48 迎えた朝
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
シルウァ:『昏き森』に存在する森の主
短い夜はあっという間に過ぎ、朝の涼しい空気の中で、イーリンは目を覚ました。
(ここは……。)
マクスウェル城の、見慣れた自分の部屋だ。薄暗い中でも、どこに何があるかは大体わかる。
イーリンは身体を起こし、ベッドから出て窓の方に向かった。空は晴れているようで、板戸の隙間からは、まぶしい光がさしこんでいた。板戸を開き、いっぱいに広げると、気持ちの良い風が部屋を通り抜けた。
窓から外を覗くと、眼下に見える三重の城壁の向こうに、シルウァのいる森が見えた。
自分たちは、あそこを通ってきたのだ。森の主であるシルウァの協力がなければ、イーリンはここまでたどり着くことができなかっただろう。
(シルウァ様、ありがとうございます。)
心の中でシルウァに感謝の気持ちを伝えると、指輪から、シルウァの香りがふわりと漂った。シルウァの喜んでいるような感情とともに、頭の中に声が聞こえてきた。
⦅指輪を、外してはいけないよ。⦆
「えっ……。」
基本的に、シルウァの力は森の外には届かない。一部を指輪に宿しているので、指輪を通して様子を見たり、感情を伝えたりすることはできるようだったが、言葉が聞こえたのは初めてだった。
「わかりました、シルウァ様。」
おそらく、これはとても重要なことで、シルウァがどうしても伝えたかったことなのだろう。イーリンは指輪にそっと手を当て、シルウァに約束した。
朝の支度をしていると、アンナがノックをして、そっと部屋に入ってきた。すでに起きているイーリンを見て、アンナは驚いて言った。
「まあ、イーリン様。もう起きられるのですか? もう少しお休みになっていてもいいのでは。」
「だって私、帰って来られて嬉しいのよ。じっとしていられないわ。」
イーリンが笑って言うと、アンナも笑った。
「そうですね。私も同じです。」
そして、アンナは支度を手伝ってくれた。
朝食は、久しぶりの家族水入らずでとった。ノーマンやファンたちは、気楽にしてもらいたい、という理由で、別の場所に食事が準備されているようだった。
「よく眠れたかい? イーリン。」
「ええ、お兄様。」
兄のクリスは、上機嫌だった。イーリンがちゃんと食事がとれているのを見ると、にこにことしていた。
ボンベルグ領でも、医者のノーマンの指示のもとに、イーリンの体調に合わせた食事を用意してもらっていたし、森で過ごしてからは、毒が抜けたように体が楽になっていた。
父ヘンリーや母ソフィアも、イーリンが思ったよりも元気そうにしていることで、安心した様子だった。
食事が終わると、クリスとイーリンはそのまま広間に残るように言われた。座ったまま待っていると、ファンたちが入ってきた。ノーマンやボンベルグ兵たちも呼ばれたようで、緊張した面持ちで扉をくぐっていた。
ファンは、イーリンの隣の席に案内されて座った。
全員が席に着くと、ヘンリーは人払いをした。
「皆、まだ疲れがとれていないところを、集まってもらってすまない。取り急ぎ、教えてもらいたいことが多くあるのだ。」
ヘンリーは、筆頭貴族マクスウェル公爵として、当然の威厳は備えている人物であった。しかし、元々の性質が温厚で義理堅く、身分に寄らず、人を人として扱うところがあった。
「公爵閣下、問題ありません。」
「ええ、我々もご報告できていないことが、まだ多くございます。」
ファンやアンナが答えた。
「アルバートの書状には目を通した。まずは、ノーマン殿。イーリンの命を救ってくれて感謝する。」
ヘンリーだけでなく、ソフィアやクリスにまで頭を下げられ、ノーマンは恐縮した。
「いえ、当然のことをしたまでです。」
「……あと、ウェナムという薬について、あなたから詳しいことをお伺いしたいのだが。」
「分かりました。」
ノーマンは、マクスウェル家の人々に、ウェナムについての説明をした。
正しく使えば良い薬であるが、悪用された場合、人の理性を失わせること。また、身体が慣れると『癖』になるため、切れたときの苦痛が強く、ウェナムを渇望するようになること。
「ふむ……。それが、バクスター家にあるということか……。」
アルバートの書状には、かつてバクスター家がウェナムの製造を試み、失敗に終わったことも記してあった。
「ウェナムについては、言われてすぐに調べましたがね。記録上、我が家でもいくつかの取り扱いはありましたが、まとまった量を購入したのは、ボンベルグ家くらいです。」
クリスが言った。ウェナムは、そもそもが高価な薬であり、ほとんどが少量ずつの取り扱いなのだそうだ。末期の病気の痛みから逃れるため、裕福な貴族がたまに購入するのだが、量は知れているし、誰が使っているかも把握できているという。
「うちが関わっていない以上、あの娘が手に入れられるのは、そのウェナムくらいしか心当たりはないな。」
ヘンリーは難しい顔をした。ノーマンも、「やはり」と一言言うと、嘆息をもらした。
「私からも、聞きたいことがあるのだけど。」
クリスが、イーリンの方を向いて尋ねた。
「叔父上の書状には、イーリンたちがボンベルグ領を出て、森へ向かったと書いてあった。本当に、森を抜けてきたのかい?」
クリスは、にわかには信じられない様子だった。街道は王家の兵がいて危険だが、普通に考えると、森も安全だとは言えない。
「ええ。お兄様。」
「その……、森の主がいるとか。」
「その通りです。森の主様はおられました。」
イーリンが、森に入ってからのことを話した。『昏き森』には、森の主であるシルウァがおり、そのそばで数名の人々が生活していること。彼らはシルウァに『美しい人』と呼ばれ、悪意の少ない清らかな人間たちであること。
ピーターが、イーリンの話につけ加えて言った。
イーリンは『美しい人』の中でも格別で、シルウァに愛されている様子であったこと。森で暮らすように誘われたが、イーリンは断ったこと。
「何度も、お嬢様を助けたいと言われていたのですよ。」
「森の主が、自らイーリンを……。」
イーリン自身は、自分が『美しい人』と言われてもぴんとこないのではあるが、ピーターがあまりに熱をもって話すので、何となく面映ゆい気持ちであった。
「これが、シルウァ様にいただいた指輪です。」
イーリンは手を差し出し、自分の指にはめられた、木の指輪を見せた。ヘンリーを始め、ソフィアやクリスが、指輪を覗き込む。
「これは……。飾りはないが、美しい。それに、心が洗われるような香りだな。」
「それに、なんだか存在感があるわ。なぜかしら。」
「シルウァ様は、自分の一部を込めた、とおっしゃっていました。」
「まあ、そばで見守ってくださっているのね。」
ソフィアが目を丸くした。自分の娘が清らかで愛される性質なのは知っていたが、森の主までに愛されるとは、想像もしていなかったことだった。
「シルウァ様には、多くのことを教えていただきました。」
ファンが口を開いた。そして、シルウァに教えてもらったことを、ひとつひとつヘンリーたちに説明した。
「シルウァ様によると、世の中には、人に対する愛や思いやりを『持たない人々』がいるそうです。彼らには、良心がありません。」
シルウァは言った。彼らにとって、人は支配されるか、支配するかだ。その欲求を満たすため、人の世の決まりは守れない。
「彼らは『悪魔』を作り出して崇拝します。そのために、恐ろしい儀式を隠れて行うことがあるそうです。……王都で殺された人々は、その犠牲になったのだと言われていました。」
「なんと……。」
「それだけではないのです。」
シルウァは、『美しい人』たちが壊されていくことを悲しんでいた。『美しい人』たちは、相手を恨むことがない。自分のために、人を攻撃することなど考えられない。だから、他者の悪意に対して、戦う力がきわめて弱い。
シルウァは、イーリンはその中でも『ひときわ美しい』と言った。そして、『戦う力を持たない』と。
「なんと……。イーリンは、その性質ゆえに、身を守れないというのか。」
しかし、ヘンリーやソフィアにも心当たりはあった。
ヘンリーに泣きながら相談したときでも、イーリンは身を削るまで我慢していた。そして、マクスウェル領で療養していたときでも、一言もアーサーやキャサリンへの恨み言を言わなかった。
そして、殺されそうになった今でもなお、イーリンは相手を怖がることはあっても、攻撃しようとはしない。家族は、彼らに対して、殺したいほどの強い憎しみを抱いているというのに。
ヘンリーは、片手を額に当て、天を仰いだ。
「私は、失敗したのだな。やはり、あの男との婚約など結ぶべきではなかった。イーリンには、ふさわしい相手をちゃんと選ぶべきだったのだ。」
「お父様、そんな。」
ヘンリーの言葉に、イーリンは慌てた。アーサーとイーリンの婚約には、多くの政治的な意図が絡んでいた。ヘンリーの一存でどうにかなる話ではなかったはずだ。
(私が、至らないせいで……。)
自分が、抵抗できる能力を持って生まれてくればよかったのだ。父親は何も悪くない。
──自分に『持たない人々』を責める資格があるのだろうか? 大事なものを持っていないのは、自分も同じではないのか。
イーリンの頭の中には、そんな考えがぐるぐると回っていた。
そこに、ソフィアの声が飛び込んできた。
「あら、そんなに難しく考えることじゃないわ。あなた。」
お読みいただいてありがとうございます。次回は、ファンの話に移っていきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




