに話し始めた。
「私の名前は、ファン・インと申します。イン国の、皇帝の子の1人です。」
イン国は、大陸の東にある国である。皇帝が国を支配し、独自の文化が発展していると言われていた。イン国との間には、大国ハーフェンを挟むため、ギーベル王国と直接のやり取りをすることはほとんどなかった。
ヘンリー以外の皆は絶句していた。イーリンにとっても、驚くような内容だった。以前、姉マリアは「ファンは高位貴族だったのではないか」と言ったが、まさか、皇家に連なる人であったとは思っていなかった。
ソフィアが、ファンに尋ねた。
「皇帝の子って……ファンは皇子だということなの?」
「かつては、そうでした。今は違います。」
「今は……?」
ソフィアが、訝しげな顔をする。
「私は、国を捨てた者です。」
(国を、捨てた……。)
イーリンは、城の回廊で会ったときの、ファンの言葉を思い出した。
『愛する故郷があるのはいいことです。遠く離れても、それは心に残ります。』
──ファンは、故郷から遠く離れただけではなく、もう戻れないということなのだろうか。
ファンは話しながらも、誰の方も見ていなかった。遠くを見ているようなその目には、失った故郷が映っているのかもしれなかった。
「イン国では、皇帝は何人もの妃を持つのです。だから私には、腹違いの兄弟がたくさんいました。」
現在の皇帝は、ファンの父である。複数の妃のうち、最も身分の高い女性が皇后となったが、男子が生まれなかった。しかし、皇帝と他の妃たちとの間には、男子が生まれていた。
ファンの母は、皇后に次ぐ第ニの妃であり、皇帝の寵愛を得て、皇子となる2人の男子を産んでいた。
「それが、兄と私でした。」
当然に、ファンの兄は皇太子となることが予想されていた。
「兄は、勉強熱心な優しい人でした。薬学に興味がありまして、よく薬師たちと話をしていました。」
ファンの口調は、懐かしそうだった。
「私は、武術や気の方が面白くて、もっぱらそちらの方に一生懸命でした。良い師匠もおられましたので、よく修行場に入り浸っていました。」
ファンたち兄弟の仲は良かった。ファンは皇位に興味はなかったし、兄を支える立場になることで満足していた。そのため、兄弟での争いは起きなかった。
しかし、第三の妃にも、1人の皇子がいた。
第二、第三と言っても、輿入れした順ではない。父親の身分や実家の力、そういったものが妃の順位に関係していた。
第三の妃は、ファンたちの母が後宮に入る前に寵愛を得ていた女性だった。そのため、彼女が産んだ皇子は、ファンたち兄弟よりも年上であった。
妃の産んだ子が皇帝になれば、妃もその実家も、絶大な権力を有するようになる。そのため、熾烈な皇太子争いが、皇子たちが生まれてすぐに始まるのが常だった。
イン国では昔から、幼い皇子たちが何人も暗殺されてきた。
「……まあ、よくあることです。」
当然、ファンたちもまた、命を狙われ続けてきた。
ファンの兄が薬学を、ファンが武術を学んでいたのは、道楽だけではない。少しでも本人たちが身を守れるよう、生き延びられるよう、彼らの家が、それぞれに合ったものを身につけさせようとしたのだった。
実際に、ファンたち兄弟は、そのおかげで何度も危ういところを助かってきた。
ただ、少年だったファンは、そんな生活にうんざりとしていた。
「私は、武術の師匠の元に修行に出してくれるよう、自分の家に頼みました。」
兄に次ぐ皇位継承権を持つとはいえ、自分はしょせん兄の代替品である。命を狙われながら、皇宮の中で窮屈な生活をしているよりは、もっとのびのびと過ごしたかった。
母の実家の方でも、兄に万が一のことがあった場合を考え、ファンを命を狙われやすい皇宮から離しておくのは悪くないという結論になったらしく、ファンの申し出を許可した。
「兄は、私を快く送り出してくれました。」
優しかった兄は、ファンの希望が通ったことを喜んでくれた。自分だけが皇宮を離れることに対して、兄に申し訳ない気持ちはあったが、ファンは師匠の元へ向かった。
「山の中での修行は、大変でしたが、充実していました。」
権力を得るために人を陥れようとする、人の世は醜かった。そこから離れ、自然の気を感じながら、仲間たちと生きる生活は、すさんでいたファンの心を癒してくれた。
「2年ほど経った時、母が亡くなったという連絡が来ました。」
ファンは急いで山を出て、都に戻った。
第二の妃である母もまた、命を狙われる立場にあった。病死という話になっていたが、誰もそうとは思っていなかった。
「イン国では、薬の技術が発達しています。……前に、ノーマン先生がおっしゃったように、薬は毒でもあります。」
イン国での毒殺は、よくある暗殺方法の一つだった。
寵愛していた妃を失った皇帝は嘆いたが、代わりはいくらでもいた。母が亡くなったことで、ファンたち兄弟は、皇宮での後ろ盾を一つ失った。
独りで戦わねばならない兄を心配し、ファンはそのまま皇宮に残るつもりであった。しかし、久しぶりに会った兄は、ファンに山に戻るように言った。
『ファン。お前は、すぐに山に戻りなさい。ここは危険だ。』
『しかし、危険なのは前からではありませんか。』
『違う。今は、誰が敵か味方か、分からないのだ。』
『それなら、なおさら……。』
それでもファンは残ると言ったが、兄は頑なに断った。最終的にファンの方が折れ、心残りはあったものの、ファンは山に戻ることになった。
別れ際に兄は言った。
『葡萄酒に注意しろ。人から勧められたものには、決して口をつけるな。』
──葡萄酒?
「それは……!」
「その頃、イン国の一部では、ウェナムが流行っていたのです。……あそこでは、違う名前で呼ばれていましたが。」
ウェナム自体は、もっと以前にイン国に伝わっていた。しかし、ワインを飲む習慣のないイン国では、ウェナムの香りが嫌がられ、あまり広まっていなかった。
しかしその頃、ウェナムが利用できる薬であると気づいた人々が現れた。高価なウェナムと、輸入品であるワインを手に入れられる家の中に。
最初は、『珍しい酒だ』と言って勧めて飲ませる。癖になったら、それを欲しがる心を利用し、思いのままに操る。キャサリンが、今やっていることと同じだった。
「兄に会ったのは、それが最後でした。」
ファンは、ため息を吐いた。皆は、ファンの話をじっと聞いていた。
お読みいただいてありがとうございます。次回も、ファンの話が続きます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




