39 美しい人
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの元婚約者
キャサリン・パー(リーデン):王太子の現婚約者、元男爵令嬢、現在はリーデン伯爵の養女
シルウァ:『昏き森』に存在する森の主
シルウァは、人々に「後を頼むよ」と言って、姿を消した。シルウァと話しているうちに、徐々に陽は落ち、明るかった泉の周りは薄暗くなってきていた。
シルウァがいなくなると、ピーター達は動けるようになったが、まだぐったりとしていた。
森の人々は、ピーター達の身体をさすり、水を飲み、果物を食べるよう勧めた。そして、泉の周りに木の葉で寝床を用意してくれた。
「あなた方は、どうしてここにいらっしゃるのですか?」
イーリンが尋ねると、彼らは、自分たちがどのようにして、ここまでたどり着いたのか教えてくれた。
「私たちは、自分から森に入ったのです。」
小さなころから、森に惹かれる気持ちはあった。それは大きくなるにつれて強くなり、ある日、周囲の反対を押し切って森に入った。
そうしたら、昏き森の入り口で、狼に出会った。狼には恐ろしさを感じず、後ろをついていくと、泉に着いた。
「まあ、今日の私たちと同じですね。」
イーリンは、微笑んで森の人々に言った。
ファンは、マクスウェル城の回廊で、イーリンに会ったときの様子を思い出した。彼女は、森を見て、そこから離れることを悲しみ、泣いていたのではなかったか。
森の人々によると、あの狼は、シルウァの使いのようなものだという。シルウァは基本的に、あの巨木からは離れないが、森の植物や動物たちを使って、その意思を示すことがあるそうだ。
「まあ、私、シルウァ様とあの狼さんに、改めてお礼を言わなくては。」
森で刺客に襲われたとき、刺客の1人はなぜか草に足を取られ、森の中では木々たちがイーリンを隠すようにしてくれた。あの狼がいなければ、イーリンはアンナたちが来るのに間に合わず、捕まってしまっていただろう。
あれは、シルウァが助けてくれていたのだ。
明日、もう一度狼さんに会えるかしら、とイーリンが考えていると、人間たちの1人が教えてくれた。
「ここでは、ただ、念じればよいのですよ。そうすれば、シルウァ様にも、狼にも、イーリン様のお気持ちが伝わります。」
「まあ、そうなのですか。」
イーリンは、心の中で、シルウァと狼に感謝の念を伝えた。そうすると、
⦅構わないよ。愛しいイーリン。⦆
と、いうシルウァの言葉と、喜んでいるような狼の感情が、頭の中に伝わってきた。
「ぎゃあああ。」
ピーターの悲鳴が響く。
ピーターやアンナも、イーリンを助けてくれたことに対する感謝を、心の中でシルウァに伝えていた。しかし、頭の中に直接届くシルウァの言葉が、まだ彼らには強すぎたようだった。
ファンも、また少し額に汗をかいている。
⦅悪かったね。⦆と、おかしそうに笑うシルウァのイメージが、それぞれの頭に伝わった。
森の人々と話しているうちに、夜になって真っ暗になったはずなのに、なぜか周りの様子が見えるようになった。
ピーターたちも、『昏き森』に入ったときから感じていたびりびりとした感覚がなくなり、森の空気の清涼さを心地良く感じるようになってきた。
「ああ、そうなってくれば、もう苦しくはならないですよ。」
ここのものを身体に取り入れ、それが馴染んでくれば、シルウァの放つ強い力を受け流せるようになるのだと、森の人々は教えてくれた。
「何だか、自分まで『美しい人』になった気がしますよ。」
ピーターのいつもの軽口も、戻ってきたようだった。
森の中の夜は、意外と快適で、一行は久々にゆっくりと眠った。小鳥のさえずりで目を覚まし、森の人々が持ってきてくれた果物を朝食にした。
片付けも終わり、落ち着いたころ、
「さて、話の続きをしようか。」
と、シルウァの声が響いた。
シルウァは、昨日と同じ、大きな岩の上に座っていた。
ピーターたちは、全く平気というわけではないものの、話せる程度くらいまでは、シルウァの声に慣れたようだった。
「大分、馴染んだようだね。君たちも、遠慮なく聞きたいことは聞くといい。」
「頭の中に直接返事をされるのは、勘弁していただけますか。」
「ははは。そうしよう。」
ピーターは、昨日のことが、かなりこたえたらしい。
「昨日は、『美しい人』の話をしたのだったね。」
シルウァは、イーリンに微笑んだ。
シルウァの言う『美しい人』とは、悪意の少ない、清らかな人々のことである。
昨夜、年上のボンベルグ兵が言っていた。ここにいる知り合いは、小さな頃から心優しい善人だった。人を傷つける兵士にはなれそうになく、武勇を尊ぶボンベルグで生きていくのが、つらそうであったそうだ。
「イーリンは、その中でもひときわ『美しい』。」
イーリンは、そう言われても、自分ではよく分からない。しかし、アンナやピーターは、シルウァの言葉に納得しているようだ。
「君たちも、感じているのだろう。イーリンに、人に対する悪意が全くないことを。」
ファンが、真剣な顔つきになった。イーリンは、慌ててシルウァの言葉を訂正する。
「あの、でもシルウァ様。私、嫌だとか、怖いとかは感じます。その……。」
──アーサーや、キャサリンは怖い。できれば、近寄りたくない。嫌だ、という気持ちがないと言ったら嘘になる。
「イーリン。それは、危険な目に遭った者が感じる、自然な感情だ。誰に責められるものでもない。私が言っているのは、人を恨んだり、傷つけようとしたりする心のことだよ。」
「恨んだり、傷つけたり……。」
イーリンは、シルウァの言葉が理解できないでいる。シルウァは、にっこりと笑って続けた。
「イーリン。あなたは、アーサーたちを嫌だと思うかい?」
イーリンは、「はい。」と言って、こくりと頷いた。
「彼らのせいで、怖い目に遭ったのだろう?」
イーリンは、もう一度こくりと頷いた。
「じゃあ、正直に言うのだよ。彼らにも、同じように酷い目にあってほしいと思うかい?」
「えっ、なぜでしょうか……?」
イーリンは驚いて、シルウァを見つめた。なぜ、シルウァは、そのような恐ろしいことを言うのだろう?
「同じ苦しみを味わわせたいとは思わないのかい?」
「嫌だと思うのは、私の心です。怖いので、身を守りたいとは思います。でも、私と同じように酷い目に? どうしてでしょうか……。」
「やられたままで、悔しいとは思わないのかい?」
「悔しい……? ええと……、申し訳ありません。私には、分かりません。」
イーリンは、肩をすくめてしゅんとした。
今度は、ファンたちの方が驚いた。イーリンには、本当にシルウァの言っている意味がわからないのだ。
シルウァは、ファンたちの方を見た。
「分かるかい? イーリンたちのような人は、人を恨むことができない。」
アンナもピーターも、これまでのことを思い返してみた。
確かにイーリンは、アーサーやキャサリンを怖がっていたが、ただ、それだけだった。命を奪おうとした彼らに対し、恨み言を言ったり、仕返しを考えたりすることは、全くなかった。
「『美しい人』は、戦う力を持たない。自分を犠牲にして、壊れてしまったり、死んでしまったりすることが多いのだ。」
イーリンも、壊れかけていた。アーサーを愛せない自分を責め、心に蓋をし、優しい父親にすら訴えることをためらっていた。
「私は、『美しい人』が好きなのだよ。長い時の中で、彼らは私にとって、きらきらと光る宝石のようで、生きる力を与えてくれる。」
シルウァは、穏やかな優しい笑顔を浮かべて、イーリンと森の人々を眺めたあと、すぐに悲しそうな目をした。
「それなのに、彼らは、悪意の中で簡単に壊れてしまう。それが私は、残念でならない。」
シルウァは、岩の上から姿を消し、イーリンのそばに現れた。ピーターたちが、ちょっと身構える。
「だから、私は彼らを森に呼んだのだ。壊れる前に。」
シルウァは、イーリンの手を取り、緑色の瞳でじっと見つめた。シルウァの美しい顔が近づき、イーリンはどきどきとする。
「イーリン。彼らのように、ここにずっといる気はないかい?」
(私が、ここで過ごす……?)
「私はあなたに、ここにいてほしいのだ。ここなら、私の力の及ぶかぎり、あなたを守ってあげられる。」
「シルウァ様……。」
しんとした森の中、シルウァの言葉だけが響いた。
森の主と呼ばれるシルウァが、乞うような瞳で、イーリンに頼んでいる。イーリン以外の者は、その様子をただ見守っていた。
お読みいただいてありがとうございます。もうしばらく、森でのお話が続きます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




