38 シルウァ
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
アンナ:イーリン付きの侍女兼マクスウェル家の斥候
ピーター:マクスウェル家の庭師兼斥候
ファン:イーリンの兄クリスの従者、隣国の公爵ヴィルターの紹介でギーベル王国へ
ノーマン:ボンベルグ領の軍医
シルウァ:『昏き森』に存在する森の主
⦅ようこそ、美しい人。さあ、こちらへおいで。⦆
「声が……。」
「まさか、本当に……。」
皆が口々に「まさか」とつぶやく。お互いの顔を見合わせ、自分の耳に聞こえたものが、隣の者にも聞こえていたのかどうかを確かめる。
『森の主』とは、いわば伝説である。イーリンの言うことを疑っていたわけではないが、アンナやピーターでさえも、実際に『森の主』が現れるかどうかについては、半信半疑であった。
⦅その狼が案内してくれる。ついておいで。⦆
「森の……、主様……。」
声は、以前にイーリンが聞いたものと同じように、優しかった。まるで『昏き森』自体が一つの生き物であるかのように、木々の全体がざわめいて、声を出しているかのようだった。
狼はイーリンたちの前で立ち止まったかと思うと、くるりと振り向き、やってきた方向へと歩き出した。
「行きましょう。」
イーリンたちは、『昏き森』の中へと進み、狼の後ろについていった。
聞いていた通り、『昏き森』に入ると木々は太く、高くなった。広がる枝と繁る葉が空を覆って、陽の光はほとんど入らなくなった。暗い森の中、狼の毛は銀色にぼんやりと美しく光り、周りをほのかに照らした。イーリンたちは、その光を追いながら歩いた。
道のりは平坦ではなかったが、木々の枝や背の高い草は、イーリンたちが通ろうとすると、避けてくれるかのように、自然に左右に分かれていった。
しばらく歩くと、地面にはごつごつとした大きな岩が増え、水がさらさらと流れる音が聞こえてきた。そして、すっと鼻に通るような、清爽な香りが、どこからか漂ってきた。
人が入らず、静かでしんとした森の中は、清浄な空気に包まれていた。
「なんだか、びりびりとする。」
ピーターは、ぼそりと言った。
ファンも、同じものを感じていた。これは、『昏き森』の中が、あまりにも清浄であるためだ。
ファンたちは、森に対して明らかな悪意などは持っていない。しかし、この清浄さは、人間のやましい心を、否応なく暴き立ててしまう。そのため、「自分はここにふさわしくないのでは。」という威圧感や、「自分はここにいていいんだろうか」という、居心地の悪さを感じるのだ。
しかし、イーリンは、この雰囲気に気圧されている様子はなかった。昨日よりも長く歩いているのに、あまり疲れも感じていないようであった。
ある地点で、前を歩いていた狼の足が止まった。狼のそばまでイーリンたちがたどり着くと、そこには澄んだ水を豊かにたたえた、大きな泉があった。
泉の上には木々の枝がなく、ぽっかりと空いているため、空からの陽の光が届いて明るかった。周囲には、イーリンの背よりも高い岩があちこちに見られた。
そして、泉の向こう側には、ひときわ太く、背の高い、一本の巨木が生えていた。先程の清爽な香りは、その木からのものであるようだった。
「よく来たね、美しい人。少し、休むといい。」
先程と同じ声が響いたが、今度は、もっと近くから聞こえた。
イーリンたちが周りを見回すと、いつの間にか、巨木の前に一人の人がいた。
その人の背はファンよりも少し低いくらいであり、顔だちは整っているが、女性とも男性ともつかぬ身体つきをしていた。肌はよく磨かれた木のようにつるりとしていて、やわらかな色をしており、深い緑色の瞳で、イーリンたちを優しく見つめていた。
「森の、主様。」
目の前に現れた人の、その荘厳な美しさに圧倒され、イーリンたちは思わず跪いて首を垂れた。
「ああ、堅苦しいことはいいよ。その辺にお座り。何か、君たちに合うものでも用意してもらおう。」
驚くことに、岩陰からぱらぱらと何名かの人々が現れた。年老いた者も、若いものもおり、その人たちは確かに人間のようだった。彼らは、木々の間に姿を消したかと思うと、木で作られた食器などを持って戻ってきた。
「お前は……。」
ボンベルグ兵の1人が、驚いた顔をしている。どうやら、見知った顔を見つけたようだった。
人々はイーリンたちが座る場所を整え、水や果物を用意してくれた。イーリンたちは促されるままに、そこに座り、用意されたものを受け取った。
森の主は、イーリンたちのそばにある、一つの岩の上に座った。そして、イーリンに話しかけた。
「よく来てくれたね。美しい人……、名前は、イーリンだったかな。」
イーリンは、自分の名前を呼ばれて驚いた。
「森の主様は、私の名前をご存知なのですか。」
「ふふ、私のことは、シルウァと呼んでおくれ。長く生きていると、色々なものが見えて、知ることができるのだよ。」
シルウァは、イーリンに優しく微笑んだ。
イーリンは、緊張はしているものの、特に問題なくシルウァと話すことができていた。
しかし、他の者たちは違っていた。
自分たちの近くから発せられる、シルウァの言葉ひとつひとつは、彼らにとって、まるで真っ白な強い光の塊のようであった。それが届くたびに、しびれるような衝撃が身体を突き抜け、何者かに押さえつけられるように、ただひれ伏すことしかできなくなっていた。
その中でファンだけは、何とか動くことができているようだった。
シルウァは、その様子に気が付き、
「ああ、いけない。君たちは、もう少し慣れないとつらいね。ねえ、手伝ってあげてくれるかな。」
と言って、近くにいた人間たちに声をかけた。そして、ファンの方を向くと、微笑んで言った。
「君は、大丈夫そうだね。」
「……そこまで、平気なわけではありませんが。」
(ファンも、何だか苦しそう……?)
ファンも、じっとりと額に汗をかいており、平静を保つには努力が必要なようだった。
イーリンは不思議に思った。
──なぜ、自分だけが普通にしていられるのだろう?
苦しそうな仲間たちを見て、イーリンはおろおろとしていた。
「ふふ、イーリン。その話は、後で教えてあげる。皆は大丈夫だよ。ここの水を飲んだりしていれば、次第に慣れるから。」
人間たちは、アンナやピーターたちの背中をさすり、彼らが持ってきた水を飲ませてくれた。ここにいる人間たちの顔つきは、まったく善良そうであり、本当に心配をして、アンナたちの世話をしてくれているようだった。
「私は、イーリンのそばにいたいのだけど……。イーリンは、皆が心配だろうから、私は少し離れるね。」
そう言って笑うと、シルウァは姿を消し、すぐに大きな岩のてっぺんに現れた。
(まあ、やっぱりこの方は、人間ではないのだわ。)
イーリンには、何となく、シルウァの本体はあの巨木なのではないか、と感じられた。シルウァからは、巨木と同じ、清爽な香りがした。
しばらく休むと、アンナたちは少し口がきけるようになった。
「ああ……。息ができなくなるかと思った……。」
「何だこれ……。」
アンナたちは、はあ、と息を吐き出し、ぐったりとしていたが、さっきよりは楽になったようだった。皆が何とか動けるようになったのを見て、イーリンはほっとした。
「少し慣れたようだね。さて、何から話そうかな。」
シルウァは、岩の上に座ったまま、穏やかに笑って言った。
イーリンは、シルウァの方に向き直り、膝をついて頼んだ。
「シルウァ様。私、ここを通って、マクスウェル領まで行きたいのです。ご許可をいただけませんでしょうか?」
シルウァは、優しく笑う。
「もちろん、それは構わないよ。イーリン。でもね、君たちは、ここでまだ色々知るべきことがある。」
「知るべきこと……ですか。」
「ほら、例えばね、この人間たちのことは気にならないかい?」
シルウァは、世話をしてくれた人間たちを指した。
確かに、彼らはなぜ、この『昏き森』の中にいるのだろう?それに、彼らはシルウァが話していても平気そうにしている。
「それは……。」
「彼らもね、また、『美しい人』なのだよ。イーリンほどではないけれどね。」
「『美しい人』……ですか。」
それは、どういう意味なのだろう。シルウァが言っているのは、姿形のことではなさそうだ。
「シルウァ様、『美しい人』というのは、どういう人間のことなのでしょうか。」
ファンが、シルウァに尋ねる。ファンは、先程よりも大分楽になったようで、なめらかに話すことができていた。
「そうだね。私の性質はね、清らかなものを好む。ただ、それだけなのだけど。」
シルウァは、うーん、と考える様子を見せた。そして、岩の上からひらりと飛び降り、泉の上に立った。そのつま先から、水面にふわりと波紋が広がる様子は、シルウァにほとんど重さがないことを教えてくれた。
「まあ。」
イーリンが、その様子に目を丸くしていると、シルウァは、そのまま片手ですっと水をすくった。それから、もう片方の手で、その水を愛おしそうに、そっと撫でた。
「私にとって、美しいと感じるのは、愛や思いやりのような、人が人を慈しむ心だ。これは、ほとんどの人が持っている。」
シルウァは、少し悲しそうな顔をした。そして、手の中の水をさらさらとこぼした。
「私と相容れないものは、人に対する悪意だね。恨み、妬み、嫉み……。これが強いと、美しさが霞んでしまう。」
シルウァは、泉の上を、木の葉が流れるように優雅に歩き、イーリンの方までやってきた。イーリンの手をすっと取り、その甲にそっと口づけをした。
「イーリン、私の糧。」
「シルウァ様……? あの、どういう……。」
イーリンが戸惑っていると、ファンが少し焦った様子で、シルウァに尋ねた。
「シルウァ様。では、『美しい人』とは……。」
「そう、悪意の少ない、清らかな人々のことだ。」
だから私は、イーリンを愛しているのだよ、と、イーリンの手を取ったまま、シルウァは言った。
そこに、苦しそうなピーターの声が、聞こえてきた。
「シルウァ様……。申し訳ありません…………。」
イーリンが振り向くと、ピーターたちは、また動けなくなっていた。
「お嬢様…、ファン……。俺たち、まだちょっと無理かも……。」
ピーターが、真っ青な顔で訴える。アンナや、ノーマンたちも、必死で頷いている。『昏き森』の人々たちは、心配そうな様子で、彼らの身体をさすっていた。
シルウァは、イーリンの手を離し、笑って言った。
「あはは。これは、すまなかったね。また近寄りすぎてしまったようだ。まずは、ここで一晩過ごしなさい。明日、話の続きをしてあげよう。」
「ここに、一晩……。」
ピーターたちは、げんなりした様子で、何とか声を絞り出していた。
お読みいただいてありがとうございます。もう少し森の場面は続きます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。




