40 離れたくない
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
マデライン・ギーベル:王妃、アーサー達の母
ブラム・バクスター:侯爵、王妃マデラインの兄
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
リーデン伯爵:キャサリンの後見
エリザ・リーデン:リーデン伯爵夫人
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
シルウァ:『昏き森』に存在する森の主
『私はあなたに、ここにいてほしいのだ。』
森の主シルウァは、イーリンにそう願った。しかし、イーリンは、シルウァをしっかりと見つめ返して答えた。
「シルウァ様、申し訳ありません。私は、ここにはいられません。」
「どうして?」
シルウァは、微笑んでイーリンに問うた。
「私は、マクスウェル領に帰らなくては。」
家族が心配しているし、色々な情報を伝える役目もある。自分だけが守られているわけにはいかない。
「帰ってもいいんだよ。一度帰って役目を果たしたら、またここに戻ってくればいい。そうしたら、あなたは安全だ。」
「でも……。」
今度は、イーリンは少し動揺した。イーリンの心には、役目のことだけではなく、別の考えもあった。
「その……。」
──離れたくない人がいる。
シルウァに手を取られたまま、イーリンは真っ赤になっていく。シルウァは、それに気づき、くすくすと笑った。
シルウァは、ファンの方にくるりと向き直った。
「ねえ、君。ファンと言ったかな。」
「はい?」
シルウァが急に自分の名前を呼んだので、ファンは驚いた。シルウァは、にこにことして言う。
「イーリンは、君とよほど離れたくないようだよ。君はどうしたい?」
「……。」
この国は、森の主までがお節介なのか、とファンは思った。イーリンは、もう耳まで赤くなっている。
アンナやピーター、ノーマンまでが、ファンの方を向いて、何か言いたげな視線を送ってくる。ファンは、軽くため息をついた。
「私は、イーリン様にお供しますよ。」
ファンは、はっきりと答えた。彼女が森にいたいと言うのなら、自分も一緒にいよう。それは、もうすでに決めたことだ。
しかし、当のイーリンは驚いた顔をして、首をふるふると振った。
「いけません。それならば、私はなおのこと、ここにはいられません。シルウァ様、ありがたいお話だとは思いますが、私はマクスウェル領に帰ります。」
「ここを出たら、また捕まって、恐ろしい目に遭うかもしれないのだよ。」
「分かっております。でも……。」
──ファンに、外の世界を捨てさせるわけには。
「……イーリンらしい答えだ。仕方ないね。」
シルウァは、少し寂しそうに笑った。
「でもね、気が変わったら、いつでもここにおいで。歓迎するから。」
シルウァは、優しくイーリンに言った。森の人々も、穏やかな顔で頷いている。
では、この話は終わりだね、とシルウァは言った。
「そうだ。イーリンたちに、渡したいものがあるんだよ。ねえ、君たち。悪いけど、持ってきてくれるかな。」
シルウァが森の人々に声をかけると、彼らは親指くらいの大きさの木の珠を、いくつか持ってきた。そして、1人ずつに配っていく。
「これはね、この森の木でできた珠だよ。これを持っていれば、君たちなら通してあげるから、なくさないでね。」
「すみません、これ、ちょっとびりびりするんですけど。」
手のひらに珠を乗せてもらったまま、ピーターが言う。
「ふふ。ここと同じ性質を持っているからね。君たちの悪意が増えたら、嫌がって消えてしまうよ。」
「うわあ……。」
ピーターは、自信なさげだ。
シルウァは、森の人々から何かを受け取り、イーリンのところに歩いてきた。
「イーリンにはこれも。私の枝で作った指輪だよ。」
「指輪……ですか?」
シルウァは、イーリンがそれ以上何かを言う前に、すっとその指に指輪をはめた。なめらかに磨かれた指輪は、吸い付くようにイーリンの指におさまった。
「まあ。」
単純な形だけれど、深みのある優しい色をしていて、まるでシルウァの肌の色のようだった。また、指輪からは、シルウァと同じ清爽な香りがした。
「ありがとうございます。」
イーリンがシルウァにお礼を言うと、シルウァは、そのままイーリンの手を持ち、指輪に口づけをした。
「あの……。」
シルウァが唇を離すと、指輪の香りが強くなり、その存在感が増したようだった。
「私の一部を吹き込んでおいたよ。これで、私はいつもあなたのそばにいる。何かあったら、指輪に話しかけてね。」
ピーターは、少し離れて見守るファンの脇腹を、肘でそっとつついた。
「おい。いいのか、あれ。」
「……いつか、外します。」
ファンは、真顔のまま、表情を変えずに答えた。
木の珠を全員がしまい終わると、シルウァは皆を見渡した。
「さあ、他に聞きたいことはないかな。」
「私から、よろしいでしょうか。」
ノーマンが手を挙げ、発言した。
「もちろんだ。何かな?」
「我々が、かつて作った薬のことです。」
ノーマンは、ウェナムの試作品について聞きたいようだった。
「ああ、あれか。今、あれを使って悪さをしているものがいるのだったね。」
「ご存知なのですか。」
「この国のことくらいなら、知ろうとすれば大体はね。」
シルウァの力の及ぶ範囲は、昏き森の中くらいにとどまるらしいが、知識や情報などは、植物や動物などの生き物を通して入ってくるのだという。
「あの薬は、なぜ失敗したのでしょうか。」
「……早すぎたのだよ。君たちが間違えたわけじゃない。」
「早すぎた……。」
「生き物というのはね、馴染むのに時間がかかるものだ。別の国から持ってきたものが、まだこの国の土に馴染んでいなかっただけなのだよ。」
慣れない苦しさは、ノーマンたちも、昨日嫌というほど体験した。あんな状態であれば、植物は毒をも吐き出すかもしれない。
「だから、時間をかけることができていれば、この国の人に合った薬ができていただろう。……あの領主は、急ぎすぎてしまったようだが。」
シルウァは、その後の顛末も知っているのだろう。少し悲しそうな顔をした。イーリンの指輪からも、同じような感情が感じられた。
「あの薬は、今どこにあるのでしょうか。」
「王都にあるみたいだね。あの娘が一部を持っている。」
ノーマンは、額に手を当て、天を仰いだ。やはりキャサリンは、バクスター家からウェナムを手に入れていたのだ。
かつてノーマンは、医術の発展のため、ウェナムの製作に関わった。しかし、その試作品を悪用されたことは、ノーマンにとって、非常に悔しいことだった。
しかし、イーリンたちには、まだ疑問があった。
キャサリンは、どうやってバクスター家とつながったのだろう?
没落しかけているとはいえ、現王妃の生家である侯爵家だ。キャサリンがウェナムを使い始めたのは、伯爵家の養女となる前である。男爵令嬢が、高位の貴族とつながりを持つことは、きわめて難しい。おまけにバクスター侯爵は、社交界にほとんど出てこない。
「王妃陛下……?でも、王妃陛下も、ほとんど出てこられないわ……。」
王太子の婚約者であったイーリンですら、ほとんど王妃と会ったことがないのだ。少なくともここ1年くらいは、王妃は全く表に出てきていない。
そんな状態で、ただの男爵令嬢であったキャサリンと、会う機会があったとは思えない。
イーリンの言葉を聞いて、シルウァが何かを思い出したように言った。
「王妃……? ああ、マデラインか。可哀想な子だったね。周りがもっと優しければ、あんなことにはならなかったのに。」
「王妃陛下に、何かあったのですか?」
シルウァの言葉に違和感を感じ、イーリンは尋ねた。アンナやピーターも、にわかに緊張している。
シルウァは、不思議そうな顔をして言った。
「おや、イーリンたちは知らないのかい? マデラインは、自ら命を絶っただろう。」
「えっ……。」
全員が言葉を失った。
王妃が崩御されたなど、聞いたことがない。しかも、そのような形で。
しかし、シルウァははっきりと、『マデライン』と言った。
「それは、いつ、いつのことなのですか。」
イーリンの知る王妃マデラインは、線の細い、物静かな女性だった。いつもうつむき加減で、憂いを帯びた瞳をしていた。
「君たちの時間でも、そんなに最近の話ではないよ。ええと……。季節が一巡りするくらい前ではないかな。」
──1年前。
それは、王妃が全く姿を現さなくなった時期と重なる。そしてそのころ、キャサリンは、あの薔薇園の前に現れた。
その後、リーデン伯爵はおかしくなり、イーリンが黒幕だと叫ぶ男が現れ、エリザは亡くなった……。
イーリンの顔色が悪くなったのを見て、ファンが駆け寄ってきた。
「ふむ。イーリンたちには、知らされていないことだったのだね。……おや。」
シルウァは、しばらく目を閉じてじっとしていたが、何かに気づいたように、ふと目を開けた。
「マデラインの魂は、まだこちら側にあるみたいだね。」
お読みいただいてありがとうございます。次は、王妃の話に入っていきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




